第348号 2006/06/01 童貞聖アンジェラ・メリチの祝日
然うだ。僕は、君達がかって視たこともない程に貴く且つ美はしき、しかも美と智慧とに於いて、他の総べての者に勝つている花嫁をめとるのだ。 (アシジの聖フランシスコ)
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アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ついに6月、私たちの主イエズス・キリストの聖心の聖月ですね。そしてもうすぐ聖霊降臨の大祝日!
ここニュー・マニラでは昨日の元后である天主の御母聖マリアの祝日には、夕方のミサ聖祭の後にローソク聖母行列がありました。特に、私たちは、(1)ダ・ヴィンチ・コードの冒涜を償うために、(2)共産主義者らが世界各地で政権を握っている状況をふまえ、教皇ベネディクト十六世がロシアを聖母の汚れ無き御心に一日も早く奉献するため、という意向でこの聖母行列を捧げました。
兄弟姉妹の皆様にはご注意していただきたいのですが、カトリック系のサンパウロでは、ダ・ヴィンチ・コード ザ・トゥルース[DVD]が推薦されています。
しかしサンパウロで売られているこのDVDは、ダ・ヴィンチ・コードの本・映画を否定する内容のものではありません。むしろ、あのトンデモ解説本の一つといってよい内容のようです。何かの間違いがあったようです。ご注意下さい。
サンパウロが販売するなら、むしろこの ダ・ヴィンチ・コードの秘密 DVDの方が相応しいでしょう。これは「ダ・ヴィンチ・コード」を完全否定し歴史の事実を訴えている内容だからです。
ダ・ヴィンチ・コードの秘密 決定版[DVD]
さて、ダ・ヴィンチ・コードでは、私たちの主イエズス・キリストの姿を歪めて、現代人がそうあってほしいと望むような姿に歪曲して思惟しました。しかし私たちは、現実を求めます。ありのままのイエズス・キリストを求めます。イエズス・キリストは言いました。「人、我に来りて、その父母、妻子、兄弟、姉妹、おのが生命までも憎むに非ずば、我が弟子と成ること能はず」と。
そして、十二世紀に、イエズス・キリストの生きた似姿とまで言われた聖人を天主は私たちに送って下さいました。イエズス・キリストの精神を生きたアシジの聖フランシスコです。
また、今日ではアシジの精神という名前でエキュメニズム運動が盛んに行われています。ところでアシジの聖フランシスコは、どのような精神をもっていたのでしょうか? そこで、今回アシジの聖フランシスコのことを深く知りたいと思います。
そこで八巻頴男著『アッシジの聖フランシスコ』(大翠書院 1949年)の第一章をご紹介したいと思います。著者八巻頴男は、元々プロテスタントの家庭に生まれたのですが、聖フランシスコの研究をしたおかげでカトリック教会に帰正した方です。彼は「聖フランシスコを真に理解するには、カトリシズムへの道を辿らねばならぬと確信する」と言っています。これにより本当のアシジの聖フランシスコの精神、そして本当の聖伝のカトリックについて理解を深めていきたいと思います。
最後に、これを愛する兄弟姉妹の皆様に「マニラの eそよ風」という形でお知らせすることが出来るのは、実は私の父がこの本をパソコンに一々タイプ打ちしてくれたお陰でもあります。この場を借りて、父に感謝します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
アシジの聖フランシスコ、我らのために祈り給え!
聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アッシジの聖フランシスコ
八巻頴男著 大翠書院 1949年
Jusepe de Ribera. St. Francis. 1643. Oil on canvas.
Palazzo Pitti, Galleria Palatina, Florence, Italy
第 一 章
聖 福 音 の 行 者 聖 フ ラ ン シ ス コ
さて、聖フランシスコは、他の何者にも勝って、聖福音の使徒であった。然らば、いかにして、彼はかゝる道を選んだか。これは、吾々が彼の生涯の変化の跡を辿(たど)るとき、おのずから明らかにされる所である。
抑も、聖フランシスコの伴侶は、その聖師父の生涯に起った一転機を叙するに当り、回心(Conversio)なる語を用ひているが、之は、中世記の修道院の用語に由れば、単に、世俗生活より修道生活への転向を意味するに過ぎない。然るに、この回心が、聖フランシスコの場合に於いては、その生活の全的変化を意味することは、トマス・チエラノあるいは三人の伴侶の聖フランシスコの伝記が、吾々に詳細に伝へる所である。彼みずからも、この転機を境とする前後の生涯をくらべて、それ以前の生活をば罪の生活と呼んでいる。然るに、それは、普通の人々に於いてなら、痛烈なる悔改や回心を喚びさます底のものではない。彼のいふ罪の生活なるものは、単に余りに世俗的な思いや習性にすぎない。彼は生れつき、きはめて朗かな性質であって、活力横溢し、青春の健かな悦びに充ち溢れていた。従って、かのトルクバドウルの吟遊詩人のかなで唄ふ恋愛や騎士道の讃へ歌、あるひは小物語歌(fabliaux)や風刺の歌(Sirvente)の如きは、おのずから彼の心絃に深く共鳴する所であった。而して、彼は、心そゝらるゝまゝに、あるいは町の若人の群に采配を振ひつゝ高放歌吟しながら街路を練り歩き、あるひは綺麗に身をかざって、友人達の間に饗宴の主となることを悦んだ。之こそ、彼の青春の時代にみいだされる、謂ふ所の過ちであった、彼が後年「われ罪のうちに在りし時」と述懐せし所である。然しながら、かゝる生活を通じて、後年の彼の聖福音に準拠せる生活をば豫視せしむる一条の光明の貫いていることを看過してはならぬ。
まず、吾々は、彼の生活の純潔に少しの変化もなかったことを認めねばならぬ。彼を親しく識る人々は、彼について証言して、然し、彼は、その心のままに振舞ひ、あるいは語るうちにも、おのずから慇懃(いんぎん)であり、決して人をそこなふ、また猥はしき言を発することはなかった。
加之、彼はかく派手な、また放逸な若人であったが、彼に猥はしき言をかける人々には、故意に返答しなかったのである。かかるが故に、彼の名声はあまねく拡がり、彼を識る多くの人々は「彼はやがて何か偉いことを為すであろう」と語り伝へた。と述べているが、正にその通りであったであろう。
更に、かゝる徳に加ふべきは、彼の富の蔑視の態度である。彼はピエトロ・ベルナルドネと称するアッシジの呉服商の子息として、裕福のうちに育まれ、成人しては、父と共に家業にいそしみ、 からず成功を収めて、その父に将来の期待をいだかしむるものがあった。然しながら、トマス・チエラノの伝ふる所に由れば、彼は商人に相応はしからぬ性質を有していた。即ち彼はきはめて金ばなれがよくて、まるで湯水のやうに之を使ったのである。いと富めるにも拘らず少しも物惜しみすることなく、むしろ放逸であった。富を積むことなど、彼の思ひよらざる所であって、彼の両親も、しばしば彼に向って、「お前は商人の私共の子ではなくて、ある偉い王侯の子であるかのやうに大金を使ふ」と言って、彼を戒めねばならなかった。殊に彼は、貧しき人々に対しては、決してその財布の口を閉じることはなかったのである。之について、彼の伝記は次の如きエピソードを伝へている。
即ち、
さて、彼は倉に起ちて商品を商い、その業に専心していたとき、一人の貧しい人が来て、「神の愛のために」施与を乞ふたのである。所が、彼は富の慾と商品の心遣ひに心を抑へられていて、この人に施与を拒んだ。然し、彼は間もなく、聖寵に顧みられて、おのれの貧慾を責めて、「若し、この貧しき人が偉い侯伯の名義に由って、汝に何物かを乞うならば、汝は必ず、彼にその乞ふものを与へたであろう。まして、諸王の王、総べての物の主のためには、猶更数々のことをなすべきではなかったか」然れば、その後、彼はかくも偉い君の名義に由って、何物かを乞ふ者に決して之を拒むまじと決心したのである。
と。
終りに、吾々は、彼のきはめて騎士的な魂に殊に注意を注がねばならぬ。この点は、彼の生涯を伝へるものが、必らず力説する所であって、さきに言及した彼の金ばなれのよさのごとき、フランシスコは之を騎士の特徴とみなしている。更に、彼のかゝる騎士的な憧れこそは、彼をば戦争に狩り立て、彼をして敢へておのれを流血と死の危険に曝らすに到らしめたものである。
彼が二十歳の頃であった。彼はアッシジとペルージアとの間に交へられた激しい戦闘に参加し、不幸にも敗北を喫して、その戦友と共に捕へられ、ペルージアの牢獄に幽閉される身となった。その同囚の人々は、永い幽囚の生活に心打ちひしがれて暗い心に閉ざされているのに、フランシスコは一時もその朗らかさを失ふことがなかった。終にその友が堪へかねて責めると、彼は之に答へて、「あなたは私をどう考へようとも、やがて私は全世界に敬はれるやうになるのです。」と言つた。かくの如く、フランシスコは、順逆いずれの境地に在るも常にその騎士的ない 持を堅持していたのである。
さて上来延べ来った三っの特徴こそは、若きフランシスコをして聖福音の召し出しに全く相応はしからめたものである。然し、それがそのまゝにして、フランシスコを新らしい境地に導いた訳ではない。その前に必らず除かねばならぬものがある。それは世の楽しみと世俗的騎士道への執著である。
然らば、キリストは、いかにしてフランシスコのうちに地上的騎士の理想を天上的に変へ給ふたのであるか。また、いかにして彼のむなしき地上的悦楽への願望が聖寵の下に全く消え失せたのであるか。之を語るのは、フランシスコの回心の内面描写を試みることになる。
本来、フランシスコの如く豊かな天稟に恵まれた人は,単なる官能的な陶酔に満足するものではない。彼つて、かの捕囚の当時その晴れやかな気分に結びついて、折々片鱗を示していた生真面目さはいよいよその頭をもたげてきていた。かの幽囚から解き放たれた彼は、間もなく重い疾病に呻吟しなければならなくなった。
而して数ヶ月に亘って高熱に悩まされて、漸く癒えて静養期に入ったとき――――それはおそらく彼の二十三歳の頃であったろう――――彼は、杖を頼りにして、初めて足をアッシジの郊外に運んだのである。所が,何とおどろくべきことであったらう。かって彼を悦ばした総べてのものは、全く彼の心を惹かなくなっていたのである。トマス・チエラノは之を伝えて、
然し、田畑の美はしさ、葡萄園のたのしみ、また眼に美はしき総べての物、そのいずれに於いても彼は楽しむことができなかった。と言っている。
かくて、
彼はおのれに起った大なる変化におどろかざるを得なかったのである。然しながら、彼は直ちにその内なる声に従った訳ではない。やがてその健康を復するや、彼はおのれを捉へんとする天主の御手を逃れんと試みた。
彼は地上的なる功業を追ひ求めて、アブリアにむかって出発したのであるが、一度彼にさしのばされた御手は決してむなしく彼を逃すことはない。則ちその日、彼がスポレトの町につくや、天主は彼にアッシジに還れと命じ給ふたのである。
「三人の伴侶のフランシスコ伝」はこの間に消息を語って、
彼は、ゆめうつゝのうちに、「汝はいずこに行かんと欲するや」と彼に問ふ声を聞いた。そこで、フランシスコはその全目的を打ち明くるや、その者は更に言をついで、「いずれが、汝のためにつくす所多きや。主なるか、僕なるや」と言った。それで、彼は、「主であります」と答へたるに、その者は再び、「さらば、汝は、主をすてゝ僕にゆき、富める主をすてゝ貧しき者にゆかんとするや」と言った。而してフランシスコが、「主よ汝はわれに何を為さしめんと浴し給ふや」と問へば、彼は言ふ、「汝の国にかへれ、然らば汝は為すべきことを示されるであらう。その訳は、汝が視たる幻は別様に理解すべきであるから」と。
と叙べている。
かくして、彼は、「この事を彼に示し給ひし主の御旨を待ち望みつゝ、且つみづからの救につきて主みづからより聞かんと、溢るゝ喜悦のうちに、いそぎアッシジに還った」のである。
然し彼がアッシジに還ると、その仲間は彼の許にあつまってきて、彼を饗宴の主に選んだ。彼は一時ためらったが、後にその招きに応じた。而して饗宴終るやいつものやうに、一同はフランシスコを頭として、放歌高吟、アッシジの町を練り歩いた。然るにフランシスコは、いつものやうにその手に采配を携ふるも、黙然として深き思いにふけりつゝ、一同より少しおくれて歩いた。すると、不意に聖主の訪ひを蒙って、その心はえもいはれぬ恍惚感に充ち溢れて、全く外物を忘れはてその場に立ち留って、語ることも動くこともできなくなっていた。やがて、一同は彼がいないのにおどろき、振り返へりみれば、はるか後方に、フランシスコは獨り黙然と立っていた。
この時よりフランシスコはいよいよおのれを蔑し、かって深くその心を寄せた事物を賎しむやうになった。かくして、漸次、彼は世の喧騒より退いて、天主との交りを求めるやうになった。而して打ち勝ちがない甘美なる予感の唆るまゝに、町の外なる洞穴に日々の祈りに赴くやうになった。
然し彼の心は、いまだ、啓示されたばかりの新しい目的に全くおのれを委せ切っていた訳ではないから、種々なる思は相次いで彼の心に荒れ狂ふのであった。彼は一々之を検べ、あるひは承認し、あるいは拒んだ。彼は一方、熱心と将来に対する聖なる決心に燃ゆると共に、他方過ぎにし生涯の痛悔に打ちひしがれた。勿論全く世をすて、心おきなく天主に仕うべきいことは、彼には明らかであった。然し彼はいまだ断然その境地に生きるまでに至っていなかった。唯だ、彼は、その為すべきことを明らかに啓示し給はんことを、天主に祈り求むるのみであった。然し、終にその祈りがきかれ、彼にその進むべき道が明らかにされる時がきた。やがて、彼は交々訪れる歓びにその心堪えられなくなり、敢へてかくさんとすれども、心ならずも人々に識られるようになった。
然しながら、
彼は之をあからさまに語ることを控え、いよいよ慎重に、さながら謎の如く語り、あるいは常に祈りの場所に伴った友に、「かくされし寶(かたら)」と言ひ、あるいは友達が、「フランシスコよ、君は花嫁をめとりたく思っているのではないか」と問へば、「然うだ。僕は、君達がかって視たこともない程に貴く且つ美はしき、しかも美と智慧とに於いて、他の総べての者に勝つている花嫁をめとるのだ」と答へるのであった。
偖(さ)て、その後の彼の生活はいよいよ過ぎし空しい歩みより遠ざかりゆき、あるいは〔天主〕の愛のために(Per Amore di Dio)施与を乞ふ貧しき人々をねぎらひ、時にはかの人々を彼の食卓に招き、更にローマ巡礼のみぎり、みずから乞食の衣を借りて、一日その生活を身を以って、味ひ、やがてその為めに一生を献ぐるに至るべき貴女清貧にいよいよ近ずきゆくのであった。
更に彼は、かっては眼に視るさへ嫌はしかった癪病人との親しき交りを通じて、自己克服の甘味を味ひ、また聖ダミアノの聖堂に於いて、「フランシスコよ、汝はわが家の倒れんとするのを視ないか。いざ行きて、わがために之を修理せよ」とのキリストの御言に接して以来、至る所に毀れし聖堂を捜し求めて、之を修理するを楽しみとするやうになった。かくて、かってはアッシジの若人の花形であったピエトロ・ペルナルドネの子フランシスコは、さながら乞食の如き姿に身をやつし、アッシジの街頭に現はれるに至った。
茲に於いて、かっては「王公の子の如くに大金を使ふ」と言って責めながらも、反って内心はおのれの跡をつぐに相応はしとて、むしろ之を悦びいたりしてその父の期待は全く裏切られて、今やその誇りを傷つけられて、憤懣やる方なくなった。一時はフランシスコを捉へて、之をかたく縛めてその家に幽閉したものゝ、その妻ピカが之を解き放った後は、いよいよか彼に望みを絶ち、之を勘当することに心を決せざるを得なくなった。
かくて、吾々は茲に、アッシジの、司教館に於ける、あのドラマテイクな父子関係断絶の場面に導かれるに至ったのである。フランシスコが起って、「みなさん、よく聞いて理解して下さい、今まで、私はピエトロ・ベルナルドネを私の父と呼びましたが、私は天主に仕へたく思ひますから、彼が心を悩ましていた金と、彼からもらった衣類を全部彼に返還します。而して私は「わが父ピエトロ・ベルナルドネ」と言はずして、唯だ「天に存すわれらの父」と申したい。」と言って以来、フランシスコはいよいよ新しき道に踏み入ったのである。
今や、フランシスコは奮き絆より全く解き放たれて全く天主の義におのれを委せ、あらゆる方法をつくして天主に仕へる身となった。しばしがほどは、かの聖ダミアノの聖堂に帰りゆき、破れた聖堂の修理や癪病人の世話に時をすごした。殊に、癪病人の介抱は、フランシスコを、自己克服の更に高き段階に引き上ぐることになった。彼みずからは、このことについて、その遺言のうちに、次の如くいっている。
主は、私、兄弟フランシスコに、かくの如く改悛をなしはじむる聖寵を与へ給ふた。そは、私が罪に在りしとき、癪病人を視ること程苦しく想はれることはなかった。
然るに、主は私を彼等の間に導き給ふた。而して私は彼等に燐 を垂れた。而して彼等の間を出でしとき、かって苦かりしことは、私にとって心身の甘美に変ったのである。と。
なほ、彼がかの聖ダミアノの聖堂に留っていた頃。はじめのほどはそこの司祭が彼に日々の食物を与へていた。然るにある日のこと、フランシスコはこの司祭の親切を顧みて、独言しつゝ、
汝は、汝のゆくさきざきに於いて、汝にかゝる慇懃を示す此司祭を見出すであろうか。之は汝が選ばんと欲せし貧しき者の生活ではない。然し、汝は、かの貧しき人がその手に面桶を携へて戸毎を訪れ、必要に迫らるゝまゝに、さまざまの食物のまぜ物を集めし如く、みずから進んでこの世に於いて貧しく生れ、赤貧に生き、十字架の上に於いてすらなほ裸かにして貧しく、且つ他人の墓に葬るられ給ひし「彼」に対する愛のためかくの如き生活を送るのが当然である。
と言った。而してやがて彼はその司祭の好意を断って、面桶を携へて戸毎を訪れ、施与を乞ふてその糊口を凌ぐ生活をはじめた。
かの癪病人の世話といい、この托鉢の生活といひ、かってのフランシスコにとっては全く思ひ設けざることであった。然るに今やかゝる生活を通じて、彼はいよいよ自己克服の生活に勝利を獲てゆくのであった。
偖(さ)て、その後、フランシスコは二三の聖堂の修理を終へた後、ポルチユンクラと称する地に移り住んだ。茲には、昔から、「天主の御母聖マリア」の聖堂があったが、当時は全くすたれてほとんど誰にも顧みられなくなっていた。その頃、彼は、さながら隠者の如き衣を着て、革帯を腰に纏ひ、杖を手にもち、足に靴をはいていた。所が、ある日の事、禰撒(ミサ)聖祭に際し彼は、イエズスが、その十二使徒を遣はすに当って、「金、銀、又は銭を、汝等の帯に持つこと勿れ。旅袋も、二枚の下着も、沓も杖も亦同じ」とのたまへる聖福音の言の読まれるを聞いて、「之こそ私の求むるものである。之こそ私が心をつくして為さんと願ふものである」と言い、言語に絶する悦びに溢れて、その場で、両足より靴をぬぎ、杖をすて、一枚の下着に満足し、腰に纏った革を縄に変へた少しもためらうことなく聖福音の勧めをそのまゝ遂行したのである。彼の。かくて、フランシスコは伝記者トマス・チエラノはこの事を語って後、そは、彼は決して黙々と聖福音を聴く者ではなく、その聴きし総べての事をば、その讃うべき記憶に留め、之を文字通り遂行せんと心掛けたのである。と言っている。
その後数週間を経て、更にクインタブルレのベルナルドとカタネのピエトロの二人が彼の許にきて、その切なる捨離の志を述べ、彼の生活に倣はんことを懇願した。そこで、あくる朝、フランシスコはその二人を伴い、アッシジの町の市場に近い聖ニコラスの聖堂に赴き、聖主にその聖福音を通じてその御旨を示し給はんことを祈った。まづ祭壇の前に跪いて、聖福音を披いたところ、「汝、若し完全ならんと欲せば、往きて有てる物を売り、之を貧者に施せ。然らば天に於いて宝を得ん。而して来りて我に従へ」との聖主の勧めがあらはれた。次いで之を披いたところ、イエズスが使徒を布教に遣はさんとしたまふとき、彼等にのたまへる「汝等途に在りて、何物をも携ふること勿れ。杖、袋、パン,金,及び二枚の下衣を持つこと勿れ」との聖言があらはれた。更に三度之を披きたるに、「人、もし、わが後に来たらんと欲せば、おのれをすて、日々おのが十字架をとりて我に従うべし」との聖言があらはれた。茲に於いて、フランシスコは、三度までも天主が聖福音を通じて彼に示し給へる聖旨を深く悦び、その二人の伴侶に、「わが兄弟よ、之こそわれらの生活また掟である。またわれらの仲間に加はらんと欲する総べての人々の生活また掟である。然れば汝ら往きてその聞きし事を為し遂げよ」と言った。
それは西起1209年の4月16日のことで、言はばこの日にフランシスコ会は誕生したのである。三人の伴侶ノフランシスコ伝は、この事を語った後で、この時以後、彼等は聖主が彼等に示し給える聖福音の形式に従って、共に生活した。と延べ、またフランシスコみずからも、後にその遺言に於いて、聖主みずから、私が聖福音の形式に従って生活すべきことを啓示し給うた。といっている。とかくする程に、フランシスコとその伴侶は合わせて12人となったので、フランシスコにその物せる生活の掟について教皇の認可を仰がんとして、その伴侶を伴ってローマに赴いた。所がその地につくや、図らずもアッシジの司教ギドウに会って、その斡旋に由って、サビナの司教で、且つカルデイナルたる聖パウロのジオブワンニ・コロンナに伺候することができた。彼はフランシスコとその伴侶を悦び迎えてその家にやどらせ、親しくその教えを聞き、その模範に接して深く感銘し、なおフランシスコよりそのローマ訪問の理由をきくや、みずから進んで教皇の前で、その代言者たらんと申し出た。而して教皇庁に赴いて教皇インノセント三世に謁し、「私は、聖福音に従って生活し、万事につけて聖福音的完全を遵守せんと願ういと全き生活の人を見出しました。私の信ずる所に由れば、聖主は、この人に由って、聖会の真の信仰を全世界にわたって、回復せんと欲し給うのであります」と言って、教皇に彼を推賞したのである。
之を聞いて教皇はおどろき、彼にフランシスコを伴い来るように命じた。
そこで、フランシスコは、あくる日、件のカルデイナルに由って教皇に引き合わされ、その聖き目的を彼に吐露することが出来た。教皇はフランシスコの不撓の決心を試した後、おのれが幻に視たことを思い合わせ、フランシスコこそは、将に倒れんとする聖ジオブンニ・ラテラノの聖堂をその肩に支えんとした、幻のうちの当の一修道士たることを確認し、フランシスコの物せる生活の掟を允許したのである。不幸にして、この生活の掟はそのまゝは吾々に伝わっていないが、それが聖福音よりのわずかな引用の本文に、その聖き生活を逐行するに不可欠な少しばかりの事柄を添え加えたものに過ぎなかった事は、トマス・チエラノが吾々に伝える所である。フランシスコみずからもその遺言の中に、いと高き御者は、私が聖福音の形式に随って生活すべきことを私に啓示し給うた。而して私は、ことば少なに、単純に之をかゝせ、而して主なる教皇は之を私に確認し給うたのである。と言っている。また聖ポナビエンチユラもそのフランシスコ伝のうちに、さて、キリストの僕は、兄弟の数がいよいよ増し来たるを視て、みずから及びその兄弟等のために、生活の掟をかいた。而して之に於いては、聖福音の遵守が不可離の基礎としておかれて、之に、生活の様式の一致に必要と考えられる他のわづかな事が添えられたのである。と伝えている。その添えられたものが何であるかわ明らかでわない。然しながらその構成要素が、キリストがその使徒を布教に遣わし給える所と、彼等に清貧と捨離を給える、すでに引用したかの聖福音の章句より成れることは疑いないと思われる。
さて、以上の掟は、人数が少なくて、活動の分野がかぎられていた初代に於いては事足りたのである。然るにその人数が増加するに従って、その生活の掟はやがて増補あるいは変更の必要に迫られた。而してすでに西紀1212年のペンテコストの最初の総会に於いても、更にその最初の十年間に催された他の総会に於いても、この問題は考慮されたのであるが、到頭西紀1221年ペンテコスト(=聖霊降臨祭)の総会に於いて、フランシスコは、その訂正した新しい掟を提出したのである。之は二十四章より成るもので、それには、以前発せられて、当時なお行はれていた総ての命令は一つの全体に統合されていたのである。
然しその聖福音的なる基礎に動揺を与うることは決して許されなかったことは留意されねばならぬ。いな反って、フランシスコは、その有能なる書記スピラのチエザレに、その新しい掟の各々の命令が聖福音に呼応することを、本文の対照に由って証するように命じた。而してその掟は意義深い次の言葉を以って結ばれている。即ち、之は、兄弟フランシスコが、主なる教皇インノセントに允許を乞いたる、イエズス・キリストの聖福音に由る生活である。而して教皇は、彼及び現在ならびに将来の彼の兄弟達に之と。要するに、その掟の含む命令と勧告とは、単に聖福音的生活の遵守の命令として提示されている。而してフランシスコは、それを結ぶに当り、
然れば、吾等のために、その聖父に祈り、御名を吾々に示し給える御者の聖福音の御言葉、生活及び御教を遵守しよう。と言っている。
然し之がこの掟に加えられた最後の手ではない。これは西紀1221年より実施せられたのであるが、その結果また追加あるいは省略ある縮約の必要を生じた。茲に於いて、フランシスコは、その聴罪司祭にして書記たるフラテレオとボロニヤの法学者フラテボニゾを伴って、モンテ・コロンボに赴き、準備のため、四十日間祈祷と断食とに過した後、精霊の示しに随って、その掟をかき下させたのである。彼は一章を編む毎に熱き祈祷の中に聖主に諮り総てが聖福音に一致するやいなやを確かめた。而してフランシスコはその聖福音的性格を発揮させるため、また兄弟達に聖福音の完全たる遵守を促すため、その掟のはじめと終りに、小さき兄弟達の生活と掟とは之である。即ち、われらの聖主イエズス・キリストの聖福音を遵守することである。
われらは、われらの聖主イエズス・キリストの聖福音を遵守すべきことを、かたく約束した。と言っている。
然るに、一部には西紀1223年11月29日に教皇に由って允許されたこの掟をば、人間の力に余るものとして不満の意を表す者もあったが、それに関し、フランシスコは次の如き幻に恵まれた、
彼は、地上から、極くわづかなパン屑を集めて、之を、彼をかこめる餓死せんとする多くの兄弟達に分ち与えねばならぬかに思えた。然し、それが手の間からすべり落ちはしないかと心配して、そんな小さい屑を分けるのを躊躇していると、天来の声が彼に言った。「フランシスコよ、総ての屑より一つのオステイアを作れ。而して之を食せんと願う者に分ち与えよ」と。
彼は直ちにその通りにした。すると、之を恭しく戴かず、あるいは之を戴きながら、その賜物を軽んぜし者は癪病に襲われて他の者より痴くされた。あくる朝、聖人は之を総てその伴侶達に語り、その幻の意義を釈くことができないのを悲しんだ。
すると、次の日、彼が徹夜の祈りをしていると、天よりかくの如く語る声を聞いた。
「フランシスコよ、昨夜のパン屑は聖福音の言葉である。オステイアは掟である。癪病は罪である。」
従って、フランシスコは、その全生涯を通じて、その掟に対して熱情を懐き、その兄弟達にその遵守を勧めることをやめなかった。
而して彼等に「掟とや、それは、生命の書、救いの望、聖福音の真髄、完徳の道、天国の鍵、永遠の結合の憲章である」と語るを常とした。
偖て、吾々は、以上に於いてフランシスコ会の生活の掟の成立を語り、之にフランシスコがいかに深い関心を有っていたかを述べたが、之に由ってフランシスコの理想はおのずから明らかにされたと思う。
そこで、吾々は更にフランシスコの性質を考えてみたいと思う。
以上述べた所に由って明らかである様に、聖フランシスコの理想は「聖福音に由る」、「聖福音の形式に由る」、「聖福音の完全に由る」生活である。然らば之はいかなる意義であるか。即ち、次の彼の言はこの意義を闡明(せんめい)するものである。曰く、
之こそ、イエズス・キリストの聖福音に由る生活である。即ち、従順,貞潔、無所有に生きて、汝、若し完全ならんと欲せば、往きて有てる物を売り、之を貧者に施せ、然らば天に於いて宝を得ん。而して来りて我に従え。
また、
人、若し我が後に踉きて来らんと欲せば、己を棄ておのが十字架を取りて我に従うべし。
また、
人、我に来りて、その父母、妻子、兄弟、姉妹、おのが生命までも憎むに非ずば、我が弟子と成ること能はず。
また、
総て我が名の為に、あるいは家、あるいは兄弟、あるいは姉妹、あるいは父、あるいは母、あるいは妻、あるいは子等、あるいは田畑を離れる人は百倍をうけ、且つ永遠の生命を得ん。
とのたまえるわれらの聖主イエズス・キリストの御教と御跡に従うことである。と之は、西紀1221年の掟には、本分通り繰り返され、また教皇の教皇に由る允許のある西紀1223年の掟には省略された形に於いて伝えられている。
かくの如く、フランシスコの徒は、聖福音に於ける使徒の道を踏みゆくことを要求されているのである。正に、聖ボナビエンチユラが言える如く、その掟は使徒の掟(Regula Apostolorum)である。
従って、フランシスコがその掟を呼ぶに使徒的の人々(Homines Apostolorum)と言えるは当然であると考えられる。
然しフランシスコは兄弟達を聖福音に由る生活に導きしのみを以って満足せず、西紀1212年に姉妹達のために第二会「貧しき貴女の修道会」即ちクララ会を創立し、事情の許すかぎり之に兄弟達の模範に倣って、その指導の下に聖福音を遵守すべきことを命じた。彼がこの姉妹達に与えた最初の掟(Formula vitae)はわずか一句を含むに過ぎないが、その意味は深長である。
即ち、なんじらは、天主の霊感を蒙って、聖福音の完全に従って生活することを選んで、いと高き天父、至高の王の娘、また婢女(はしため)と成り、また聖霊をその花婿(はなむこ)となしたので、我は、我みずから及びわが兄弟に由って、彼等と同じく、なんじらに、注意深い関心と特別の配慮を有せんことを欲し、且つ之を約束する。といっているのがそれである。
然しながらフランシスコは之を以っても満足しなかった。更に彼は第三会を創立し、俗世間に生きている人々を之に網羅して、能うかぎり、彼等をして聖福音に由る生活を送らしめんと企てた。三人の伴侶や聖ボナビエンチユラの伝記に由れば、婚姻せる人々の間に、兄弟達の指導の下に、その家庭に於いて改悛の生活を送っている人々が数多くあったので、彼は之に「改悛の兄弟」(Fratres de Poenitentia)の名称を与えて、之をその傘下に参せしむことにしたのである。
要するにフランシスコの運動は上記述べてきたように、すぐれて聖福音的な性格を佩(お)びている。
フランシスコはその三つの修道会を通じて、キリスト教徒を、能うかぎり純粋な聖福音の遵守に導かんと浴したのである。小さき兄弟達は、全世界に聖福音を説くのみではなく、更にそれを完全に遵守せんがために、総ての者の先頭に進まねばならぬ。之こそ、聖フランシスコの切なる願望であったし、その全生涯を通じての最高の理想であったのである。
かく理解すれば、この理想は全く新しく且つ聖フランシスコに特有なものである。
然しながらその新しみ、また特徴は単に聖フランシスコが聖福音をばキリスト教生活の指針と考えた事実に由るのではない。一個のキリスト者としても、殊に修道会の創立者としてもこの点に関して、他の考えのありよう筈がない。総てのキリスト教徒は、聖福音の教うる道徳法に則らねばならぬことは言を俟(ま)たない。更に修道者は、従順・貞潔・清貧の聖福音の勤めを遵守しなければならぬ。而して初代の教父達は之を真の、唯一の、聖福音的にして使徒的なる生活と呼ぶに躊躇(ちゅうちょ)しなかった。宗教生活に関するかかる高い観念は、後に至って、教会生活に滲み込んできた俗化と弛緩(しかん)のため、一時弱められたが、また十字軍の時代、聖フランシスコ出現の少し以前に再び新しい力を増して、デユウツのルベルー及びクレールブオの修道院長聖ベルナールの如きは、修道生活の使徒的性格について熱情溢れる文章を物した。然しながら聖フランシスコ以前に、修道会の創立者で、その生活の掟を聖福音の基礎におきその修道者に対してもっとも厳格なる意味に於ける聖福音の実践を命じた者はなかった。近東諸邦に於ける聖パコミウスも、聖バシリウスも、中世紀に於いてフランシスコ及びアイルランドに栄えた修道会もかかる目的をその修道者に提示しなかった。また聖フランシスコの時代に行われていた二つの有名な修道生活の掟、即ち、聖ベネデイクト及び聖アウグステイヌスのそれも、決して聖福音をその修道生活の基礎としなかった。彼等は、その修道会は聖福音の基礎に設立されたとも、またその修道者に聖福音を実践に移し、また使徒的生活に倣うべきであるとも決して主張しなかった。
然るに聖フランシスコはこれらの修道生活の掟を借用することを断乎として拒絶した。人が種々なる点に関して、之に準拠することを提議したとき、彼は之に答えて、私は、汝等が、聖ベネデイクトのそれであれ、聖アウグステイスのそれであれ、或いは聖ベルチールのそれであれ、他の掟を語ることも、また聖主が憐れみ深くも私に啓示し且つ与え給うたもの以外他の道、他の生活の仕方を提議することを欲しない。と言った。
また彼は、聖ドミニコが当時生まれた許りの彼等の二つの修道会、即ち、フランシスコ会とドミニコ会を一つの托鉢修道会に合併せんとの願望を示したとき、少しも之に応ずる意志を示しなかった。フランシスコは、彼の修道会は、他の修道会の分れではなくして、全く新しい創造であることを明確に意識していた。而して彼はその修道会の起源を天主の啓示に帰していたので、この確信を堅持するのに、その精根をつくしたのである。彼は、それ以外のいかなる感化をも認めようとはせず、死に臨んでも、その送りし聖福音的生活を讃えて、之を他の修道会のそれよりも重んじたのである。
彼は、この天来の理想をば、力強く且つ純粋に維持せんと心を砕き、事、その修道会の本質また個性、即ちその聖福音者的性格に関するかぎり、やさしく且つ謙遜なる彼も少しも譲歩する所がなかった。
この性格こそ、聖フランシスコが、その全き姿に於いて捉えたものであって、彼はその擁護者となって、之を実現したのである。之こそ、世界の歴史に於ける彼の特徴であって、かくの如く、彼が聖福音と原始教会の生活を再興せしめたからこそ、その同時代の人々の賞讃の的となったのである。
従って彼の伝記者は、フランシスコの肖像を素描するに当って、常に彼の本質的価値が、その生活及びその修道会の創立を通じて、世を聖福音に導き返したことに在るとなすのである。
チエラノのトマスは、彼の特徴を要約しながら、フランシスコは聖福音的召命の人であったのである。実に、彼は聖福音の役者であったのである。彼のいと断乎たる意図、彼のいと熱烈なる願望、彼の最高の目的はすべて、また常に、聖福音であったのである。と言っている。
また三人の伴侶は彼が聖福音の全き遵奉者であり、また使途の全き追随者であることを讃えて、
使徒的な人フランシスコはいと全くキリストに縋りて、使徒の生活に倣い、その足跡を進んだ。と言っている。
更に、当時もっとも敬虔深く且つ学識高い人々の一人として識られていたカルデイナル ジヤツク・ドウ・ビイトリは、そのフランシスコ及びその弟子達との個人的交りに由って得た印象を語って、
私はこの地方に唯だ一つの慰めを見出したのである。富める世俗の数多くの男女がキリストの為に総てを棄てゝ、世を逃れた。彼等は「小さき兄弟」と呼ばれた。――――この修道会は地にひろがった。そは、それは明らかに原始教会に倣うものであるからである。――――天主は、隠修士、修道士、修道参事会士に最近第四の修道的会即ち一つの修道会と一つの聖なる掟を加え給うた。然し、若しも、吾々が注意深く原始教会の状態を考えるならば、彼は新しい掟を加えたのでなくて、奮きを厚生させ、将に世の亡びんとする夕に、すてられて殆ど亡んでいた修道生活を再興し、また非キリストの実際の危機に対して戦い、教会を護り且つ之を堅くするため、新しい闘士を備えた――――彼等は心を砕いて、みずからの中に、原始教会の修道生活、清貧、及び謙遜を再現するために努力した。彼等は非常なる渇望と熱心とを以って、聖福音的源泉の清水を汲んだので、彼等は聖福音の命令を守るのみでなく、更にその勧めに従い、あらゆる方法をつくして、使徒的生活を再現せんとつとめた――――之ぞ小さき兄弟の聖き修道会であり、天主が最近起し給えるかの使徒的人々の讃うべき且つ倣うべき修道生活である。と述べている。
なお、フランシスコ会と同時に起り、同じく托鉢修道会たりしドミニコ会の修道士さえも、聖フランシスコの修道会が聖福音をその生活原理とする唯一の修道会であることを認め、第十三世紀の中頃に同会の総長たりしウンベーゥ・ドウ・ローマンは聖フランシスコとその修道会に言及して、
祝福されしフランシスコは、小さき兄弟達に、聖福音を完全に遵守することを求めたのである。
彼等はそれを易いことに於いてのみでなく、更に難しいこと、例えば聖福音の完全なる遵奉者たるの実を示さんがため、「人、若し、汝の頬を打たば、他の頬をも是に向けよ」との救主の御命令に於いても、之を実践しなければならぬ。といっている。
かくの如く、聖福音えの復帰こそは、親しく彼の生活とその運動に接し人々が、聖フランシスコに由って成し遂げられた大なる功績として等しく認むる所である。
確かに総てのキリスト教徒は聖主の聖福音を信じていた。然し彼等は之を理解せずまたその実践を怠っていたのである。従って、その信ずる所と実践する所との間には深い溝が横たはっていたのである。勿論、当時に於いても、この悪しき事態を悲しむ、すぐれた人々はあった。
然し人々の大多数はこの深淵すらも認識することが出来ず、また聖福音の偉大も少しもさとる所がなかった。然るに、フランシスコにとっては、聖句の一行一行が重要性を有っていたのである。フランシスコは、すべての御言をその心に深く銘記し、之を読み、あるいは聞くやいなや、彼の思いはすぐにその実践に向った。彼にとっては、それが聖福音の命令であるのか、勧めであるのか、それが総ての人々に語られたものであるか、一部の人々に語られたものであるか、
あらゆる時代のためであるか、使徒時代の為のみであるか、譬(たと)えであるか、実話であるか、そんなことは全く問題ではなかったのである。彼は聖言をきくや、おのが事情のいかんを少しも顧慮することなく、文字通りに之を実践に移したのである。若し、彼が、「総て汝に、求むる人々に与えよ」を読めばただちに、その兄弟達に、施与を乞う貧しき人々には、その頭巾を、また外に何物もなければ、上衣の一部を与えよと諭し、「下衣を取らんとする人には、上衣をも渡せ」を読めば少しも逆らうことなく、その唯一つの外套を脱ぎとらせ、「汝等に供せらるゝ物を食せよ」を読めば、当時の修道院に於いてきびしく行はれていた節食の定めに逆らっても、聖福音に随って、兄弟達が供せらるゝ物を何に由らず食することを許し、「家に入る時、此家に平安あれと言いて、此れを祝せよ」を読むならば、この挨拶を用いずして家に入ること勿れと兄弟達に命じ、且つみずからは説教をこの挨拶を持ってはじめるのを常とし、なほその遺言には「主なんじに平安を与え給はんことをと言えよと、この挨拶を我に啓示し給うた」と述べている。
要するに、フランシスコは、これらの聖言また毎日読まるゝ聖福音をおのが生活の指針とし、之をいと単純に、しかもいと大胆に生き抜いたのである。之こそ、彼がその時代に及ばせる異常なる感化の秘訣である。また之こそ、今日、聖フランシスコに対して示されている熱愛を説明するものである。
第十三世紀以来、今日ほど聖フランシスコに対する関心が普遍的なる時代はかってなかった。
勿論、そこには、時代の流行やデカダン的センチメンタリズムの潜めることも認められるし、従ってその理解も必ずしも正当ならず且つ非カトリック的なる点も尠(すくな)くないのであるが、しかもフランシスコえのこの関心の復興の主なる原因は、聖フランシスコの生活の聖福音的理想に則れる所にあることは疑うべくもない。もし、彼が高く評価されるべきとすれば、それは彼が使徒以来かって視ざるほどに、聖福音に由る生活を重んじた点にある。実に、聖福音的生活のみが、聖フランシスコをしてかくも普遍的なる尊敬に価せしむるものである。之のみが、フランシスコ会に不壊(ふえ)の価値を与えるものである。従って、フランシスコ会が地の塩たる使命を果たさんと欲すれば、この点を重んじてその実現をはからねばならぬ。要するに、小さき兄弟の生活と掟は、即ちわれらの聖主イエズス・キリストの聖福音を遵守することである。
(第一章終わり。この項、続く。)