マニラのeそよ風

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第335号 2006/03/11 四旬節の四季の斎日の土曜日

トマス・アクイナス

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 こんにちは! 四旬節をいかがお過ごしでしょうか。

 さて、フィリピンでは新しく叙階された三名のフィリピン人新司祭のうち、ドロティナ神父様はマニラに、ヘラ神父様はイロイロに、そしてファラルクーナ神父様はメキシコに任命されました。ファラルクーナ神父様はビザの申請中でマニラで私たちの仕事を手伝ってくれています。それと同時にサア神父様は今までイロイロで働いておられたのですが、アフリカのジンバブエに任命を受け、ビザの取得のためにマニラにおられました。

 さらに今年十二月に、天主の御旨なら司祭に叙階されるフィデル・フェレール助祭もフィリピンに休暇で二月末に戻り、マニラの修道院は多くの司祭達でにぎやかになりました。

 サア神父様は三月三日にアフリカに発たれ、こうして、やはりアフリカのガボンで働いているサルバドール神父様と共にアフリカで働く第二番目のフィリピン人宣教司祭となりました。サア神父様のご活躍のために兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

 三月五日には「聖母の騎士会」のマニラ支部にフランスから総会長が来られ、その機会にヨゼフ小野さんが「聖母の騎士会」に入会されました。その日には日本からもコルベ君がマニラにある聖ピオ十世会の「勝利の聖母教会」に来てくれました。

 四旬節ですので、今回も聖トマス・アクィナスの言葉の続きを紹介したいと思います。『神学大全』第三部 第46問 第4項 「十字架において苦しまれるべきであったか」の日本語訳をお送りします。

 今回は特に、私たちの主イエズス・キリストが十字架で苦しまれた七つの理由に注目してお読み下さい。原文となったラテン語は次をご覧下さい。

外国語サイト リンク CORPUS THOMISTICUM / Sancti Thomae de Aquino / Summa Theologiae / tertia pars a quaestione XLVI ad quaestionem LII / Quaestio 46

 良き四旬節となることをお祈りしつつ。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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神学大全 第三部より

第46問 キリストの受難について

第4項 十字架において苦しまれるべきであったか。

【問題提起】

 第4について次のように進められる。キリストは十字架において苦しまれるべきではなかったと思われる。


【異論】

異論1  真理は前表に対応しなければならない。ところでキリストの前表として旧約のすべてのいけにえが既に存在していた。そしてそこでは動物が剣にて殺され、その後には火で焼かれた。従って、キリストは十字架において苦しむのではなく、剣、あるいは火によって苦しまなければならなかったと思われる。

異論2 更に、ダマシェヌスはこう言っている。キリストは「名誉を毀損する苦しみ」を受けるべきではなかった、と。ところで十字架の死は最高度に名誉を毀損するものであり不名誉なものであると思われる。従って、知恵の書にもこう言われている。「われわれは、彼を極めて恥ずかしい死によって排斥しよう」従って、キリストは十字架の死を受けるべきではなかったと思われる。

異論3 更に、キリストについては、マテオ21:9に明らかなように、「主の聖名によりて来るものは祝せられよ」と言われている。ところで十字架の死は呪いの死であった。それは「木に掛かる者は天主によって呪われたもの」(第2法21:23)。従って、キリストが十字架に付けられることは相応しくなかったと思われる。


【しかし反対に】

 しかし反対に、こう言われている。「死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となった」(フィリッピ2:8)。


【回答】

 答えて言わなければならない。キリストが十字架の死を苦しむのは極めて相応しかった。

 第1に、徳の模範のためである。アウグスティヌスは『83の質問』の書の中で、こう言っている。「天主の知恵は、その模範に従って正しく私たちが生きるために、人となった。ところで恐れるべきでないことを恐れないと言うことは、正しい生活に関わることである。ところが、たとえ死そのものを恐れない人がいたとしても死の種類を恐ろしがる人がいる。従って、正しく生きる人にとって如何なる種類の死も恐れるべきではないということが、かの人の十字架によって示されるべきであった。何故なら、死のすべての種類のうちで、かの(十字架の死という)種類よりも忌まわしく恐るべきものは他に何もなかったからである。」

 第2に、この種の死は、人祖の罪の天主の正義を満足させるために最高度に相応しかったからである。その罪とは禁断の木の実を天主の戒命に反して取ったことにある。従って、キリストが科の罪の天主の正義を満足させるために、アダムが盗んだものを返却するかのように木によって苦しみを受けることは、相応しかった。これについては詩篇68:5の言葉による。「私が盗まなかったものを、私は支払った。」従って、アウグスティヌスは御受難についての説教の中のあるところでこう言っている。「アダムは掟を軽蔑し木から実を受けた。しかしアダムが失ったものはすべてキリストが十字架にて見いだした。」

 第3の理由は、御受難についての説教の中でクリソストモが言うように「屋根の下にではなく、十字架の高みにおいて主は苦しまれた。それは大気そのものの本性さえも清めるためであった。しかし大地でさえも同じような利益を被った。何故なら主の脇腹より出る血潮の流れによって清められた」からである。そしてヨハネ3:14「人の子もあげられなければならない」の注釈にこう言う。「『あげられる』と聞いて、高いところに掛けられることだとあなたは理解する。それは大地を歩き回りつつ地を聖化したお方が、大気を聖化するためであった。」

 第4の理由は、クリソストモが言うように、十字架において死ぬことを通して私たちが天へ上ることを準備するからである。従って、主はこう言っている。「私は地上からあげられて、すべての人を、私のもとに引きよせる」(ヨハネ12:32-33)。

 第5の理由は、これが全世界の普遍的な救いに相応しいことだからである。従って、ニュッサのグレゴリオはこう言っている。「十字架の前表は、その4つの最先端部分においての接触を通じて、そこに掛けられている方の力と摂理とがどこにでも広がると言うことを意味している。」クリソストモもこう言う。十字架において「主は両手を広げ死んだ。それは片手では旧約の民を、もう一方の手では異邦人からの人々を引き寄せるためであった。」

 第6の理由は、この種の死を通して様々な徳が意味されるからである。従って、アウグスティヌスは『新旧約の恵みについて』という書の中でこう言っている。「天主はこの種の死を無益に選んだのではなかった。使徒聖パウロがそれについて語っている広さと高さと長さと深さ(エフェゾ3:18)教師となることが出来るためであった。何故なら、広さは上を横たわって固定された木の梁においてあり、これには良き業が関係する。何故ならそこに両手が伸ばし付けられているからだ。長さとは梁の木から地面まで顕わになるところにあり、ここにはある意味で、植えられ、つまり堅忍し、堪え忍んでいる。忍耐強さということに帰せられるものである。高さとは、横に固定されている梁から上に伸びた部分の木にあり、つまり十字架に付けられた者の頭に当たる。何故なら、主は、良く希望する者たちの最上の希望だからだ。さて固定され隠れている木の部分は、そこから他のすべてが生え出ているが、無償の聖寵の深さを意味する。」さらにアウグスティヌスは聖ヨハネ聖福音の注解の中でこう言っている。「苦しむ主の肢体が付けられた木は、教える教師の教壇でもあった。」

 第7の理由は、この種の死は、様々な前表に対応するからである。これは『受難について』の説教においてアウグスティヌスが言うように、人類は木で出来た箱船により大洪水の水から救われた。天主の民がエジプトから脱出するときは、モイセは海を杖で分け、ファラオを打ち負かして天主の民を贖った。同じくモイセは木を水の中に投げると苦かった水は甘くなった。木製の杖によって霊的岩から救いの泉が湧き出た。アマレク族を打ち負かすために、モイセは杖を取って両手を広げた。天主の掟は、木製の契約の櫃に収められた。これらすべての前表によって、あたかも一歩一歩前進するかのように、十字架の木に向かっている。


【異論への回答】

 異論1については、それゆえ言わなければならない。燔祭の祭壇は、その上で動物のいけにえが捧げられたが、脱出27:1にあるように、かつては木で作られていた。これに関する限り真理は前表に対応している。しかしダマシェヌスが言うように「すべてに関して(対応する)必要はない。何故ならそうであったらもはや類似ではなく真理となってしまっていただろうから。」

 さらに、クリソストモが言うように、特に「洗者ヨハネがされたようではなく、頭が切り取られてはいない。イザヤがされたように2つに切断されたわけではない。それは完全で分割できない体が死に従い、教会を分断することを望む人々の口実とならないためであった。」 ところで物質的な火の代わりに、キリストの燔祭においては愛徳の火があった。

 異論2については言わなければならない。キリストは知識や聖寵、或いは徳の欠如に関わる不名誉な苦しみを受けることを拒んだ。ただし外部から加えられた危害に関するものはそうではなかった。否、ヘブレオ人への手紙にあるように、主は「恥をもかえりみずに十字架をしのび」(ヘブレオ12:2)給うたのだ。

 異論3については言わなければならない。アウグスティヌスが『ファウストゥス論駁』の書に言うように、罪は呪いである。従って、死と罪から由来する死すべき性質が生じた。「死すべき性質を持ったキリストの肉体は、 "罪の肉体の似姿を持つ" ものである。このためにモイセはそれを呪われたと呼ぶ。それはちょうど使徒聖パウロがそれを罪と呼ぶように。パウロは言う。『天主は罪を知らなかったお方を、私たちのために罪となされた。』(2コリント5:21)。」つまり、罪の罰(poena)を通して、ということである。「従って、更に大きな屈辱(invidia)はない。何故なら "天主により呪われている" と言ったからである。天主が罪を憎まないなら、罪の罰を受けそれを取り除くために、ご自分の御子を送らなかっただろう。従って、私たちのために死に給うたとあなたが告白するお方が、私たちのために呪いを受けたことを告白せよ。」従って、ガラチア3:13にも「キリストは、私たちのために呪いとなって、律法の呪いから私たちをあがなわれた」と言われている。


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