第354号 2006/07/03 司教殉教者聖イレネオの祝日
アヴェ・マリア! 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。
6月23日のウィノナの神学校での司祭叙階式でのフェレー司教様のお説教の音声ファイル(一部)は次にあります。
去る6月29日、使徒聖ペトロとパウロの祝日での、エコンの神学校での司祭叙階式の写真は、次に掲載されています。
或いは次をご覧下さい。
エコンでの司祭叙階式の際のティシエ・ド・マルレ司教様のお説教の音声ファイルは次にあります。 また7月1日にはドイツのツァイツコーフェンの神学校でも叙階式が執行されました。叙階式の写真については、まだアップされていないようなので、分かり次第お知らせいたします。 新司祭たちのためにお祈りをよろしくお願いします。また引き続き総会の成功のためにノベナをお願いいたします。 それでは今回も兄弟姉妹の皆様のご質問にお答えします。お答えは現在オーストラリア聖十字架神学校校長のピーター・スコット神父様です。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え! トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) ■ 質問です 新しいミサは有効ですか、それとも涜聖的でしょうか? 新しいミサ以外しかミサ聖祭がないときには、新しいミサに与るべきでしょうか? ■ お答えします 1969年にパウロ六世によって発布されたラテン語でのミサの新しい典礼様式の有効性は、その他の秘蹟の有効性を判断するものと同じ基準によって判断しなければなりません。つまり、質料と形相と意向です。(聖体の秘蹟の場合は、質料とはパンとブドウ酒、形相とは聖変化の言葉です。) 欠陥のある神学と儀式の意味は、ミサの犠牲の罪の償いという主要な目的への言及を全て削除しているけれども、必ずしも新しいミサを無効とするものではありません。教会がしていることをするという(有効性のために司祭が持っていなければならない)意向は、たとえ司祭がそれを不完全なやり方で理解していたとしても、有効性のためには充分です。質料については、純粋な小麦のパンとブドウからの本物のブドウ酒が有効性のために要求されます。ラテン語原文で形相(聖変化の言葉)が変えられたことは、許されないことであり教会の歴史においてかつてなかったことでしたが、その意味の実体を買えるものではなく、従って、新しいミサを無効にはしていません。 しかしながら、上記のようなラテン語での新しいミサというのは全くまれにしかなく、典礼改革という事実により絶滅しかけています。 新しいミサ発布後30年を経た現在の小教区で捧げられているミサの有効性は、また別問題となっています。例えばホスチアに添加物が入ることにより時として質料を無効としてしまいます。私たちの主の聖変化の言葉「多く人のために」をエキュメニカルに受け入れやすくする「全ての人のため」と変えて翻訳することは、少なくとも形相の有効性に疑いを投げかけています。更に重要なのは「生けるものと死せるものの罪の償いとして真の犠牲を捧げる」という教会の意向が30年の間忘れられてきている、という事実です。事実、今のほとんどの典礼は、天主の民という共同体による祝宴という反対の意向を提示しています。 そのような状況では、司祭は極めて容易く、教会がすることをするという意向をもはや持たなくなり、この理由のために新しいミサが無効になってしまいかねません。問題はミサの有効性ということが目に見えるものではないので誰も分からないということです。 それに引き替え、聖伝のミサは教会の真の意向を明確に間違えることのできないように表明しています。そのために聖伝のミサでは司祭の意向を誰でも確実に知ることができます。しかし新しいミサではそうではありません。従って、特に公然とした近代主義司祭の場合は、意向の欠如のためにミサが無効であるという疑いをぬぐい去ることができません。 明らかに無効なミサはミサではありません。従って、主日の義務を果たすことができません。 更に秘蹟に関しては、カトリック信者は「より確実なもの(pars tutior)」を取らなければなりません。つまりそうと知りながら有効性が疑わしい秘蹟を与ることは許されません。従って、例えそれ以外になかったとしても、新しいミサによって主日の義務を果たす義務は誰にもありません。 しかしながら、たとえ今日第二バチカン公会議後の教会で捧げられる新しいミサについて、私たちが確実にそれが有効だと断言できたとしても、それらが天主に嘉されるものだとは言えません。それどころかその反対です。それらはたとえミサに与る人たちがそれに気づいていなかったとしても、客観的に涜聖的です。こう言ったからといって新しいミサに与っている人々、新しいミサを捧げている司祭が全て、全能の天主と私たちの主イエズス・キリストを直接侮辱するようなことをして大罪状態にいると言おうとしているのではありません。 涜聖とは、宗教の徳に反する罪で、倫理神学によると「聖なる人、場所、事物が天主に聖別されている限りにおいて、これらに対してなされる相応しくない取り扱い」(Jone, Moral Theology, p.108) です。倫理神学者は、涜聖はそれ自体で一般的に (ex genere suo) 大罪であるけれども、比較的小さなこと或いはあまり重要ではないことに関わる場合があるので、必ずしも全てが大罪であるとは限らないと説明しています。 ところで私たちは現実の涜聖、ミサ聖祭を不敬に取り扱うことについて話をしています。何故なら、新しいミサではミサの聖性を保護していた祈りや儀式が削除され、尊敬・敬虔・礼拝の不在、私たちの罪のための真の償いの犠牲であるというミサに関するカトリック教義を表明していないからです。ここにはその程度はいろいろです。それは丁度、平信徒が理由無く聖別された御聖体に触れることは重大な涜聖であり客観的な大罪であるように、また例えば、理由無く平信徒がカリスなどの聖器具に触れたり、プリフィカトリウムやパラなどに触れることは小罪に当たるように、程度がいろいろあり得ます。 新しいミサについても同様のことが言えます。もしも御聖体が手によって配られていたり、或いは平信徒によって分配されていたら、もしも御聖体に敬意が払われていないなら、教会内でおしゃべりやダンスが行われていたら、もしもミサの時に何らかのエキュメニカルな儀式がなされたら、それは客観的に涜聖という大罪です。しかしもしも普通にはない尊敬や信心をもって捧げられており、それが全能の天主に対して相応しく崇敬を示すものとして現れているなら、(あるべきものが原理的に欠けているミサであっても)客観的に涜聖の小罪となるでしょう。何故涜聖になるかというと、新しいミサの典礼様式と儀式において当然無ければならないものが省略されているからです。この省略は御聖体における私たちの主に対する真の不敬を構成してしまうからであり、またミサ聖祭が現実に何であるかという真の本性を表明していないからです。何れの場合においても、主観的な罪の責任は、天主のみが裁くことのできる全く別の問題です。 しかしながら、涜聖の重大さ如何に関わらず、新しいミサはそれでも涜聖であり続けます。従って、新しいミサはそれ自体で罪となります。 更に、例えそれが小罪であるにすぎないとしたとしても、知りながら同意しながら悪や罪の行為に参与することは決して許されていません。何故なら目的は手段を正当化しないからです。 従って、ミサ聖祭に与りたいそして主日の義務を果たしたいと望むことは良いことでありますが、これをするために悪しき手段を使うことは許されていません。もしも、新しいミサにおいて客観的に涜聖が行われているということに気が付いている人は、それと知りながら新しいミサに与ることは少なくとも小罪となります。そのような態度はご都合主義、日和見主義です。 ですから、新しいミサが私たちの天主なる救い主に対してあるべき崇敬を捧げていないがために不敬であるということを理解しているカトリック信者が新しいミサに与るということは許されていないことです。そして、例えばお年寄りの信徒の方々がそうであるかもしれませんが、たとえ新しいミサに与っても自分の信仰を危機にさらすことはなかったとしても、或いは他の人々に躓きを与える危険が何もなかったとしても、そしてそれが唯一のミサであったとしても、許されないことになります。
http://www.sspx.ca/Angelus/2002_September/Questions_And_Answers.htm |