マニラのeそよ風

 トップ  >  「マニラのeそよ風」一覧

第336号 2006/03/16 四旬節第二主日後の木曜日

トマス・アクイナス

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 こんにちは!四旬節をいかがお過ごしでしょうか。
 来る東京での聖伝のミサには、聖ピオ十世会オーストラリア管区長のエドワード・ブラック神父様がお越しになります。兄弟姉妹の皆様、お友達などお誘い合わせて聖伝のミサにいらして下さい。

◎ 濱尾文郎枢機卿は、教皇庁移住・移動者司牧評議会議長を退任されたそうです。
日本語サイト リンク カトリック中央協議会「濱尾文郎枢機卿、教皇庁移住・移動者司牧評議会議長を退任」

引用開始>>

 3 月11日(土)、教皇ベネディクト十六世は、教皇庁移住・移動者司牧評議会議長の濱尾文郎枢機卿が定年(75歳)に基づいて提出していた退任願を受理しました。また教皇は、当面、教皇庁移住・移動者司牧評議会の議長職を教皇庁正義と平和評議会の議長職に統合することにしました。そのため、教皇は新しい移住・移動者司牧評議会議長として、現正義と平和評議会議長のレナート・ラファエレ・マルティーノ枢機卿を任命しました。

(濱尾文郎枢機卿は、横浜教区司教を1980年から1998年まで務めた後、1998年6月15日に教皇庁移住・移動者司牧評議会議長に任命され、以来8年近くにわたり同職を務めました。)

<<引用終了


◎ さて、CNNのニュースによると、ドミノピザの創始者、トーマス・S・モナハン氏が、アメリカに中絶も避妊もない「カトリックの町」を作る構想を立てているそうです。うらやましいですね。
日本語サイト リンク http://cnn.co.jp/usa/CNN200603120002.html

引用開始>>

 米フロリダ州ネープルズ(AP) 厳格なローマ・カトリック教会の戒律に従い、中絶手術を受ける病院も、ポルノ雑誌を売る店もない町――。米実業家がフロリダ州に建設を進める新たな町「アベ・マリア」をめぐり、地元では賛否両論が巻き起こっている。

 アベ・マリアは、宅配ピザ大手ドミノピザの創始者、トーマス・S・モナハン氏の構想で、同州南部ネープルズの東方約40キロに来年誕生する予定。カトリック系の新設校アベ・マリア大学と共に、約2000ヘクタールの土地に住宅や教会、町民センターなどが建設される。教会には、全米一とされる高さ約20メートルの十字架を設けるという。同氏が費やす資産は、少なくとも2億5000万ドル(約290億円)に上るとみられる。

 計画によれば、この町には1万1000世帯、2万人が暮らす見通し。商業地などは、モナハン氏と提携不動産業者が企業に貸し出す形になる。

 「町の建設は神の意志」と語る同氏は、中絶反対運動などで知られるカトリック教徒。この町に出店する業者に対して、ポルノ雑誌や避妊具、避妊薬の販売を禁じ、ケーブルテレビには成人向け指定のチャンネルを提供させないなどの規制を設ける方針を示している。「歴史は善と悪との戦いそのもの。私も傍観しているわけにはいかない」と、モナハン氏は主張する。このほど行われた起工式では、同じカトリック教徒のブッシュ知事が、「信仰と自由が1つになった新しい町が生まれる」と賞賛の言葉を述べた。・・・

<<引用終了


◎ またアメリカのニュースですが、サウスダコタで「中絶禁止」の新たな州法ができたそうです。
日本語サイト リンク http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060307-00000108-kyodo-int

引用開始>>

【ロサンゼルス6日共同】 米中西部サウスダコタ州のマイク・ラウンズ知事(共和党)は6日、母体の生命に危険がある場合を除き、人工妊娠中絶を禁じる法案に署名し新たな州法が成立した。

 レイプや近親相姦(そうかん)による妊娠も禁止対象とする内容。施行期日は7月1日だが、知事は、中絶容認派らによる差し止め訴訟が起きるのは確実で、決着には数年かかる見通しだとして「当面は(条件付き中絶を認める)現行法で対処する」との声明を発表した。

 人工妊娠中絶を合法と判断した1973年の連邦最高裁判決に反しているが、ブッシュ大統領指名の保守派ジョン・ロバーツ氏が長官に就任するなど連邦最高裁の保守化も進行。知事は「73年の判断を覆すことは可能だ」と述べた。

<<引用終了


 四旬節ですので、今回も聖トマス・アクィナスの言葉の続きを紹介したいと思います。『神学大全』第三部 第46問 第5項 「キリストはすべての苦しみを堪え忍んだか」の日本語訳をお送りします。

 今回で神学大全はしばらくお休みとし、次回からは遅れております婚姻講座を再開する予定です。原文となったラテン語は次をご覧下さい。

CORPUS THOMISTICUM
Sancti Thomae de Aquino Summa Theologiae
tertia pars a quaestione XLVI ad quaestionem LII
外国語サイト リンク http://www.corpusthomisticum.org/sth4046.html

 良き四旬節となることをお祈りしつつ。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


罫線


神学大全 第三部より

第46問 キリストの受難について

第5項 キリストはすべての苦しみを堪え忍んだか。

【問題提起】

 第5について次のように進められる。キリストはすべての苦しみを堪え忍んだように思われる。


【異論】

異論1  ヒラリウスは三位一体論第10巻の中でこう言う。「天主の御一人子はご自分の死の神秘を遂行するために、頭を垂れて息を引き取り給うた時、自らにおいて人間の苦しみの全ての種類を取り尽くしたと証明される。従って、主は人間の全ての苦しみを引き取り給うた。

異論2  更に、イザヤの52章にこう言われている。「見よ、私のしもべは理解し、高められ、上げられ、いと高きところにいるだろう。彼の外見が人々のうちで、また彼の姿が人の子らのうちであまりにも屈辱的なものであり、多くの者が彼について驚いた。」ところで、キリストは全ての聖寵と全ての知識とを持ち、そのために彼について多くの人々が感嘆して驚いた事に関する限り、キリストは高められた。従って、キリストは人間の全ての苦しみを耐えることによって屈辱を受けたと思われる。

異論3 更に、上に述べられたように、キリストの受難は人の罪からの解放のために秩序付けられている。ところで、キリストは人々を全ての罪の種類から解放するために来給うた。従って、キリストは全ての苦しみの種類を受けなければならなかった。


【しかし反対に】

 しかし反対に、ヨハネの第19章にはこう言われている。「兵隊たちが来て、まず一人、そして、ともに十字架につけられたもう一人の脛を折った。しかしイエズスのところにくると、もう死んでおられたので、その脛を折らなかった。」従って、キリストは人の全ての苦しみを受け給わなかった。


【回答】

 答えて言わなければならない。「人間の苦しみ」について二通りのやり方で考察することができる。

 一つには種(species)による。これについてはキリストが全ての人間の苦しみを受ける必要はなかった。何故なら多くの苦しみの種類は互いに対立しているからである。例えば火に焼かれることと水に溺れることなどである。今、私たちは、外的にもたらされた苦しみについて語っている。何故なら、体の病のように、内的な原因によって引き起こされた苦しみは、上に述べたように、キリストが苦しむにふさわしくなかったからである。

 ところで、類(genus)によれば、人間の全ての苦しみを受け給うた。

 このことについては、三通りのやり方で考察され得る。

 第一のやり方では、人々の側からの考察である。何故なら、キリストは異邦人たちからもユダヤ人たちからも苦しみを受けたし、男性からも女性からも苦しみを受けた(これはペトロを告発する女召使いたちから明らかである)からである。キリストはさらに権力者たちと彼らの使用人たちから、そして民衆から苦しみを受けた。これは詩篇の「何故異邦人たちは激怒し、そして民は空しいことを計画したのか? 主に反対して、そのキリストに反対して、地の王たちは立ち上がり、権力者たちは一つに集まった」(2:1-2)とある。またユダがキリストを裏切り、ペトロが否んだことから明らかなように、親しい者たちや、知古の者たちから苦しみを受けた。

 第二のやり方は、何において人間が苦しむことのできるかということである。キリストは、ご自分を置き去りにして逃げる友人たちにおいて苦しまれた。ご自分に対して吐かれる冒涜によって名声において、ご自分に対してなされる嘲笑と軽蔑を通して名誉と栄光において、かなしみと倦怠と恐れによって御霊魂において、傷とむち打ちによって御肉体において苦しまれた。

 第三に肢体に関する限り考察されうる。キリストは茨の冠を押しかぶらせて御頭において苦しまれた。釘を打ち付けられて御手と御足において、平手打ちと唾を吐きかけられて御顔において、打擲をうけて御体全体において苦しめられた。さらに体の感覚の全てにおいて苦しまれた。鞭打ちと釘打ちにより触覚において、苦きものと酢を飲まされて味覚において、カルワリオと呼ばれる死体の悪臭の漂う場所で十字架につけられ嗅覚において、冒涜を吐く者どもと嘲る者どもの声に苦しめられて聴覚において、御母と愛する御弟子が泣き悲しむのを見給うて、視覚において苦しまれた。


【異論への回答】

異論1については、それゆえ言わなければならない。ヒラリウスのあの言葉は、全ての種ではなく、苦しみの全ての類に関することとして理解しなければならない。

異論2については言わなければならない。そこでは、受難と聖寵の数に関してではなく、その両者の大きさについて類似があるとされる。何故なら、キリストは聖寵のたまものにおいて他の者たちの上に上げられたように、受難の屈辱によって他の者たちの下に下げられたからである。

異論3については言わなければならない。十分であるかということに限れば、キリストのもっとも小さな一つの苦しみは全人類を全ての罪から贖うのに十分である。しかし相応しいかと言うことを考えると、既に述べたように、全ての苦しみの類をキリストが苦しむことで十分であった。


罫線