マニラのeそよ風

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第419号 2012/02/15 殉教者ファウスティの及びヨヴィタの記念

Ss.Faustinus & Jovita, Mm.
Ss.Faustinus & Jovita, Mm.


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか? 遅れてしまいましたが、新年のご挨拶を申し上げます。昨年の3月11日に起こった東日本の大震災から11ヶ月がたちました。被災された方々と心を合わせて一日も早い復興をお祈り申し上げます。

 昨年の12月には3人の子供の日本人のお父さんがヨゼフの霊名でマニラで受洗されました。おめでとうございます!

 今年の1月は、20年ぶりに聖イグナチオによる30日間の霊操を行う機会に恵まれました。最初は、フランスで副助祭の時に行いました。聖ピオ十世会の総会の決議によれば、司祭は10年ごとにこれを行うことが勧められています。この20年ぶりに機会が与えられたことを天主様に感謝します。

 黙想会の間は、もちろん黙想会のテーマに沿って黙想しておりましたが、日本の愛する兄弟姉妹の皆様のことや、日本からの召命、東日本の大震災で苦しまれた方々のためにずっとお祈りしておりました。

 昨年の8月には、初めて来日されたアンダーソン神父様をつれて大阪城に行ってきました。大阪城は実は三代目で昨年で80年だそうです。ピオ十一世教皇様がエフェゾ公会議の1500周年を記念して聖母マリア様の祝日を制定した正にその同じ1931年に建て直されました。実は、10月11日は、聖母マリアが天主の聖母であるということをエフェゾ公会議(431年10月11日)が発表したのですが、その1500周年を記念して、ピオ十一世教皇様が1931年に制定した祝日です。エフェゾ公会議から、昨年で1580年が経ちました。

 初代大坂城は、天正11年(1583)豊臣秀吉によって工事が開始され、15年の後に完成しました。しかし慶長20年(1615)大坂城は落城し、カトリックを迫害した豊臣家も滅亡。初代大阪城は17年という短い歴史を閉じました。

 2代目大坂城は、元和6年(1620)、2代将軍徳川秀忠によって再築工事が開始され、カトリックを迫害した3代将軍家光の時に完成しました。しかし、寛文5年(1665)に天守閣は落雷を受け、竣工後わずか39年で焼失しています。

 3代目大阪城は、昭和6年(1931)に大阪城天守閣が誕生しました。太平洋戦争の戦火も逃れ、昨年で80歳を迎えて今日に続いています。

 大阪城80年を知り、今から71年前に「日本天主公教教団」が日本政府によって公認された(1941)ことを思い出しました。

 「切支丹邪宗門」の高札が取り払われ、獄中のカトリック信徒にキリスト教禁制解除の知らせが届いたのは、今から145年前の1867年のことでした。黙認されていた日本カトリック教会が「日本天主公教教団」として、日本の「宗教団体法」によって法人格を与えられたのが、今から71年前の1941年5月3日のことでした。

 天主公教教団が認可された時、最初のキリスト教団であったために、内外に大きなセンセーションを巻き起こし、東京朝日新聞は「日本天主公教教団公認せられる」と大見出しを掲げて報道しました。その最初の主日に、土井大司教は教団統理者として全国の教会や伝道所、修道院に対して「公認感謝」のミサ聖祭の挙行を指令しています。

 当時のことを志村神父様が「教会秘話」に書いています。神田教会にいた志村神父様は毎週一回文部省に出頭して苦しめられました。「検閲官は西村徳次郎といって、まだ30歳にも満たないと思われる青年だった。・・・彼は細かい点に至るまでこれはおかしい、ここは認められないと、修正や削除を求めて来た。」そうです。当の西村徳次郎は、戦争中に多くの聖職者達の立派な姿を見、同時に官僚が迫害しているのを知り、下落合にあった修道院のノール神父様を訪ねて公教要理を乞い、シャンボン大司教によって東京小石川関口天主堂で1944年4月8日の復活祭に洗礼の恵みを受けています。(詳しい内容については、西村徳次郎著「昭和キリスト教受難回想記」の「十五、魂の救い」の章にあります。)

 「昭和キリスト教受難回想記」の「十三、ブスケ神父の獄死」には、今から69年前の1943年、67歳のブスケ神父様が、憲兵であった「求道者の青年」によって「不敬罪」として連行され「拘置されてから一ヶ月足らずの3月15日、シルベン・ブスケ神父は地上における生涯を終えた。憲兵隊から渡された遺骸は、全身傷だらけで二目と見られない悲惨なものであった。短い拘置中の生活が如何に恐ろしいものであったか、引き取りに行った信者たちはぎょっとし、新しい涙にさそわれた」(75ページ)のでした。

 今から70年前までは、日本では竹槍をもって玉砕するのだと言っていました。多くの若い英霊たちは祖国のために玉砕していきました。私たちはそのような先祖を笑うことは決して許されません。私たちはそうやって自分を犠牲にしていった先祖に感謝しなければなりません。何故なら、たとえ自分は死んでも、たとえ自分は苦しんでも、将来の日本に生まれてくる子供たちと子孫には、美しい郷土と安全な国土を譲りたいとの思いで亡くなっていったからです。

 それから日本のカトリック教会の歴史に思いをはせます。残酷を極めた竹中菜女が長崎奉行になったのが、今から383年前、徳川家光の時代の1629年。切支丹の墓を暴いて死体を掘り出して全て火で焼いたり、信徒らをとらえて積雪極寒の岩上に裸体で立たせたり、硫黄の熱湯を浴びせたり、斬首、焚殺、火を付けた蓑踊り、鋸挽き(首を鋸で切って傷口に塩を付けて竹槍で挽く)、逆さ吊し、硫黄責め、など。(この厳しい拷問で、クリストファン・フェレイラは棄教し、沢野忠庵となっています。)

 日本最初の殉教者を出したのが、今から415年前、豊臣秀吉の時代の1597年2月5日でした。聖フランシスコ・ザベリオがインドのゴアから天主教伝道のために来日し鹿児島に着いたのが、いまから453年前、足利将軍時代の1549年8月15日でした。聖フランシスコ・ザベリオは、天皇に会おうと京の都まで歩いて行きます。

 京都の平安京は、鳴くよウグイスと794年に桓武天皇が首都と定め、東京に遷都する1869年まで1075年間、日本の首都でした。

 繰り返しになりますが、エフォゾの公会議が開かれたのは431年です。今から1581年前!です。あと19年でエフォゾの公会議から16世紀がたちます。

 そんなことを考えてから、原発の放射能廃棄物について自然と思いが行きます。何千年も安全に保管しなければならない使用済み核燃料のことです。フィンランドでは100,000年以上、管理するのだそうです。

日本語サイト リンク NHK WORLD DOCUMENTARY BS世界のドキュメンタリー
『地下深く 永遠(とわ)に ~100,000年後の安全~ (再)』

 でも、10万年も、私たちのうちのだれがそんな責任を持てるのでしょうか?

 私たち人間には、物質の性質を知り、それに従ってその性質を利用して使っていくことができますが、その性質を変えてしまうことは出来ません。金は金としての性質を持っていますし、銀は銀としての性質を持っています。放射能性物質は放射能を発し続け、その半減期も定まっています。私たちには錬金術を行うことができません。木を金に変えることも出来ませんし、放射性のプルトニウムをプラチナに変えることも出来ません。

 放射能廃棄物については、間違いが許されない問題です。一回汚染されてしまったら取り返しが付かないからです。原子力の「失敗を生かして」と言う悠長なことを言うことは許されないのです。その結果が半永久的に持続するために、あまりにも毒性が強いために、失敗は絶対に犯してはならないのです。一度の失敗でも、日本民族の全滅につながってしまう危険があるからです。

 今年2011年3月11日の地震による福島第一原発の事故で、豊かで美しい日本の国土、首都圏を含む関東と東北が、すでに放射性物質で汚染されてしまいました。残念ながら、本州中央部の広大な地域が、東北と関東の広大な大地と豊かな海が、放射能で汚染されてしまったのです。残念です。

 3月11日を境に、日本は、3月11日までの日本ではなくなってしまいました。生活の仕方を変えなければならない日本になりました。残念ですが、安全で豊かな自然に恵まれた美しい日本から、放射能に汚染された日本になってしまいました。今回の事故で、10万人以上の方々が自分たちの愛する故郷を失い、半径20km圏内だけでも600平方kmが住めなくなってしまいました。

 汚染が日本全国の農地にまで進展する危険のある、セシウム入りの肥料や、腐葉土が蒔かれていますし、セシウム入りセメントで、ビルやマンションを建てようとさえしています。汚染瓦礫や汚染汚泥が焼却され、山林に埋められ、埋立られ、肥料にされ、建築材料にされ、汚染が日本全国に広げられつつあります。

 私たちに出来ることは、地震と爆発で被害を受けた圧力容器と格納容器との中にある核燃料を水で冷やすだけです。この後、あと何十年も冷やし続けなければなりません。

 確かに携帯電話もその他の産業廃棄物も危険ですが、時間が解決してくれます。しかし、放射性廃棄物はその危険度が、時間長さが桁違いで、半永久的なのです。例えばセシウム137の半減期は30年です。しかし、プルトニウム239の半減期は24,110年だといわれています。(プルトニウムは、自然状態では存在していません。原発を使うと生産されます。)

日本語サイト リンク (広島大学大学院総合科学研究科 環境自然科学講座)
 地球資源論研究室 プルトニウム(Pu) Plutonium

 放射性物質が10分の1になるのには半減期の3倍以上の期間が必要です。半減期30年のセシウム137なら100年かかります。しかし、プルトニウム239の半減期は24,110年です。

 従って、今プルトニウム239に汚染されてしまったら、放射能は2.5万年経ってようやく半分になるにすぎないのです。5万年経ってもようやく4分の1です。だから汚染されてしまったら取り返しが付かないのです。

 しかし、放射性廃棄物の安全で半永久的な保管を確保する展望があるわけではないのに、展望のない放射性廃棄物をこれ以上増やすことが出来るのでしょうか?

 私たちの先祖は、たとえ自分はどうなっても、将来の日本の子孫には安全な郷土を残そうと思って玉砕していきましたが、それにひきかえ、私たちは、たとえ子孫が、将来何トンもの放射能廃棄物の安全な管理に頭を抱えようとも、莫大な負債を子孫に残そうが、今の景気に役に立ってお金が儲かるなら、今の経済的利益になるなら、自分が快適ならそれで良いのだという考えの方が強くなっているのではないだろうかと思われて、辛く思われました。

 ***

 さて、黙想会のために、翻訳の発表が遅れてしまいましたが、聖ピオ十世兄弟会の友人と恩人の皆様に宛てたフェレー司教様の手紙(第79号)の日本語訳をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



聖ピオ十世兄弟会の友人と恩人の皆様に宛てた
フェレー司教様の手紙(第79号)
2011年12月22日

Bishop Fellay


親愛なる友人と恩人の皆様へ、

 あと数日もすれば、私たちの主イエズス・キリストの御降誕という幸せな到来を私たちは祝うでしょう。待降節及び降誕節の聖なる典礼は、私たちの私たちの主の神性に対する信仰で満たされております。取り分け、その到来が予言されている旧約聖書に訴えながら、この典礼は、生まれたばかりの幼子の特権と権利の無限なる大きさを以って、私たちの知性と私たち心に染みこむのです。

「永遠の昔に母なくして御父よりお生まれになった御方は、時間において父なくして一人の御母よりお生まれになった」 (第11トレド公会議の信経から)【1】

 主がその童貞性を守りつつ、御母であるいとも聖なる童貞マリアから御自分の人性を受け、彼はまさにそのことを以って、御自身の神性から何一つ失わなかった事を証明しているのです。「モーゼの見た、焼け尽きぬ燃える茂みに、守られた御身の称賛すべき童貞性を私たちは認める。」(1月1日の賛課交唱より) 真の天主であり真の人、救い主イエズスを、王の称号で主を褒め称えながら主をお迎えする事を公教会は喜びます。

 平和の王、Rex pacificus 。ここで、私たちはこの真理について何らか詳しく見てみたいと思います。この真理は、いわば公教会を揺さぶり、聖ピオ十世兄弟会と聖座との関係に影響を及ぼしている危機の中心にあります。

 確かに、今日的な問題の根底は、私たちの主イエズス・キリストの神性に対する信仰の喪失として要約されうると私たちには思えます。おお!もちろん、多くの方々は、イエズスが天主である事を信じると宣言するでしょう。しかし、時の終わりに世界中の見ている前で明らかにされるであろうその真理の具体的結論を引き出す準備が出来ているのは、その中のごく僅かな人だけなのです。その時、イエズスはついに御自身の栄光を全く完璧に輝かせるでありましょう。全被造物に対する権能は、全ての人々‐異教徒やキリスト教徒、無神論者、無宗教者、さらに強盗や信徒たち‐に及び、つまり万人が、主の御名を聞くだけで、その御前に平伏すことになるでしょう。何故なら、全ての膝は天に於けると同様に地でも屈めるからです。(フ2,10参照)

 私たちと共にいる事をお喜びになられた地上生活の短い期間に、主は御自身の主権を一部お隠しになりました。しかしこれは試練の時だけ、そして贖罪の使命を完遂する時間だけのことでした。「彼は私たちの罪の為に死去された。」(前コリ15:3)

 ところが御自分の全能を私たちの目から隠したその時間でさえ、主は少しもそれを失う事はありませんでした。「私には天と地の一切の権威が与えられている」(マテオ28:18)とは、文字通りにとられるべき宣言です。主こそ万物をお創りになった御方であり、全てがこの方の為に創られ、創られたもののうちこの方に拠らずして創られたものはない(ヨ1,3参照)のです。

 人間の歴史に於いて、私たちの主の神性を【理論上それを信じていても】実践上拒絶することは、しばしば私たちの主の 王権 の拒絶によって明らかにされます。主の王権こそ、既に「ユダヤ人の王、ナザレト人イエズス」(ヨ19:19)とあるように、私たちの主に対する死罪宣告の罪標でありその理由でした。

 さらに歴史に於いて、非常に多くの場合、天主の拒絶は、私たちの主イエズス・キリストに対する服従の拒否により示されます。

 その状況とは全くの退廃なのですが、人間社会の具体的状況に適応させるという名目で、といわれますが実は、「彼は君臨しなければならない」(コ前15:25)という永久の何時までも有効な宣言を変えてしまった公会議を私たちに目撃させた信じ難い大事件を人類が目撃するには、二十世紀中頃まで待たなければなりませんでした。  このやり方は福音と調和すると彼らは主張していますが、事実は全く反対です。

 自由主義の詭弁家たちは、国家、また人間社会は、(それらもまた天主の被造物でありますが、唯一真の宗教と他の偽りの全ての諸宗教とを同等に扱うべきであり、それぞれの宗教に、存在する権利と、拘束を受けずに発展する権利、さらに礼拝を執り行う権利を平等に与えるべきだと噂を広めました。

 これは、人間を不当に踏みにじり、各個人の良心を抑圧する全体主義国家の悪弊に反対することだと彼らは言い張ったのです。第二バチカン公会議によりこれらのテーゼ--それはフリーメーソン自身のものですが、--が鳴り響くのを聞くとフリーメーソンの会員たち自身が、その喜びを表明しています(Yves Marsaudon, L’oecumenisme vu par un franc-macon de tradition <イーヴ・マルソドン著、伝統的フリーメーソン団員から見たエキュメニズム>、1964年出版、参照)。

 明らかに、告発された悪【人間を不当に踏みにじり、各個人の良心を抑圧する全体主義国家の悪弊ということ】の中には、何らかの真理の要素もあります。しかしそれに対する救済策は、公教会が常に教えて来たもの、つまり寛容なのです。第二バチカンに於いて宣言されているような、信教の自由の権利とは、全く別物です。これは私たちが聖座に抗議した問題点の一つです。

 この信教の自由は、本物と偽物を同列に置きながら、自らの創造主である天主を敬い、そしてこの天主に仕えるという義務を、国家及び人間社会の双方に、故意に免除しています。これは宗教上の事柄に関して、あらゆる放埒に道を開くのです。これは教会内において、全人類の救霊にとって唯一の道であるという<カトリック宗教の>特権を、放棄してしまったかのようです。これ【カトリック教会のみが全人類の救霊にとって唯一の道であること】をまだ信じている方々でさえ、もうそれについて語りません。多くの人々は、それと反対の事を考えるように導いています。つまり現代世界に対するこの譲歩は、私たちの主イエズス・キリストの王権と引き換えに行われているのです。

 今言及したばかりの事柄から直接に導き出されるもう一つの結果は、エキュメニズムの実践の中に見られます。私たちの「分かたれた兄弟たち」とより近くになれるという口実で、カトリック教会は救いをもたらすこれらの真理をもはや宣言しなくなったのです。何故なら彼らにとってそれは聞くに堪えないから、です。カトリックは、この分たれた兄弟たちの改宗に努める事を故意にしなくなりました。エキュメニズムはもはや改宗させることを望んでいません。改宗させるというこの言葉は使用禁止されています。たとえそれを依然として大目に見ているとしたら、信教の自由の名に於いてそうしているのです! 

 それなら、私たちの主イエズス・キリストの教会は一体何処にあるのでしょうか? カトリック教徒たちの誇りはどこに行ってしまったのでしょうか? カトリックを臆病にしているのはその指導者たちです! 指導者たちが冒涜的な演劇を非難すべき時、そうしなかったのを見て、誰もがフランスで最近そのことを確認する事が出来ました。もし同じ侮辱行為がイスラム教徒たちに対して行われていたとすれば、その国は火の海、血の海となっていたことでしょう。

 今日のキリスト者たちは、あまりに柔弱となってしまい、どのようなことが起ころうともかまわなくなってしまったのです。人々が攻撃しているのは、この世の王の名誉ではなく、王たちの王にして、主の主、私たちに全てを下さった救い主の名誉なのです!

 もちろん私たちは、私たちの主の聖心にとって非常に大切なこれら全ての霊魂の救いと、彼らの正しい信仰の道への帰還を願っています。といいますのは、主は御自分の命と引換えにこの霊魂たちを贖ったからです! しかし現在のエキュメニズムというやり方は、過去何世紀にも及ぶ公教会一致への配慮とはもはや何の関係もありません。【第二バチカン公会議のエキュメニズムによれば】誰もが善良であると考えられ、その結果として、永遠に滅びる人々がいるという見方はこの用の賢い人々をして躓かせてしまう、とされるのです。彼らは地獄が空っぽである、あるいはほぼ空であると説教しています。しかし公教会の教えはそれと全く違っています。

 三つ目の躓きの石も、権威の減少と関連しています。

 私たちの主は公教会の頭です。しかし、主は御自分の教会が目に見える事を望まれましたので、昇天の後も、頭があり続けるように、地上に於ける御自分の代理者なる目に見える頭、つまりペトロとその後継者たち公教会にお与えになったのです。彼にのみ、私たちの主は羊と子羊とを(つまり司教らと信徒たちとを)養う権限をお与えになりました。彼のみが公教会の各々の全ての成員に対する完全かつ最高のさらに直接の権力を持っています。

 だからこそ、公教会は唯一の者により統治される君主体制であると常に自認して来たのです。なるほど、統治が人間によってなされるという特徴故に、助言と賢明な人々の意見とを求めるということはよく理解できます。しかし、司教団体性や司教評議会という議会のパロディーを通じて公教会へと持ち込まれた民主主義の形態は、ありとあらゆる悪弊を許しており、それぞれの司教区は、唯一の頭、即ち、司教区の司教のみが有すると宣言する神法による諸規定を司教団の圧力に委ねています。

 今日、権威は酷く揺さぶられておりますが、それは、この統治に参加を要求する世俗の指導者たちの抗議を通してくる外部からのみならず、それはまた、今日の環境の中で数多くの会議や委員会が加えられることにより、これらが私たちの主イエズス・キリストによって委任された権威の適切な行使を妨げ、公教会の内部からも揺さぶられているのです。

 これら躓きの石の一つ一つを見ると、基本的に私たちは全く同じ問題を見出していることに注目すると、ぞっとしませんか? この世に気に入られるため、あるいは少なくともこの世に順応し、それと妥協する為に、彼らは私たちの主イエズス・キリストの権威をいろいろなやり方で犠牲にしたのです。信ずるキリスト者に対する権威及び私たちの主が御自分の御血を流した全ての人々に対する権威、さらにこの人々が一員を成しているあらゆる国家に対する権威を。

 これこそが今現在、公教会に害を与えているものです。この危機から抜け出すには、「キリストに於いて全てを復興」(エ1:10)しなければなりません。それは至る所で、また全てに於いてこの主に、つまり全てにおいて全てであろうとお望みである主に最高の地位を与える事です。人々が公教会を毒しているこのリベラルな環境から離れようとしない限り、公教会は衰え続けるでしょう。

 正に、この痛ましい現実が原因ゆえに、ローマと私たちの関係が難しいのです。

 だからこそ聖ピオ十世会に於いて、私たちは私たちの主イエズス・キリストの王権についてきわめて頻繁に話すのです。そうする理由は、実際上、この王権こそが私たちの主の神性を認めていることの要点だからです。この生活を平たくいうと、つまり、主は私たちに対する全権利を無条件に持っているということです。

 全ての人間、つまり異教徒であれカトリックであれ、さらに老いた方であれ若い方であれ、富める方であれ貧しい方であれ、また力ある方であれ弱い方であれ、皆が、まさしく皆が、この地上での人生について最終の総決済の報告をする事になるでしょう‐即ちこれまで全てを与えて下さった彼らの最高審判者にして彼らの天主に報告するのです。ここまでの数行が、私たちの主の王権の教義は如何に私たちに関わりのあるものであって、さらに私たちの主の王権を擁護する戦いは時代遅れなどではなく、むしろその逆で非常に必要なものであるかを示していると期待致します。現代において、これは生き残る為の責務です。

 天主の御母であり、イエズスの御母なる聖母が、御子の栄光の為、どうか私たちの祈りに御耳を傾けて下さいますように。彼女が私たちを保護して下さると共に、沢山の危険に直面する私たちの小さき兄弟会をお守りになり、さらに私たちの道案内にして私たちの弁護者、そして私たち自身及び私たちの臆病さに対する私たちの勝利となって下さいますように。私たちが熱心に祈り求めている聖母の凱旋を待ちながら、聖母が私たちの希望でありますように。それは、聖母がこの世における、そして永遠に亘って、私たちの喜びとなるためです。

Nos cum prole pla, benedicat Virgo Maria.
<聖なる幼子と共に童貞マリアが私たちを祝福して下さいますように。> 

╋ ベルナール・フェレー
2011年12月21日、使徒 聖トマスの祝日に

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【1】:第11トレド公会議の信経、デンツィンガー536(48):「しかしながら、彼<キリスト>における二つの誕生は驚くべきものである。何故なら、開闢前に彼は母なくして御父より生まれ、さらに時の終わりに父なくして一人の母より生まれたからである。」

(仏文):(48) Cependant en lui les deux générations sont admirables, parce qu'il a été engendré du Père, sans mère, avant les siècles, et parce qu'à la fin des siècles il a été engendré d'une mère, sans père.

(ラテン原文):(48) Ambae tamen in illo generationes mirabiles, quia et de Patre ante saecula sine matre est genitus, et in fine saeculorum de matre sine patre est generatus


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