マニラのeそよ風

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第338号 2006/04/19 主の御復活後の水曜日

This engraving by Hieronymus Wierix captures Francis Xavier's mystical union with God in the words, 'It is enough, O Lord, it is enough!' 敬虔で聖なる仕事をする人がいないので、この地方でたくさんの人びとが信者にならないままで放置されています。・・・研究だけに携わっているような学者たちに、彼らの怠慢によってどれほど多くの霊魂が天国の栄光に行けずに地獄へ墜ちて行くかを話して聞かせたいのです。
(聖フランシスコ・ザベリオ)

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

 枝の主日と前後して、兄弟姉妹の皆様と聖伝のミサでお会いできて幸福に思います。兄弟姉妹の皆様の苦しみや悩みなどの多くが、私の胸にしまわれ、それらの十字架を共に担って歩くような思いで、私は韓国のソウルで聖週間を過ごし、御復活祭を迎えました。聖伝のミサのために祭壇に立つ時、聖務日課を唱え、ロザリオをつまぐる時、兄弟姉妹の皆様の十字架が脳裏にあり、私たちの主イエズス・キリストに、天主の御母聖マリア様にひたすらに憐れみと聖寵を乞う日々です。

 私たちの眼差しは私たちの先頭に立って十字架を担う私たちの主イエズス・キリストに自然と向かいます。罪もなく断罪され、死刑を受けたイエズス・キリストに。二千年を経た現代でも、私たちの主を冒涜し・屈辱し・貶める本や映画やニュースが毎日のように流されているその私たちの主イエズス・キリストに。キリスト教を知らない人々からだけではなく、イエズス・キリストを守らなければならないカトリックの聖職者からも裏切りと背信を受けておられるイエズス・キリストに。

 そしてキレネのシモンに。私たちの主の十字架を強いて担わされたあの男に。十字架がどれ程の恵みであるかを理解するのに困難を感じ鈍い私たちに、キレネのシモンはとにかく十字架を受け入れる勇気をくれるようです。


 さて、韓国では4月15日の復活の徹夜祭にキム・ウン兄弟とキム・ミソン・レジナ姉妹の4番目の子供であり次女キム・ヒョヨン・ガブリエラちゃんが洗礼の恵みを受けました。兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

 ソウルでの復活徹夜祭の火の祝別は、幼児の洗礼の準備や告解などで30分ほど遅れてしまい、8時半頃から始まりました。その後、朗読や洗礼用水の祝別、洗礼、聖伝のミサなどが続き、儀式は夜中の12時頃に終わりました。その後、告解ができなかった信徒の方々のために告解が続きました。その後、皆と小さな食堂で簡単にご飯を食べて、私たちの主の御復活の喜びを共にしました。

 復活の主日には、聖務日課を唱えた後、9時頃に聖堂に到着し、告解の行列をこなしました。告解を途中で中断して10時半からミサが始まり12時頃に復活主日のミサ聖祭は終了しました。その直後、再び告解。それが終わると(午後2時)、四名の侍者と共に侍者の練習をしました(一時間半ほど)。3時半から侍者の諸君と昼食でした。

 ミサ聖祭の時の説教では、私たちの主の御復活が歴史的事実であったこと、ユダヤの大司祭たちが悪意を持って番兵をつけたり、主の御復活に反対すれば反対するほど、私たちキリスト者にとってはイエズス・キリストが確かに死去され、葬られ、復活されたますます確かな証拠となって役立つことになったこと、を述べました。そして私たちの主は、ご自分の肉体に天主の正義と栄光とを与えるために復活されたが、私たちの信仰を強固にし、私たちの希望を高め、私たちの愛徳を燃え立たせるために復活された、ことを言いました。

 私たちに先立つ多くの殉教者たちは、イエズス・キリストと共に復活するために、キリストを否むよりは死を選んだこと、私たちも、現代社会においてキリストがあたかも存在しないように適当に罪を犯して生活する方が楽で、おもしろおかしく暮らせるかもしれないけれど、私たちの主の御復活は私たちをして、キリストを否んで罪を犯すよりは、キリストと共の復活を待望して死を選んだ殉教者たちに倣うように、全てを超えて私たちの主を愛することを教えている、ということを言いました。

 ソウルでは、徹夜祭は50-60名ほど。朝のミサは、60-70名ほどでしょうか。ミサ聖祭が終わって夜に信徒の方々と食事をしながら、皆で新しいもっと大きな聖堂に移るのはどうかという話をしていました。でも、そのためには、誰かが宝くじを買わなければならないね (^^;)、と。


 さて、今年の4月7日は聖フランシスコ・ザベリオ(1506年4月7日-1548年12月3日)の生誕500年を記念して、聖ピオ十世会アジア管区のホームページでは、聖フランシスコ・ザベリオの手紙が紹介されていました。
外国語サイト リンク SSPX ASIA: On the occasion of the 500th anniversary of the birth of St. Francis Xavier

 そこで、日本語訳をご紹介します。(河野純徳師訳の『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』を参考にしました。)

 良き御復活節をお過ごし下さい。
 天主様の祝福が豊かにありますように!

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



聖フランシスコ・ザベリオの書簡

聖フランシスコ・ザベリオ

【書簡第二〇】
ローマのイエズス会員にあてて
一五四四年一月十五日 コーチンより

主なるキリストの恩恵と愛とが、つねに私たちの助けとなり、慈しみとなりますように。アーメン。


 互いの便り

1 ポルトガルを出発してから二年と九ヵ月たちました。その後、この手紙を含めてこちらから三度書きました。それなのにインドにいる私は、一五四二年一月十三日に書かれ〔リスボンから送られ〕た一通(喪失)しか受け取っていません。この手紙を受け取り、どれほど慰められたか、それは主なる天主がご存知です。この手紙は二ヵ月前に落手しました。船がモザンビークで越冬しましたので、インドへ着くのがこんなに遅れてしまったのです。


 コモリン岬の信者のなかで

2  ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシラスと私とは非常に元気です。ミセル・パウロはゴアの聖信学院にいて、その学院の学生たちを〔指導する〕責任を果たしています。フランシスコ・マンシラスと私とはコモリン岬の信者のところにいます。私がこの信者とともにいるようになってから一年以上になります。信者がたくさんおり、また毎日増えていることをお知らせします。

 私はこの海岸に着くとすぐに、ここにいる信者が主なるキリストについて、また彼らが信じている信仰箇条について、どれほど知識があるかを知りたいと思っていろいろ調べました。また未信者であった時よりも信者になった現在、より多くのことを知るようになったかと尋ねましたが、彼らが信者であるという以外には何の答えも見出しませんでした。また彼らは私たちの言葉を理解しませんし、私たちの教えも信ずべきことも知ってはいませんでした。また彼らと同じく私もまた、自身の母語がバスク語であるために、この国の言葉であるマラバル語を理解できませんでしたので、彼らのうちでより賢い人たちを集め、その中で私たちの言葉を理解するとともに、彼ら自身の言葉をよく知っている人を探しました。その人たちといっしょに幾日もかけ苦労を重ねて、十字を切る方法から、三位にまします唯一の天主に信仰を告白し奉る言葉、その後で使徒信経、天主の十戒、主祷文、天使祝詞、元后あわれみ深き御母(サルヴェ・レジナ)、告白の祈りをラテン語からマラバル語に訳して、祈濤文をつくりあげました。マラバル語に訳し終わると、その祈りを暗記し、手に鐘を持ってトゥティコリンの村中をまわり、子供たちすべて、大人もできるだけ大勢集めました。彼らが集まると、一日に二回教理を教えました。一ヵ月のあいだ順序に従って祈りを教え、子供たちが教わったことを自分の父や母、その家族のすべての人や近所の人びとに教えるように定めました。


 日曜日に信仰箇条を教える

3 日曜日には男も女も、大人も子供も、マラバル語で祈りを唱えるために、全村こぞって集まりました。彼らは〔祈りを唱えることに〕興味を示し、たいそう喜んで集まって来ました。三位にまします唯一の天主に信仰を告白することから始まって、彼らの言葉で使徒信経を大きな声で唱えます。私が先唱すると全員がそれを繰り返すのです。使徒信経が終わると、またもどって、今度は私一人が唱えました。十二箇条の一つ一つを区切って唱え、信者であることは、この十二箇条を疑うことなくかたく信じて、他のことを望まないことであると訓戒しました。彼らは信者であると告白しましたので、この十二箇条の一つひとつをかたく信じるかどうか質問しました。男も女も、大人も子供も、すべての者が声を合わせて、大声で、胸の上に腕を十字に組んで、一つ一つの箇条に「信じます」と答えました。こうして、他のどんな祈りよりも使徒信経を何度も繰り返して唱えるのです。なぜなら、十二箇条だけを信じていれば、自分は信者であると言うことができるからです。

 使徒信経の次に第一に教えたのは、天主の十戒です。彼らにキリスト教の戒は十戒のみであると教え、天主の命ずる通りに十戒を守る者は善い信者といわれ、反対に、これを守らない者は悪い信者であると教えます。信者も未信者も、イエズス・キリストの教えがどれほど聖なるものであり、自然の理(ことわり)に合ったものであるかを知って、驚きの目を見張ります。

 使徒信経と十戒を終わると、主祷文と天使祝詞を唱え、私が先に唱えるとおりその言葉を繰り返します。十二の信仰箇条を尊んで主祷文を一二回、天使祝詞を一二回唱えます。これが終わると一〇の戒を尊んで主祷文を一〇回、天使祝詞を一〇回、さらに唱えます。

 〔これらの祈りは〕次のような順序を守って唱えます。初めに信仰箇条の第一条を唱え、唱え終わるとマラバル語で、私とともに「天主の御子イエズス・キリストよ、信仰箇条の第一条を何も疑わずに、かたく信じるよう、私たちに恩恵を与えてください」と唱え、この恩恵を与えていただくため、主祷文を一回唱えます。主祷文を終わると全員声を合わせて「聖母マリア、イエズス・キリストの御母、信仰箇条の第一条を何も疑わずにかたく信じるよう、御身の御子イエズス・キリストの恩恵を得させてください」と唱え、この恩恵をいただくために、天使祝詞を唱えます。このようにして順次他の一一箇条に進んでゆきます。


 天主の十戒を教える

4  前述のように、使徒信経と一二の主祷文と天使祝詞を唱え終わると、天主の十戒を次の順序で唱えます。まず第一戒を私が唱えて、皆が繰り返します。唱え終わってから全員で声を合わせ「天主の御子イエズス・キリストよ、すべてに超えて御身を愛するために、恩恵を与えてください」と唱えます。この恩恵を願ってから、全員で主祷文を唱えます。それが終わると「聖母マリア、イエズス・キリストの御母、第一戒を守ることができるように、御身の御子イエズス・キリストの恩恵を得させてください」と唱えます。聖母にこの恩恵を願ってから、全員で天使祝詞を唱えます。これと同じ順序で、他の九つの戒に進んでゆきます。

 それで、一二の信仰箇条を尊んで、また何も疑わずに、かたく信じるよう、主なる天主の恩恵を願って、主祷文一二回と天使祝詞一二回唱えます。また天主の十戒を尊び、天主の十戒を守るために恩恵を与えてくださることを願って、主祷文一〇回と天使祝詞一〇回を唱えます。

 これらの祈願は、私たちの祈りをもって天主に願うことを教えるものです。これを唱えることによって、恩恵を得られるように、主なる天主に願うならば、彼らが願うよりもより完全に、その他の恩恵も含めて、天主はすべての恩恵をお与えになるのだと教えるのです。

 告白の祈りはすべての人に唱えさせますが、とくに洗礼を受けようとする者に唱えさせ、次には使徒信経を唱えさせます。そして信仰箇条の一つひとつについて、かたく信じるかどうかを尋ねます。「はい」という返事ののち、救いを得るために守るべきイエズス・キリストの教えを唱えながら、彼らに洗礼を授けます。祈りを終わる時に、元后あわれみ深き御母の祈りを唱えます。


 子供たちが偶像を憎む

5 子供たちがその両親よりも善い人になるよう、主なる天主において希望しておりますのは、彼らが聖教えにたいへん熱心で、好意を示しているからです。子供たちは祈りを学び、それを人びとに教え、偶像崇拝を非常に憎んで、たびたび未信者と喧嘩をするほどです。彼らの父母が偶像を礼拝しているのを見ると、親をとがめ、それを言いに私のところへ来て訴えます。村はずれに偶像の祠(ほこら)ができたことを私に知らせた時には、村の子供全部が集まって、偶像ができた所へ私を連れて行きました。子供たちの両親や親戚の人たちが偶像を礼拝するその尊敬よりも、子供たちがこうすることで、悪魔が受ける辱めのほうがずっと大きいのです。なぜなら、子供たちは偶像を取り出して、打ちこわしたあげく、偶像に唾を吐きかけ、足で踏みつけます。それから、とても口では言えないほどひどいことをします。子供たちの両親から崇拝されている偶像にこれほど大胆なことをするのは、子供たちにとって名誉なことです。

 私は信者たちの大きな村〔トゥティコリン〕にとどまり、数かずの祈りを私たちの言葉から彼らの言葉に訳し、教えを教えて四ヵ月を過ごしました。


 子供を病人の家へ行かせ、祈りをさせる

6 この四ヵ月のあいだ、大勢の人が病人に祈りをさせるため、自分の家に来てくれと頼みに来ました。他の人びとは自分の病気を祈ってもらうために、私に会いに来ましたので、福音を朗読してやりました。このほか子供たちを教え、洗礼を授け、祈りを写し、質問に答えたりで、人びとは私から離れませんでしたので、他の仕事ができないほどでした。またその後で死んだ人を埋葬してやらなければなりませんでした。それゆえ、私を呼びに来たり、探しに来たりする人たちの信心に応えるだけでも手に余るほどでした。しかし、彼らが信仰を失うことなく、キリストの教えを守ってゆくためには、このような敬虔な要求を断わることはできませんでした。

ところが、人びとの願いすべてをかなえられないほど仕事が増えてきて、どの家に先に行くべきかで、感情的ないざこざも避けられなくなったので、彼らの信仰の厚いのを知り、すべての人を満足させることができる方法を考えました。それは、祈りを覚えた子供に頼んで、病人の家へ行かせ、その家の人と隣人をすべて集め、皆に使徒信経を幾度も唱えさせ、病人にもしも信じるならば、病気は治るだろうと言わせ、その後で他の祈りを唱えさせるのです。このような方法ですべての人を満足させました。そしてその後、子供たちに家いえや広場で使徒信経や十戒、その他の祈りを教えるようにさせました。このようにして、家の者や隣人、また自分自身の信仰によって主なる天主は病人に霊的にも身体的にも健康を与え、たくさんの恵みをお与えになりました。天主は病気を通して彼らをお呼びになり、半ば強制的に信仰に引き入れ、病気にかかった人たちに慈しみを与え給うたのです。


 村むらを訪れて

7  この村で始めたことをさらに発展させることは他の人にまかせ、私は他の村むらを訪れ、同じようにしました。こうすれば、この地方では敬虔で聖なる仕事は決してなくなりません。生まれた幼児に洗礼を授け、教理を学ぷ年になった子供たちに教え、挙げた成果はとても書き尽くせないほどです。私が行くところどこでも祈りを書いて残し、書くことを知っている人びとには祈りを書き写して暗記し、毎日唱えるように命じ、日曜日には祈りを唱えるため集まるように定めました。このため、それぞれの村にそれを実行する責任者を残しました。


 パリの大学へ書信を

8 この敬虔で聖なる仕事をする人がいないので、この地方でたくさんの人びとが信者にならないままで放置されています。私は理性を失った人のように大声をはりあげて、そちらの大学へ〔躍り込んで〕行きたいと幾度も思ったことです。とくにパリ大学へ行き、ソルボソヌ学院で将来救霊のために働き、成果を挙げるために学問するのではなく、研究だけに携わっているような学者たちに、彼らの怠慢によってどれほど多くの霊魂が天国の栄光に行けずに地獄へ墜ちて行くかを話して聞かせたいのです。主なる天主が研究者に要求なさっている救霊の責任について、また天主から与えられた才能について、真剣に考えるならば、彼らの多くは心を動かすにいたるでしょう。そして自分の霊魂のうちに潜み給う聖旨を知り感得するために、霊的な手段や霊操をして自分の思いを天主の聖旨によりいっそう合致させて、「主よ、私はここにいます。私が何をするのをお望みですか。お望みのところへ送ってください。必要ならばインド人のところにでも」と言う〔に違いありません〕。

 〔彼らがインドで宣教すれば〕どれほど大きな内心の喜びのうちに生活するでしょうか。そして、誰も逃れえない臨終にあたり、一人ひとりの審判を受ける時に、天主の御慈悲をいただく大きな希望をもって、喜び勇み、「主よ、私に五タレントをお預けになりましたが、ご覧ください、私はほかに五タレントもうけました」(マタイ25・20)と言うでしょう。

 私が心配しているのは、大学で勉強している多くの人たちは、教会の高位や顕職にふさわしい学問を身につけたいと思うよりも、高位、聖職禄、司教の地位を得たいと願って学問していることです。「聖職禄や高位聖職の地位を得るために学問をして、高位聖職者になってから、天主に奉仕しましょう」と言うのが、学問をする人たちの常です。それゆえ、自身が望んでいる地位は、天主がお望みにならないだろうと懸念しながらも、邪まな欲情に従って〔これからの生路選定をするので〕、主なる天主の聖旨のうちに生活の手段を選ばず、また邪まな欲情を放棄することができないのです。私はパリの大学か、少なくともコルニブス教授、ピカルド博士に手紙を書いて、イエズス・キリストのことだけを考え、自分の利益を求めず、他人の救霊を探し求める熱心な働き手がいれば、どれほど多くの異教徒が信者になるかを知らせたいと思います。

 私が回っているこの地方で、キリストの信仰に帰依する人たちは数多く、洗礼を授ける手が疲れてしまうことがしばしばです。また彼らの言葉で使徒信経や十戒、その他の祈りを幾度も唱え、こちらの言葉で信者とは何か、天国とは何か、地獄とは何かを説明し、どのような人が天国へ行き、どのような人が地獄へ行くのかを話すので、〔疲れてしまい〕口がきけなくなってしまうほどです。すべての祈りのなかで、とくに使徒信経と十戒をたびたび唱えます。村中すべての人に洗礼を授ける日もあります。私が回っているこの海岸には、信者の村が三〇もあるのです。

 このインドの総督は、信者になった人と非常に親密です。毎年金貨四〇〇〇ファナム(漁夫海岸で用いられた小額金貨)も寄附してくださいます。これは新しく帰依した信者の村で熱心に教理を教える人たちの生活費や給与のみに用いることになっています。総督は私たちの会員すべてと非常に親しく、この地方にイエズス会員が幾人も来ることをたいへん喜んでおられますので、それを依頼する手紙を国王に書かれるでしょう。


 ゴアの聖信学院

9 昨年、ゴアに設立する学院について報告いたしました。その学院にたくさんの学生が入ってきました。さまざまな異なる言語を話す人たちで、すべて未信者の家庭で生まれました。学院の中にはたくさんの建物が建てられ、学生のある者はラテン語を、他の者は読み書きを学んでいます。ミセル・パウロは学生とともに生活し、毎日ミサを捧げ、告解を聞き、霊的なことを教えております。学生たちの生活必需品についても責任を負っています。

 この学院は非常に大きく、五〇〇人以上を収容できます。生活を維持するに足りる年収もあります。この学院を設立するための寄附がたくさんあり、総督も寛大に援助してくださいます。「聖なる信仰学院」と呼ぶこの学院の設立については、すべての信者が主なる天主に感謝すべきです。数年もたたないうちに、主なる天主の慈しみにより、この聖なる学院で学んだ〔卒業生によって)、信者たちの数はたいへん増加するでしょうし、教会の活動範囲も拡大するだろうと希望しております。


 バラモン僧の悪徳

10 この地方の異教徒の中にバラモンと呼ぶ僧侶階級があります。この僧侶たちが異教徒すべてをいいようにしています。

 彼らは偶像を祭っている神殿を守る責任を負っていますが、この世でもっとも邪悪な人たちです。「天主よ、不実な民と、人を欺く悪い者とから救ってください」(詩編43・1)という詩編の言葉を理解できます。

この人たちは決して真実を言いません。また、どのようにうまく嘘をつき、素朴で無知な貧者たちを騙そうかといつも考えており、「偶像神がこれこれの物を捧げることを要求している」と言うのです。それはバラモン僧の口実で、自分の妻子を養い、家庭を維持するために必要な物を出させるのです。偶像神が食べるものと素朴な人たちに信じこませ、偶像神が食べもしないのに食事前になるとたくさんの人がお金を捧げます。…日に二度、太鼓をたたいて祝宴を催し、貧者たちには偶像神が食事をしているのだと思いこませています。

 バラモン僧は必需品がなくなりかけると、偶像神は非常に怒っていると言います。バラモン僧を通じて要求した物が供えられていないからです。そしてもしも、供えなければ、神がみは彼らを殺すか馬気にし、彼らの家に悪魔を送りこんでくるから、よほど用心していなければならないと言います。素直な人たちは悲しんで、そうなると信じ、偶像神の悪行を恐れて、バラモン僧の要求どおりにしています。


 バラモン僧との討論

11 このバラモン僧は無知識な人たちです。また徳のないところは邪悪と不正を増して補っています。私が回っているこの海岸のバラモン僧は、私が彼らの不正を暴くのをやめないので、たいへん悩んでいます。彼らは私と二人だけで会っている時には、どのように民衆を騙すか、真実を打ち明けます。ひそかに私に告白するところによれば、石で作った偶像神以外には他に財産が何もないので、嘘をついて生活しているとのことです。

 これらのバラモン僧の知識を全部合わせたよりも、私のほうがもっと優れていると彼ら自身は思っています。彼らは私のところへ使者を送りますが、私が彼らの贈物を受け取ろうとしないので、たいへん困っています。これらすべては、彼らの秘密を私が暴かないようにするためで、彼らは天主が一人であることをよく知っていると言いますし、私のために祈るとも言います。そのお返しに、彼らが私について言っているすべてのことについて、私が思っていることを彼らに話しました。またその後、バラモン教を信じているために恐怖心にかられ、〔僧のいうことを〕素直に受け入れて悲しんでいる人たちに、彼らが聞きくたびれるまで、僧侶たちの偽りと騙しをはっきりと話しました。多くの人びとは私の言うことを信じ、悪魔を信頼することをやめ、信者となりました。もしもバラモン僧がいなければ、未信者はすべて、私たちの信仰に改宗するでしょう。偶像神が祭られてバラモン僧がいる家をパゴダと呼んでいます。

 この地方の未信者すべては、学識はありませんが、悪い事はよく知っています。私がこの地域にいるあいだに、一人だけバラモン僧を信者にしました。彼はたいへん善良な青年で、子供たちに教理を教える務めを選びました。

 信者たちの村むらを巡回している時、たくさんのパゴダを見かけます。一度はあるパゴダを見ましたが、そこには二〇〇人以上のバラモン僧が住んでいました。彼らは私に会いたいと言って来ましたので、たくさんのことを話しましたが、そのなかで一つの質問をしました。それは、彼らが礼拝している神がみや偶像神は、天国へ行くためにどんな掟を定めているのかということでした。誰が私の質問に答えるかということで、彼らは大いに争ったすえ、古参者の一人が答えることになりました。八十歳以上のこの老人は、まずキリスト信者の天主がどんな掟を命じたかを私が話すように言いました。彼の悪だくみが分かったので、私は彼が言うまで何も言うまいと思いました。それで、彼はやむをえず、自分の無知をさらけ出しました。彼らの神がみは、彼らが住んでいる所(パゴダ)へ人びとを来させるために二つのことを命じていると答えましセ。第一は牛を殺さないこと。というのは、彼らは牛を拝んでいるからです。第二にパゴダで仕えているバラモン僧に布施をすること。この答えを聞いて、私は悪魔たちが天主の代わりに礼拝され、これほどまでに隣人たちを支配していることを悲しく思いました。

 私は立ち上がり、バラモン僧たちにそのまま坐っているように言って、大声で彼らの言葉で、使徒信経と天主の十戒を一条ごとにしばらく間をおいて唱えました。天主の十戒を終えると、彼らの言葉で訓戒を与え、天国とは何であり、地獄とは何であるかを説明し、誰が天国へ行き、誰が地獄へ行くかを説明しました。この話が終わってからバラモン僧すべてが立ち上がり、私を抱いて言いました。ほんとうにキリスト教の天主は真の天主です。なぜなら、その掟はすべて自然の道理にたいへんよく適っているから、と。

 私たちの霊魂は野獣の魂のように身体とともに滅びるものであるかどうか、彼らは私に尋ねました。主なる天主は彼らの能力に適応した説明の仕方を私にお与えになりましたので、霊魂の不滅をはっきりと理解させることができました。彼らはたいへんな喜びと満足を示しました。このような学問のない人びとにしなければならない説明は、スコラ哲学の学者の書物に書いてあるような微細にわたる証明ではありません。彼らは私に質問をして、人間が死ぬと、どこから霊魂が出て行くのか、また人が眠って夢を見ている時は別な所で友入や知己といっしょにいるのかどうか、--それは私にもたびたび起こることで、もっとも愛するあなたがたとともにおります--霊魂は身体を離れて、別な所へ行くのかどうか尋ねました。

 彼らはさらに、人間のなかにはさまざまな皮膚の色があるが、天主は白いのか黒いのかと尋ねました。この地の人はすべて色が黒く、その色が良いと思っているので、神は黒いと言っています。それゆえ、たいていの偶像神は黒いのです。彼らはそれにたびたび油を塗るので非常に臭く、見ればびっくりするほど醜悪です。

 彼らが尋ねたすべてのことに答え、彼らが疑問に思っていることに満足な解決を与えました。この対話が結論に至った時、真理を認めたのだから、キリスト信者になるべきであるど〔私が言いましたら〕、私たちの国の人びとがいつも答えるのと同じように、彼らは答えて「もしもキリスト信者になって私たちが暮らし方を変えたら、世間の人たちは私たちについて何と言うだろうか」と。そしてもう一つ気にしていることは、生活に必要な物に事欠くことになるということです。


 一人のバラモン僧との対話

12 この海岸の村で一人だけ、いくらか教養のあるバラモン僧を見つけました。噂によれば、彼は有名な学校で勉強したのだそうです。彼に会いたいと思い、またどのようにして会うか、その方法についても努力しました。彼が私にごく内密に語ったところでは、〔バラモン教の学校の〕教師が学生たちに教える第一のことは、教えられるある種の秘密を決して口外しないと誓うことだそうです。このバラモン僧は、私といくらか親しくなったので、ごく内密にこれらの秘密を話しました。

 その秘密の一つは、天と地の創造主であるただ一人の天主があり、その天主は天にましますこと、これは決して言ってはならないということです。また彼はこの天主を礼拝し、悪魔である偶像神を拝まないと言います。彼らは掟を書いた書物を持っています。彼らが学習する時に用いる言葉は、私たちのラテン語のようなもの(サンスクリット)です。彼は掟をたいへんよく話し、その一つひとつを十分説明しました。信じられないことですが、賢者たちは日曜日を守っていると言いました。日曜日は他の祈りを唱えずに、「オム・セリイ・ナライナ・ノマ」すなわち「天主よ御身を礼拝いたします。御身の恩恵と慈しみがとこしえにありますように」という祈りだけを幾度も唱えるのだそうです。この祈りを〔口外しない〕誓いどおりに守るために、非常に小さい、低い声で唱えます。

 多数の妻をめとることは自然法が禁ずるものであること。また全世界のすべてが一つの教えの下に暮らす時が来ることが、彼らの書物に記されていると言いました。このバラモン僧はさらに、これらの教えはたいへん魔術的なことを教えていると言いました。

 彼は私に、キリスト教の教えのなかでもっとも大切なことを話すように頼み、誰にも言わないからと約束しました。私はこれから述べようとするキリスト教の教義のもっとも大切な教えを秘密にしないと、まず私に約束しない限り、何も言わないと言いましたので、彼は公にすることを約束しました。その時、私ぱ私たちの教えのなかで大切な、私の好きな言葉「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコー6・!6)と言って、はっきりと説明しました。彼はこの言葉を、自分の言葉で説明をつけ加えながら書き記しました。それから私は、使徒信経すべてを唱えました。天主の十戒の中には使徒信経と一致するところがあるので、その説明のなかに十戒をつけ加えました。

 彼はある夜の夢に、自分がキリスト信者になって私の同伴者となり、私とともに歩いているところを見て、非常に楽しく喜ばしく思ったと言いました。彼はひそかに信者になりたいと私に頼みました。さらに、いくつかの条件をつけ加えましたが、これはまさしく許されることではないので、私は洗礼を授けることを断わりました。それらの条件なしに彼が信者になることを天主において希望します。私は天にまします天地の創造主である唯一の天主を礼拝することを、素直な人たちに教えるように彼に言いました。彼は前に〔バラモンの神に〕した誓いを破ると、悪魔に殺されることを恐れ、私の勧めを行うのを望みませんでした。


 天主が与えてくださる慰め

13 未信者の中に入って、キリストの信仰に導く者に主なる天主が与えてくださる大きな慰めのほかには、この地方について書き記すことはありません。もしもこの世の生活の中で喜びがあるとすれば、この慰めこそ、まさにそれであると言えるでしょう。信者の中に入って働いている一人の人が「おお主よ、この世でこんなに大きな慰めを与えないでください。しかし御身の無限の善と慈しみによって、慰めを与えてくださるのでしたら、私を御身の聖なる栄光に導いてください。御身がお創りくださった私の心の奥深く交わってくださいますので、御身を見奉らずに生きることは、大きな苦しみです」と言っているのをしばしば聞きました。

 ああ、もしも学問を探究する人が、知識を得るために夜を日についでの苦労をこの慰めを味わうために役立たせるならば、どれほど幸福でしょう。ああ、もしも学生が、学んだことを理解してそこに喜びを求めるよりも、天主を知り、天主に奉仕するために必要なことを隣人に悟らせることに喜びを求めるならば、臨終にあたって「あなたの事務の報告をしてもらおう」(ルカー6・2)とキリストが要求なさる時に、生涯の報告をするにあたって、どれほど大きな慰めを得られるでしょう。


 会則の認可を喜ぶ

14 いとも親愛なる兄弟よ、このインドで私の楽しみは、あなたがたを幾度も思い出し、主なる天主の大きな慈しみによって、あなたたちと知り合いになり、語り合った当時を思い浮かべることです。主なる天主が御自らのことについて、あなたがたにお与えになった無数の知識を、あなたがたと交際していながら私の過ちでこれを利用することなく、どれだけ多くの時間を失ってしまったか、心の中で改めて認識し、深く感じています。あなたがたの祈りと、私のことを天主に願ってくださる絶え間ない記憶のお蔭で、天主は限りない恩恵を与えてくださいます。あなたがたの身体は見えませんが、その恩恵と助けによって、主なる天主は私の罪が無限に大きいものであることを感じる恵みを与えてくださるとともに、未信者の中へ入って行く力を与えてくださいます。このことについて主なる天主に大いなる感謝を捧げ、またいとも親愛なる兄弟であるあなたがたに感謝いたします。

 主なる天主がこの世においてなし給い、日々行い給う限りない恩恵の中で、私があれほど望んでいたことを実現させてくださったことは、第一のもっとも大きな恩恵です。それは私たちの会の会則と活動方針の認可です(恥12・6)。主なる天主に永遠に感謝いたしましょう。なぜなら、天主の僕(しもべ)であり、私たちの父であるイグナチオにひそかに分からせてくださったことを、すべての者に明らかに示してくださったからです。

 昨年、インドのこの地でグイディチオー二枢機卿のためにミセル・パウロと私とが捧げたミサの数を報告いたしました(書簡12・5)。今までの一年間に捧げたミサの数は分かりませんが、私たちが捧げたミサはすべて彼のためでした。私たちが慰められるために、枢機卿がどのように天主に奉仕なさっているか、お知らせください。また、ミセル・パウロと私の信心を増すためにも、私たちが永遠の司祭となるためにも、そのことについて知らせてください。教会で挙げている成果についても、かならずお知らせください。

 終わりに臨み、主なる天主はその慈しみによって、私たちを会わせてくださり、そしてまた天主への奉仕のために、互いに遠く離れるようになさいましたけれど、天国において聖なる栄光のうちに私たちを再会させてくださいますことを、天主にお願い申しあげます。


 洗礼直後死亡した信者の霊魂を仲介として

15  天主の慈しみと恩恵を得るため、私がいるこの地方の聖なる霊魂を、取次者、仲介者としましょう。その霊魂は私の手で洗礼を授けたのち、汚れのない状態のままで主なる天主がそのこ栄光に召し給うたもので、その数は一〇〇〇以上であると信じます。この聖なる霊魂のすべてに、この流謫(るたく)の地にいるあいだ、至聖なる御旨を心深く感じ、それを完全になしとげる恩恵を主なる天主からいただけるように、取り次ぎをお願いしています。


コーチンより一五四四年一月十五日
キリストにおいて、いとも親愛なるあなたの兄弟
フランシスコ