マニラのeそよ風

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第414号 2010/05/11 使徒聖フィリッポと聖ヤコボの祝日

聖ピリポ


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 先日5月1日付けで聖ピオ十世会総長のフェレー司教様から「友人と恩人の皆様への手紙」第76号が発表されました。そこで日本語の訳をご紹介いたします。


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聖ピオ十世会総長の
友人と恩人の皆様への手紙 第76号


親愛なる友人と恩人の皆様、

 教会の状況は、ますます、あらゆる方向に波立つ海のように思えます。この海で、ペトロの船【訳注:カトリック教会】を底知れない深海に引きずり込ませ転覆させようとするますます多くの波が起きているのを見ています。第二バチカン公会議以降、或る一つの波は、教会を残骸のかたまり即ち霊的砂漠(このことを教皇たち自身が「背教」を呼びました)しか残さないように常に下へと全てを引きずり下ろそうとしているようです。私たちは、この厳しい現実をもう一度描写しようとは思いません。私たちは既にしばしばそうしてきましたし、皆さんはどなたもそのことを確認することが出来ます。

 しかし最近数ヶ月に起こった出来事をすこしコメントすることは有益であると私たちには思えます。私は、その激しくびっくりするような最近の攻撃、特にカトリック教会と教皇様とに反対して計画的になされている攻撃について語りたいと思います。何故そのような激しい攻撃があるのでしょうか?

 私たちのイメージにもう一度戻ると、少し以前から、ベネディクト16世の教皇登位を前後して以来、新しい波が現れました。この波は最初の波よりも極めて目立たないものですが、人々がこの波の存在に気が付くほどしっかりした波です。この波に対立する他の全ての波に負けずに、これは【第二バチカン公会議以後の】最初の波と反対方向に向かって進んでいるようです。刷新の動き或いは復興のこの新しい動きは、現実のものであると断言できるほど、それを示す兆候は様々で数も多くあります。特に第二バチカン公会議の改革の霊的効果のあまりのなさに失望した若い世代において、それを確認します。進歩主義者達がベネディクト16世に反対してなす極めて厳しく又にがにがしい叱責を考察すると、進歩主義者らは現教皇その人において刷新のこの始まりの最も力強い原因の一つがあることを見抜いていることは確かです。事実、教皇様のイニシアティヴがむしろ遠慮がちであると私たちには見えたとしても、そのイニシアティヴは、教会の内部でも教会の外部でも、そして多くのレベルで、革命的で左翼化している世界を深く腹立たせているのです。

 進歩主義者達の苛立ちとこの世の苛立ちは、道徳に関することで最初に感じられました。特に、アフリカにおけるエイズの問題でコンドームの使用に関する教皇の言葉に、しかし極めて慎重な言葉に、左翼とリベラル派はいらだったのでした。教会の日常生活に関しては、2007年に永久のミサがその権利を回復させましたし、その二年後には、私たちの資格を奪おうとしていた屈辱の制裁が破棄されたので、ありとあらゆる種類のリベラル派と進歩主義者達の怒りを買いました。さらに、司祭年というすばらしいイニシアティヴは、司祭に名誉を与え、霊魂たちの救いのために司祭が極めて重要で必要であることを思い起こさせ、司祭の模範としてアルスの聖司祭を提示しました。これはキリスト教民に司祭たちのために祈れと招いたのみならず、教会の大部分で忘れ去られてしまっている改悛の秘蹟を受けるようにとの呼びかけでもあり、御聖体に対する礼拝とりわけ聖なるホスチアにおける私たちの主イエズス・キリストの礼拝の重要性に注意を向けるようにとの呼びかけでありました。私たちの主イエズス・キリストが現実に実体的に【御聖体において】現存している現実を示す明らかな指示でもありました。

 同様に、明らかにより保守的な司教たちが任命を受けました。新しく任命を受けた司教らの中には、既に聖伝のミサを以前に捧げていたことがある方々もいました。この逆流する小さな波が現実にあるということの否定することの出来ない霊としてさらにアイルランドのカトリックへの書簡を挙げることができるでしょう。この手紙は改悛と告解と霊操をするようにと招き、御聖体のイエズスを礼拝するようにと要求しています。たとえ私たちにとって、これらの努力が教会の退廃と危機とを止めるのにまだ不足していると評価され、特に、例えばユダヤ会堂の訪問やプロテスタント寺院の訪問など、前任教皇の残念な轍を踏むような数々の行為があることを見るとその評価には正しい理由があるにもかかわらず、近代主義者たちにとっては大混乱の時の鐘が鳴り響いているのです!

 大きな波は驚くような激しさで、ごく小さな波を非難するのです。この二つの波はその大きさがかなり違っているのですが、それが出会ったときには多くの激動と騒ぎとを引き起こし、この二つの内のどちらが勝ち残るかを区別し予見することは大変難しい混乱した状況を引き起こしています。それは驚くべきことではありません。しかし、このようなことは今までになかったことであり、歓迎するに値するものです。ただし、これで教会の危機が終了したと信じ込ませるような不賢慮な熱心に陥ってしまうことではありません。その反対に、すでに決定的に既得権となったと思っていたものが再び検討の対象となるのを見ている古い勢力が、崩れ落ち始めている近代化の夢を救おうとして、全く疑いもなく大戦闘を仕掛けているのです。今起こっていることについて出来る限り現実的な眼差しを持ち続けると言うことはとても大切なことです。もしも私たちが教会とこの世においてなされる全ての良いことを喜ぶとしても、しかしながら私たちは現在の状況の深刻さを前に幻想を抱いてはいません。

 将来のために私たちは何を予想すべきでしょうか?教会における平和でしょうか、それとも戦争でしょうか? 多く期待されている善の凱旋とその回帰でしょうか、それとも新たな苦しみでしょうか? 小さな波は、将来全てを飲み込むほどの大きな波に成長することが出来るでしょうか? ファチマの聖母マリアの約束「最後に私の汚れなき聖心は凱旋するでしょう」が実現するという確実さがあったとしても、それは私たちの問いに必ずしも直接的に答えてくれるものとは限りません。何故なら、かくも待ち焦がれている凱旋が来る前にさらに大きな艱難を通らなければならないということを除外するわけではないからです。

 この大きく賭けられたものは、私たちのロザリオの十字軍においても存在します。私たちのロザリオの十字軍のすばらしい結果をお伝えする喜びから何かを取り去ろうとするつもりはありません。私たちは一年前、大胆にも1200万環のロザリオを皆様に求めました。それは、私たちの天の良き母、天主の聖母に戴冠するため、その星の数と同じだけ賛美のすばらしい帯で取り囲むためでした。この母は、天主様の敵どもの前で「戦いに備えた軍勢のように恐るべき」(雅歌 6:3)方として御自分を示されるのです。皆様は寛大にこの呼びかけに答えて下さり、私たちは1900万環以上のロザリオの花束をローマに持って行くことが出来ます。この数の中には含まれてはいませんが、直接に私たちの信者であるとは限らないけれど私たちと一致してなされたロザリオの数もあります。

 ピオ十二世教皇が、被昇天のドグマを宣言しつつ8月15日の祝日の入祭唱を天において大いなる印が現れたという黙示録の一節に変えることを望んだとしたら、それは確かに、偶然ではありません。黙示録のこの部分は、聖書において書かれている最も恐るべき戦いの一つの描写を始めています。つまり、大いなる竜はその尾をもって星の3分の1を掃き落とし、偉大な婦人との戦いを始めます(黙示録12章)。この文章は全て、現代のためにあるのでしょうか? 容易にそう信じることが出来ます。ただし、この神秘的で預言的な描写をあまりにも字面通りにまた一義的に適用させることを避けなければなりません。私たちの全ての祈りにはそれなりの重要性があること、私たちが直面している歴史のこの瞬間において極めて大きな意味があることを全く疑うことが出来ません。しかし私たちは教会の歴史のこの状況において、皆様に注意を促し励ます義務もあると考えます。

 皆様の大いなる寛大さは、疑いの陰もあり得ないほど、私たちの聖なる母であるローマ・カトリック教会と聖ペトロの後継者と教会位階(たとえこのために私たちがどれほど多く苦しんでいたとしても)に対する真実の愛着と愛情とを示しています。天主は悪よりもさらに強く、それに打ち勝ち給うでしょう。しかし私たちが望んでいるような豪華絢爛さを持ってではないかもしれません。  今や、ローマ当局をしてロシアの奉献を実現させるように説得しなければなりません。当局はすでにその奉献がなされたと言っていますから。聖母マリア様がファチマで言っていたことが現代のことであることを思い起こさせなければなりません。彼らは2000年には明らかにファチマのことにはもはや戻らせまいとページをめくらせることを望んでいたのです。私たちが要求することが実現させてはならないと困難と障害はますます数を増やしているかのようです。しかしそんなことは何でもありません。私たちは人間たちよりも天主により期待します。同じように、私たちがロシアの聖母の汚れなき御心への奉献という極めて単純な行為から期待するのは、教会と世界とのための驚く結果です。私たちが想像することの出来る全てを超えるような結果です。人々の目には愚かなことですが、しかし聖パウロがその時代に既に説教していたことの反映です。人間の目には賢いことは天主にとっては愚かさであり、天主の智恵はこの世の知恵者には愚かさであると思われているのです。(コリント前1:20)

 私たちは皆様の秀でた努力とこの祈りの理由を教皇様にお知らせし、そうすることによって私たちのやり方で教会の善に貢献することを期待します。私たちは皆様にこの同じ努力を続けて下さるようにお願いします。「求めよ、されば与えられん」と何度も多く祈るべきことを強調して、私たちの主イエズス・キリストご自身がその感動的な祈りへの激励において私たちを招いて下さったその模範に従います(マテオ7:7-11)。私たちが求めることの偉大さは、それが聞き入れられると言うことを疑いもせずに、それに比例するしつこさと堅忍とが求められています。

 ファチマのメッセージの本質はロシアの奉献においてだけではなく、聖母の汚れなき御心への信心にあるということも思い出しましょう。これらの全ての祈りと犠牲とが、私たち全てをしてこの天主の御母の御心への特別な信心を大きくし深めさせて下さいますように。それによってこそ天主は心を動かされることでしょう。  5月、聖母月の初めにあたり、私たち全てが聖母の母の保護のもとに身を置きますように。それこそが私たちの皆さんのために願うもっとも大切なことであります。皆様の大きな寛大さに感謝しつつ、私たちは聖母マリア様が幼子イエズスをもって皆様を祝福し給わんことを祈ります。

+ベルナール・フェレー
2010年5月1日、勤労者聖ヨゼフの祝日において


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フランス語原文:
外国語サイト リンク Lettre de Mgr Bernard Fellay aux amis et bienfaiteurs de la Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X (n°76, mai 2010)
英語訳:
外国語サイト リンク Letter to Friends and Benefactors no. 76


Lettre de Mgr Bernard Fellay aux amis et bienfaiteurs
de la Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X (n°76, mai 2010)

Chers amis et bienfaiteurs,

La situation de l’Eglise ressemble de plus en plus à une mer agitée en tous sens. On y voit des vagues, qui toujours plus semblent vouloir faire chavirer la barque de Pierre, l’entraînant dans des abysses sans fin. Depuis le Concile Vatican II, une vague semble vouloir tout emporter vers le bas pour ne laisser qu’un monceau de ruines, un désert spirituel que les papes eux-mêmes ont appelé une apostasie. Nous ne voulons pas décrire à nouveau cette dure réalité, nous l’avons fait souvent déjà, et tous vous pouvez la constater. Mais cependant il nous semble utile de commenter un peu les événements de ces derniers mois ; je veux parler de ces coups, surprenants par leur violence et particulièrement bien orchestrés, qui sont portés contre l’Eglise et le Souverain Pontife. Pourquoi une telle violence ?

Pour reprendre notre image, il semble que depuis quelque temps, plus ou moins depuis l’accession au pontificat du pape Benoît XVI, soit apparue une nouvelle vague, beaucoup plus modeste que la première, mais suffisamment persistante pour qu’on puisse néanmoins la remarquer. Contre toute attente, elle semble aller dans le sens contraire de la première. Les indices sont suffisamment variés et nombreux pour qu’on puisse affirmer que ce nouveau mouvement de réforme ou de restauration est bien réel. On le constate en particulier auprès des jeunes générations, manifestement frustrées par le peu d’efficacité spirituelle des réformes de Vatican II. Si l’on considère les reproches très durs et amers que formulent les progressistes contre Benoît XVI, il est certain que ceux-ci perçoivent dans la personne même du pape actuel l’une des causes les plus vigoureuses de ce commencement de renouveau. Et de fait, même si nous trouvons les initiatives du pape plutôt timides, elles contrarient profondément le monde révolutionnaire et gauchisant, tant au-dedans de l’Eglise qu’au dehors, et ce à plusieurs niveaux.

Cet agacement des progressistes et du monde se fait d’abord sentir dans les questions qui touchent la morale. En particulier, la gauche et les libéraux ont été agacés par les propos pourtant bien pesés du pape sur l’usage des préservatifs dans la question du sida en Afrique. Concernant la vie de l’Eglise, la réhabilitation en 2007 de la messe de toujours dans son droit, puis l’annulation deux ans plus tard de la peine infamante qui voulait nous disqualifier, ont provoqué la rage des libéraux et progressistes de tout poil. De plus, l’heureuse initiative d’une année sacerdotale remettant le prêtre à l’honneur, rappelant son importance capitale et si nécessaire pour le salut des âmes, et proposant comme modèle le Saint Curé d’Ars, est non seulement une invitation faite au peuple chrétien de prier pour les prêtres, mais encore un appel à recourir au sacrement de pénitence, complètement tombé dans l’oubli dans de larges portions de l’Eglise, ainsi qu’à prendre soin du culte eucharistique en considérant notamment l’importance de l’adoration de Notre-Seigneur dans la Sainte Hostie, claire indication de la réalité de la présence réelle et substantielle de Notre-Seigneur Jésus-Christ.

De même, la nomination d’évêques nettement plus conservateurs, parmi lesquels un certain nombre célébraient déjà auparavant la messe tridentine. On pourrait encore citer comme exemple indéniable de la réalité de cette petite vague contrariante la Lettre aux catholiques d’Irlande invitant à la pénitence, à la confession, aux exercices spirituels, demandant aussi l’adoration à Jésus Eucharistie. Même si avec raison on estimera, dans nos milieux, que ces efforts sont encore insuffisants pour arrêter la décadence et la crise de l’Eglise, notamment au vu d’un certain nombre d’actes qui se situent dans la regrettable ligne de son prédécesseur, comme les visites à la synagogue et au temple protestant, cependant dans les milieux modernistes, l’heure du branle-bas de combat a sonné ! La grande vague s’en prend à la toute petite avec une violence surprenante. Il n’est pas étonnant que la rencontre de ces deux vagues, fort inégales, cause beaucoup de remous et de tumultes, et provoque une situation fort confuse où il est bien difficile de distinguer, et de prédire, qui des deux va l’emporter. Cependant, cela est nouveau et mérite d’être salué. Il ne s’agit pas de tomber dans un enthousiasme inconsidéré qui voudrait faire accroire que la crise est terminée. Au contraire, les forces vieillissantes, qui voient remis en question les acquis qu’elles pensaient définitifs, vont livrer sans aucun doute un combat d’envergure pour essayer de sauver ce rêve de modernité qui commence à s’effondrer. Il est très important de conserver un regard aussi réaliste que possible sur ce qui se passe. Si nous nous réjouissons de tout ce qui se fait de bien dans l’Eglise et le monde, nous sommes cependant sans illusion devant la gravité de la situation actuelle.

Que devons-nous prévoir pour les années qui viennent ? La paix dans l’Eglise, ou la guerre ? Le triomphe du bien et son retour tant espéré, ou une nouvelle tourmente ? La petite vague arrivera-t-elle à croître suffisamment pour un jour s’imposer ? La certitude de l’accomplissement de la promesse de Notre-Dame à Fatima – « à la fin mon Cœur Immaculé triomphera » –, ne résout pas nécessairement et directement notre question, car il n’est pas du tout exclu qu’il faille d’abord passer par une tribulation encore plus grande avant que n’arrive le triomphe tant attendu…

Ce formidable enjeu se retrouve aussi forcément dans notre croisade de chapelets : nous ne voudrions en rien enlever quelque chose à la joie de l’annonce du résultat extraordinaire de notre Croisade du Rosaire. Nous vous demandions audacieusement, il y a un an, une douzaine de millions de chapelets afin de couronner, d’entourer d’une magnifique ceinture de louanges comme autant d’étoiles, Notre bonne Mère du Ciel, la Mère de Dieu, cette Mère qui se présente devant les ennemis de Dieu comme « aussi terrible qu’une armée rangée en bataille » (Cant. 6,3). Vous avez répondu avec une telle générosité que nous pouvons à présent porter à Rome un bouquet de plus de 19 millions de chapelets, sans compter tous ceux qui se sont unis à nous sans être directement de nos fidèles.

Ce n’est certainement pas par hasard si Pie XII, en proclamant le dogme de l’Assomption, a voulu changer l’Introït de la fête du 15 août par le passage de l’Apocalypse qui salue le grand signe apparu dans le ciel. Cet extrait de l’Apocalypse inaugure la description de l’une des guerres les plus terribles qui soient exposées dans le Livre saint : le grand dragon, qui va emporter avec sa queue un tiers des étoiles, vient livrer bataille à la grande Dame (cf. Apoc. 12). Tout ce passage est-il destiné à notre temps ? On peut facilement le croire, tout en évitant de faire des applications par trop littérales et univoques de ces mystérieuses et prophétiques descriptions. Nous n’avons absolument aucun doute que toutes nos prières ont leur importance, et même une très grande importance dans ce moment de l’histoire où nous nous trouvons. Cependant nous pensons devoir aussi vous avertir et vous encourager en ces circonstances de l’histoire de l’Eglise.

Votre grande générosité montre, sans le moindre doute possible, votre attachement et votre amour bien réels pour notre sainte Mère l’Eglise catholique romaine, pour le Successeur de saint Pierre, pour la hiérarchie, même si nous avons beaucoup à souffrir de celle-ci. Dieu est plus fort que le mal et le bien vaincra, mais peut-être pas avec toute la pompe que nous voudrions. Il faut maintenant convaincre les autorités d’accomplir la fameuse consécration de la Russie qu’elles disent avoir été déjà faite ; il faut rappeler l’actualité de ce que disait Notre-Dame à Fatima, alors que, en l’an 2000, on voulut manifestement tourner la page pour ne plus y revenir. Les difficultés et les obstacles semblent devoir se multiplier afin que ce que nous demandons ne se réalise surtout pas. Peu importe, nous comptons bien davantage sur Dieu que sur les hommes, de même que nous attendons d’actes aussi simples que celui de la consécration de la Russie au Cœur Immaculé de Marie des résultats surprenants pour l’Eglise et pour le monde, des résultats dépassant tout ce que nous pouvons imaginer. C’est folie aux yeux des hommes, mais c’est bien le reflet de ce que déjà saint Paul prêchait à son époque : ce qui est sage aux yeux des hommes est folie pour Dieu, tandis que la sagesse de Dieu est considérée par les sages de ce monde comme une folie insensée (cf. 1 Cor. 1, 20).

Alors que nous porterons à la connaissance du Saint-Père vos remarquables efforts ainsi que la raison de ces prières en espérant contribuer ainsi, à notre manière, au bien de l’Eglise, nous vous demandons de bien vouloir continuer ces mêmes efforts. Suivant l’exemple auquel nous invite Notre-Seigneur lui-même dans sa si touchante exhortation à la prière : « Demandez et vous recevrez », en insistant, et même beaucoup (cf. Mt. 7, 7-11). La grandeur de ce que nous demandons, sans que nous doutions d’être exaucés, réclame une insistance et une persévérance proportionnées.

Souvenons-nous aussi que l’essentiel du message de Fatima ne se trouve pas seulement dans la consécration de la Russie, mais bel et bien dans la dévotion au Cœur Immaculé de Marie. Que toutes ces prières et sacrifices nous fassent tous grandir et approfondir cette dévotion spéciale au Cœur de la Mère de Dieu. C’est par là que Dieu veut se faire toucher.

Qu’en ce début du mois de mai, le mois de Marie, nous nous retrouvions tous encore bien davantage sous sa maternelle protection, c’est là notre vœu le plus cher. En vous remerciant pour votre générosité bien grande, nous demandons à Notre-Dame qu’elle daigne vous bénir avec l’Enfant-Jésus.

+Bernard Fellay
1er mai 2010, en la fête de saint Joseph artisan


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Mgr.fellay

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Letter to Friends and Benefactors no. 76

Dear Friends and Benefactors,

The Church’s situation increasingly resembles a sea that is agitated in all directions. We see waves and more waves, which seem to be about to capsize the bark of Peter and drag it into the endless abyss. Since the Second Vatican Council, it seems that a wave has been trying to carry off everything into the deep, leaving only a heap of ruins, a spiritual desert, that the popes themselves have called an apostasy. We do not want to describe this harsh reality again; we have already so often done, and all of you can see that it is so. Still, to us it seems useful to comment somewhat on the events of the past months; I want to speak about the surprisingly violent and particularly well-orchestrated blows that have been dealt to the Church and the Supreme Pontiff. Why such violent attacks?

To return to our metaphor, it seems that for some time now, more or less since the beginning of the pontificate of Pope Benedict XVI, a new wave has appeared which is much more modest than the first, yet persistent enough that it is noticeable nevertheless. Contrary to all expectations, this wave seems to be going in the opposite direction compared to the first. The indications are sufficiently varied and numerous, that we can state that this new movement of reform or renewal is quite real. We can see this especially with the younger generations, who are plainly frustrated by the spiritual ineffectiveness of the Vatican II reforms. Considering the very harsh and bitter reproaches leveled by the progressives against Benedict XVI, it is certain that they see in the very person of the present pope one of the most vigorous causes of this incipient renewal. In fact, even if we find the pope’s initiatives rather timid, they run deep and are contrary to the agenda of the revolutionary, left-leaning world, both inside and outside of the Church, and this is true at several levels.

The resulting irritation of the progressives and of the world is sensed initially in questions concerning morality. Specifically, the Left and the liberals have been irritated despite the pope’s well-pondered words about the use of condoms in dealing with AIDS in Africa. As for the life of the Church, the restoration of the Mass of All Ages to its rightful place in 2007, and then two years later the rescinding of the degrading punishment aimed at disqualifying us, provoked the rage of liberals and progressives of all stripes. Moreover, the felicitous plan of a Year for Priests, restoring the priest to a place of honor, recalling his important and indispensable role in the salvation of souls, and proposing the holy Cure of Ars as a model, is not only an invitation to the Christian people to pray for their priests, but also a call to make use of the Sacrament of Penance, which had completely sunk into oblivion in broad sectors of the Church, and also to foster Eucharistic devotion, calling to mind in particular the importance of adoring Our Lord in the Sacred Host, a clear sign of the reality of the real and substantial presence of Our Lord Jesus Christ.

The appointment of bishops who are distinctly more conservative, some of whom were already celebrating the Tridentine Mass before, is another positive development. We could cite also, as an undeniable example of the reality of this little wave of opposition, the Letter to the Catholics of Ireland inviting them to repentance, confession, and spiritual exercises and asking also for the adoration of Jesus in the Eucharist.

Even though people in our circles rightly think that these [papal] efforts are still insufficient to stop the decay and the crisis of the Church—especially in view of certain acts along the regrettable line of his predecessor, such as the visits to the synagogue and the Protestant church—in Modernist circles however, the hour has come to report to their battle stations! The big wave is attacking the very little one with unexpected violence. It is not surprising that the meeting of these two ill-matched waves should cause a lot of backwash and turbulence and give rise to an extremely confused situation in which it is quite difficult to tell and predict which of the two will win the day. This, however, is something new that deserves to be commented. It is not a question of giving in to thoughtless enthusiasm or believing that the crisis is over. On the contrary, the aging forces that see their gains, which they thought were definitive, being called into question, will no doubt put up a large-scale battle to try to save this dream of modernity which is starting to fall apart. It is very important to remain in this regard, as realistic as possible about what is happening. Although we rejoice over all the good that is being done in the Church and the world, we nevertheless have no illusions about the seriousness of the present situation.

What should we expect to see in the coming years? Peace in the Church, or war? The victory of good and its long-awaited return, or a new tempest? Will the little wave manage to grow enough to prevail someday? The assurance that the promise of Our Lady of Fatima will be fulfilled—“in the end my Immaculate Heart will triumph”—does not necessarily or directly resolve our question, because it is still quite possible that we will have to first pass through an even greater tribulation before the long-awaited triumph occurs….

A terrific challenge is also intended by our rosary crusade. We would not want to diminish in the least, the joy over the announcement of the extraordinary result of our Rosary Crusade. We boldly asked you one year ago for twelve million rosaries so as to crown our dear Heavenly Mother, the Mother of God, as if with an equal number of stars, and to surround with a magnificent crown of praise that Mother, who to the enemies of God appears “terrible as an army set in battle array” (Cant. 6:3). You responded so generously that we can now bring to Rome a spiritual bouquet of more than nineteen million rosaries, not counting all those not directly affiliated with our priories and chapels who joined in our campaign.

Surely it is no accident that when Pius XII declared the dogma of the Assumption, he decided to change the Introit of the feast on August 15, to the passage from the Apocalypse that salutes the great sign that appeared in heaven. This excerpt from the Apocalypse ushers in the description of one of the most terrible wars that are set forth in that sacred book: the great dragon, who with his tail will sweep away a third of the stars, comes to wage battle with the great Woman (see Apoc. 12). Is this whole passage intended for our time? We can easily believe it, while avoiding a literal or overly specific application of those mysterious and prophetic descriptions. We have absolutely no doubt that all our prayers are important, and even of very great importance at this moment in history at which we find ourselves. However we think that we should warn you also and encourage you in these circumstances of the history of the Church.

Your great generosity shows, without the slightest doubt, your very real devotion and your love for our Holy Mother, the Roman Catholic Church, for the Successor of Saint Peter, and for the hierarchy, even though we have much to suffer from it. God is stronger than evil – good will be victorious, but perhaps not with all the pomp that you would like.

Now we must convince the authorities to accomplish the famous consecration of Russia that they say has already been made; we must recall the present relevance of what Our Lady of Fatima said, even though in the year 2000 there was manifestly an attempt to turn a new leaf and not to return to the subject again. It seems inevitable that the difficulties and obstacles will multiply so as to prevent the realization of what we are asking. That doesn’t matter; we count much more on God than on men, just as we expect from acts as simple as the consecration of Russia to the Immaculate Heart of Mary surprising results for the Church and the world, results surpassing anything that we can imagine. It is foolishness in the sight of men, but it is really a reflection of what Saint Paul already preached to his age: what men regard as wise is foolishness in God’s sight, whereas God’s wisdom is considered absurd foolishness by the wise of this world (cf. I Cor. 1:20).

As we bring to the attention of the Holy Father your remarkable efforts, along with the reason for these prayers, thus hoping to contribute, in our way, to the good of the Church, we ask you to please continue those same efforts. According to the example that Our Lord Himself invites us to follow in his very moving exhortation to prayer: “Ask, and you shall receive,” let us ask, indeed insisting on much (cf. Matt. 7:7-11). Although we do not doubt that our prayers will be answered, our persistence and perseverance must be proportioned to the magnitude of what we are asking.

Let us remember also that the essential element of the Fatima message is not just the consecration of Russia, but above all devotion to the Immaculate Heart of Mary. May all these prayers and sacrifices lead us to increase and deepen our special devotion to the Heart of the Mother of God. For, through it God wants to be moved.

As the month of May begins, the month of Mary, may we all find ourselves even more reliant on her maternal protection; this is our fondest wish. Thanking you for your truly great generosity, we ask Our Lady to deign to bless you with the Child Jesus.

+ Bernard Fellay
May 1, 2010, Feast of Joseph the Worker


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