マニラのeそよ風

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第365号 2006/11/15 証聖者大聖アルベルトの祝日

聖アルベルト

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 教皇様のための霊的花束を兄弟姉妹の皆様からたくさん戴きました。日本の兄弟姉妹の皆様からは合計で3478環集まりました。たくさんのロザリオの祈りをありがとうございます。感謝します。教皇様もお喜び下さると存じます。

 さて、11月1日は諸聖人の祝日でしたが、元仙台司教の浦川和三郎司教様が長崎神学校校長であった時の説教集を選定して出版された『祝祭日の説教集』の「諸聖人の祝日」の部分を父がタイプ打ちしてくれましたので、兄弟姉妹の皆様にご紹介致したいと思います。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 一 日

(一) 諸 聖 人 の 祝 日

(1)-今日は諸聖人の祝日であります。聖会の暦をくり拡げて見ますと、一月一日から十二月三十一日まで、三百六十五日間、殆んど聖人等の御名を以って埋って居ると云っても差支えない位である。然し暦に載って居る方ばかりが聖人であるかと云うに、然(そ)うではありません。

 天国はそんなに寂しい所でない、聖人の数はそんなに少ないものでない。暦には漏れて居ましても、聖人と尊び崇(あが)めねばならぬ方々は幾億万と挙げて数うべくもないのである。聖ヨハネの黙示録には「誰も数うること能はざる大群衆を見しが・・・白き衣を着し、手には棕櫚の葉を持ちたり」(黙示録六ノ九)と記してあります。即ち洗礼を受けて、神の愛子(あいし)となり、その御前(みまえ)にも人の前にも、立派に身を修め、幸福な死を遂げて天国に昇った方々は、皆聖人である。

 そこで斯ういう聖人等の為にも祝日があって欲しいものだと云うので、聖会は十一月一日を以って是等,無数の聖人等を讃め尊ぶこととしたのであります。我々は是非とも天国に昇りて彼の聖人等の列に加はらなければならぬのですから、特別の熱心を以って今日のこの祝日を祝い、先づ天国とは如何なる所であるか、次に聖人等は何うしてこの天国に昇られたかと云うことを、静かに考えて見ることに致しましょう。


(2)-天国とは如何なる処であるか ー 天国とは苦しみや禍が一つもなく、かえって有(あら)ゆる福楽の充ち溢れて居る処であります。

 何方(どなた)も御存じの通り、この世は涙の谷でございまして、寒さや暑さや、餓え渇きや、病の苦しさ、貧の辛さや等涙を溢(こぼ)さねばならぬことが随分多いものである。然るに天国には暑さもなければ寒さもない、餓渇きを覚えることもなければ、貧に悩む気遣い、病に苦しむ憂いもない。我々の足が一たび天国の門を潜(くぐ)りますとすべての涙は綺麗に拭き取られる。もう泣くにも及ばぬ、嘆く必要もない。却って云うに云われぬ幸福を楽しみ、喜びに踊るのである。無上の善にして、最高の美、限りもなく愛すべき天主を眼前に仰視(あおぎみ)その天主を我(わが)有(もの)として、何時迄も何時迄も楽しむとは、実に何と云う幸福の至りでございましょうか。

   「神が之を愛し奉る人々に備え給いしこと、目も之を見ず、耳も之を聞かず、人の意にも上らざりき」(コリント前二ノ九)と聖パウロも曰(い)って居る位であります。


(3) - 今日天国の聖人等は皆斯う云う福(たの)楽(しみ)を擅(ほしいまま)にして居られる。思えば思えば羨ましい次第ではございますが、然し必ずしも聖人等の身の上を羨むにも及びません。我々も聖人等の踏み分けなさった道を進んで行きさえすれば、一度は必ず彼の楽しい天国え辿り着くことが出来るのであります「我(わが)父(ちち)の家(い)住(え)に所(すみか)多(おお)し」(ヨハネ十四ノ二)と御主(おんあるじ)は宣(のたま)うた。随って誰でも、又幾何(いくら)でも天国には昇れる、聖人等に与えられた福楽は、我々にも約束されてある。天主が我々に、罪を犯すな、善を励め、掟を守れ、熱心に務めよ、と命じ給う時は、固(もと)より天地万物の御主、我々の造主にて在(ましま)すのですがら、御褒美なんか何一つ下さらずとも、我々は飛び立つて御命令に従はなければならぬはずである。然し天主様は決して善業のために善業を行えとは命じ給わぬ、我々が僅かな罪を避け、小さな善を行いましても、一寸した御誡めを守り、一寸した信心の務めを果たしましても、一々それに酬い、立派な御褒美を下さるのであります、で我々は始終この大なる天国の福楽を打眺めて、我と我が身を励まし、善の道に突進しなければなりません。

 然るに今迄の我々を振り返って見なさい、天国の福楽の終なきことを信じて居るとは云いながら、全く之を知らない、信じない異教者見たように、誰だ誰だ浮世の財宝や快楽にばかり心を奪われて居たことはありませんか。天主の御勧めにはなるべく従うまい、信心の務めならば、なるべく御免を蒙ろうとするが、浮世の事になると、一も二もなく之に従い、飛び立って遣(や)って退(の)けます。浮世が瞬く間に過ぎ去る夢のような財宝なり、快楽なりを示してさし招きますと、何も彼も忘れて其の方え走り出し、骨身を砕いても厭いませんが、天主が窮(きわま)りなき天の幸福を掲げて手招き下さっても、容易に腰を立てようとはしません。

 英国のヘンリー八世王が聖会に背きました時、大臣のトマス・ムーアは王に従わなかったので、終(つい)に牢獄に打込まれました。或る日のこと奥方が見舞いに参りまして、トマスの足下に平伏し、「何うぞ王様の仰しやる通りにして、生命を保って下さいまし」と涙を流して連りに願いました。

「王様に従ったら、幾年ぐらい活き伸びること出来ると思うかね」

とトマスは尋ねました。

「少なくも未だ二十年は大丈夫でございますよ」

「さうか、たとえ百年も生き伸びることが出来ても、俺はその百年位の生命と天国の窮(きわま)りなき福楽とを代えっこはしないよ」と云って潔く信仰の為に殺されました。我々も今から屡々(しばしば)天国の幸福を思いまして、その窮りなき福楽をば、現世の短い夢のような財宝や快楽やと代えっこするようなことがないように務めたいものであります。


(4)-聖人等は如何にして天国に昇られたか ー 一口に聖人と申しましても、天主から特別の聖寵を忝(かたじけな)うし、人目を驚かすようなことをして、高い高い徳域に進まれた御方もあれば、普通の途を踏み、普通の徳をただ普通ならぬ心掛けで以って実行し、それによって聖人となり、天国え昇られた御方もございます。人目を驚かすような徳を行って聖人となることは、何人にでも出来る話でわありませんが、然し普通の徳を普通ならぬ心掛けで以って実行し、天に昇ることならば、出来ない人は無いはずである。

 さればこの祝日の序(ついで)に、誰しも、何うしたらば天国に昇れるかと云うことを篤(とく)と考えて見る必要があろうかと存じます。聖トマス博士の妹が、一日(あるひ)兄(あに)博士に向かい「聖人となるには何うしたら可いのですか」と問いました。すると聖人はたった一口、「望みさえすれば夫れで可いのだ」と答えられた。言は短い、ただ一口に過ぎないが、然し意味はなかなか深い。実際、救霊を得るが為、聖人となって天国に昇るが為には、如何なる困難に出遇(でくわ)しても、一歩も後えは退かない覚悟で、何処何処までも根気強く、勇ましく進んで行かなければならぬ。それだけ随分強い意志,熱い望みが必要である。是非とも救霊を全うしたい、是非とも聖人になりたいと云う火の如き望みがないならば、到底百千の障碍物を打ち破って進むこと出来ようはずがありません。

 今何(ど)んな風に望まねばならぬか、ただ一通り望んだばかりで足りるかと云うに、夫ばかりでは足りません。誰にしても救霊を得たい、天国に昇りたいと望まぬ方はありますまいが、皆が皆,救霊を得、天国に昇る訳でもないのは、望み方が不充分だからであります。然らば何(ど)んな風に望まねばならぬかと云うに、第一、心から望まねばならぬ。第二、今の中に望まねばならぬ、第三、根気強く、終まで望み続けなければならぬのであります。


(5)-心から望まなければならぬ ー 「人の世にあるは戦いに在るが如し」(ヨブ七ノ一)とヨブは曰い、御主も「我(われ)地に平和を持ち来たれりと思うこと勿れ、我が持ち来たれるは平和に非ずして刃(やいば)なり」(マテオ十ノ三十四)だの、「天国は暴力に襲われ、暴力の者之を奪う」(マテオ十一ノ十二)だの、「人もし我後につきて来たらんと欲せば己を棄て、己が十字架を取りて我に従うべし」(マテオ十六ノ二十四)だのと教え給うた。して聖人等は皆その教に従い、絶えず悪戦苦闘を続けて、天国に昇られたのであります。

 是に由って之を見ると、天国の福楽をかち得るが為には、随分と辛い目を見、苦しい戦いを経なければならぬ。やれ朝夕の祈りだ、やれ日曜日のミサだ、やれ公教要理だ、説教だ・・・祝日が来た、告白をして下さい、聖体を拝領しなさい、伝道に手伝って下さい、ビラを蒔いて下さい、等と連(しき)りに責付(せつ)かれ、督促される、うるさくて堪らない位。ですから天国の福楽を一心に望み、是非とも之を手に入れたいと熱く望まないならば、到底遣り了(おお)せるものではないのであります。


(6)-今の中に望まねばなりません ー 後で後でと差延して、その後がなくなってから望んでも駄目な話である。然るに多くの人は夫れに就いて頓(と)んだ思い違いをして居る。「今じゃ多(せ)忙(わ)しくて仕方がない、後で今少しゆっくりなってからのことにしよう」とか「今少し俟って下さい。若い時は何ともされない信心は年取ってからの仕事だ、死ぬ時にはきっと改心しますよ」等と云って居る。それが果たして頼(あて)になりますでしょうか、今日あって明日の分からぬ生命じゃありませんか。後でゆっくりなるまで生き存(ながら)え得るか、果たして老年に達し得るか、死の前に告白する余裕があろうか、不意に死ぬようなことが無いでしょうか、誰かそれを保証すること出来ますでしょう。

 聖人等は決して然うはなさらぬのでした。青年の方々は、老境に入ってからとは云はないで、その美しい花のような青年時代を天主に献げ、なるべく罪を犯さないよう、善を行うようにと務められた子の親たる御方々は、子供が成人してから、借金が減ってからと云はないで、自分が先に立って信心をし、子供に良き模範を示して親の務めを全うせられましたから、今、天国に楽しんで居られるのです。老人も同じく然うで、「死ぬ時に心を改めます、立派に告白しますよ」とは云わないで、もう年老いて、他に望む所はなし、只管(ひたすら)天を望み、信心をし、慈善事業や伝道事業に携わり、務めて余年を有意義に過ごそうと務められたから、今天国に於いて云うに云はれぬ幸福を擅(ほしいまま)にして居られるのであります。皆さんも何うぞ其の邊の所をよくよくお考えになり、後の日は決して頼(あて)になるものでないから、今の中から、出来るだけの善業を励み、天国に寶を積むようにして下さらねばなりません。


(7)-終まで続いて望まねばならぬ ー 二三日の間、三四年の間、善を行っても、天国には昇れない、死ぬまでも続いて行はなければならぬ、「終りまで堪え忍ぶ人は救われるべし」(マティオ十ノ二二)と御主は曰(のたも)うた。ユダの如きも、始は善良な弟子でした、然し終りまで続かなかったから滅んだのであります。

「手を犂(すき)に着けて尚、後ろを顧みる人は神の国に適せざる者なり」(ルカ九ノ六二)とありましょう。実に今日は立派な決心をして天主に堅く堅く約束して居るが、明日はもう何も彼も忘れたかの如く、元の罪に逆戻りをするようでは到底天国に入るに適しないものであります。聖人等は皆終まで続いて行った方々である。今日は熱心にミサを拝聴する、明日はすっかり止めてしまう、今日は告白もし、聖体も拝領すべしと決心して居るが、明日になると、其の心は更に一つも残らないと云うようでなく、僅かな善業でも、根気強く続けて行はれたから、天の窮りなき御褒美を忝(かたじけな)うすることゝなられたのであります。

 然らば天に昇る為には、心から、而かも今の中に、根気強く其の福楽を望まなければならぬ。「主は我々なしに我々をお造り下さいましたが、然し我々なしにお救い下さらぬ」と聖アウグスチヌスは曰(い)いました。即ち我々の方から精を出して勉め、与えられた聖寵をよくよく利用して働かなければ、救霊を全うすること出来ない。夫れは辛い、到底やりきれないと云う様な思いが起って来た時は、天国の福楽、その福楽の大なることを考えて見なさい。当てにもならぬこの世の幸福を得よう、夢のような快楽を求めよう、僅かばかりの目腐金を手に入れようとして、我々はどんなに精を出して働きますか。夫れに天の福楽を得るが為に、些(ち)っとやそっとの辛苦を恐れてなりましょうか。窮りなき福楽じゃありませんか。終わりなき光栄、言うにも言われぬ快楽じゃありませんか。それを得るか失うかという大切な問題ですのに、等閑(なおざり)に放つたらかして置かれたものでしょうか。其の上、幾ら辛いと云っても、聖寵の助けがあります。殉教者等は首を斬られ、火に焼かれ、鋸で引かれ等しても、天の福楽だけは失うまいと務められました。

 況して我々はそんなにえらい目を見せられるのではない、幾ら辛いと云っても、それは一時のことで、苦しみも悲しみも心配も何時しか終りを告げる、天の光栄や歓楽は窮る所を知らないのであります・・・何(ど)うぞ皆さん、今から屡(しばしば)、天国を思いましょう。天国の為に働きましょう。毎日毎日天国の庫(くら)に朽ちせぬ寶を貯えましょう。

(続く)