マニラのeそよ風

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第408号 2009/04/25 聖マルコの祝日

ビザンチン帝国時代 聖マルコ書


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

 いかがお過ごしでしょうか? ここに書きたいこと、お知らせしたいことはたくさんあります。いつも書きかけて、完成しそびれて、時を失って発信しそびれたことは幾たびあったことでしょうか。

 そこで、苦い経験をふまえ、あまり欲張らずに、愛する兄弟姉妹の皆様に御復活のお祝いを申し上げると共に、聖ピオ十世会総長のフェレー司教様の友人と恩人の皆様への手紙 第74号をお伝えいたします。

 天主様の祝福が豊かにありますように! 

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.


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友人と恩人の皆様へのお手紙 2009年春

+アヴェ・マリア!

親愛なる友人と恩人の皆様、

 昨年の十月にルルドの巡礼の際に私たちが新しいロザリオの十字軍を起動させたとき、私たちの願いに対してこれ程早く天が答えて下さるとは思ってもみませんでした。私たちが最初の懇願をしたとき天の良き母がキリストの代理者を通して、そしてミサ聖祭に関するモートゥー・プロプリオとを通して、これに極めて効果的に答えて下さったように、童貞聖マリアは私たちに更に迅速な答えを持って第二の恵みを与えて下さることを良しとされ給うたのでした。

 一月に私が、教皇様の意向のために百七十万三千環のロザリオの祈りの霊的花束を提出したその同じローマ訪問で、私はカストゥリヨン・オヨスカストゥリヨン・オヨス枢機卿の手からカギ括弧付きの「破門」の解消の教令を受け取りました。

 私たちは、2001年から、バチカンの聖伝を守る運動に対する好意のしるしとして、このことを求めてきていました。何故なら、第二バチカン公会議以降、聖なる教会において聖伝的であること、聖伝的であろうとすることは全て、いじめに次ぐいじめを受けてきたからです。それは市民権の拒否にまで至りました。

 このことは明らかに、私たちをして、一部そして完全に、ローマ当局に対する信頼を失わせてしまっていました。この信頼が一部分であったとしても、もう一度築かれなければ、私たちの関係は最低限に留まるであろう、と私は当時言ってきました。信頼とは、良い感情を持つということだけではありません。信頼とは、私たちが聖伝であると呼ぶことの出来ること全てを良しと心する司牧者達の権威において、私たちがそれを認めるときに自然と生まれてくる実りがそれです。ですから私たちは、前提条件がこの方向でなされることを求めたのです。

 事実、もしも現在教会が今その中にいる危機の状態を理解することを望まないなら、聖座に対する私たちの立場と私たちの態度を理解することは不可能です。これ【=教会の危機の状況】は上っ面の表面的な出来事の話ではありませんし、個人的な見解の問題でもありません。これは私たちがそう思うか否かにかかわらずに存在する現実のことなのです。この現実は、この同じ教会当局によって時折、認識され、事実によって何度も何度も確認されたことなのです。

 多数で多様で時に深く時に状況的な観点を持つこの危機は、私たち全てをして苦しめています。信徒の方々は、特に新しい典礼の儀式 --- 残念ながら極めて頻繁にスキャンダルを起こすものです! --- に驚いています。普通になされる説教の内容に驚いています。何故なら、道徳倫理に関して、教会の数世紀にわたる教えと諸聖人の模範とに完全に矛盾する立場を取るものであるからです。

 子供を持つ親たちは、カトリック教育の施設に委ねた自分の子供達が信仰を失うのを見て、あるいは真面目な公教要理が与えられないために子供達がカトリック教義についてほとんど無知であるのを見て、極めてしばしば計り知れない悲しみを感じています。

 数えることの出来ないほど多くの修道者は、自分たちの修道会の会則の(第二バチカン公会議後の)改訂以後、そして第二バチカン公会議後の再教育を受けた後、福音精神を失ってしまいました。特に、自己放棄の精神、清貧の精神、犠牲の精神を失ってしまいました。この結果として、ほとんどこの精神が失われた直後に、ただ単に消えてなくならないとしても、次から次へと修道会はその多くの修道院を閉鎖しなければならないほど、召命の縮小がありました。多くの司教区の状況も同じく劇的です。

 これらは全て一貫した全体を形づくっています。これら全ては、たまたま偶然に起こったのではありません。そうではなく、自己改革をしようと望んだ公会議の後に、教会を現代の好みに合わせることを言い張った公会議の後に起こりました。人々は、私たちが危機が無いところに危機を見ているとか、誰でも確認することの出来る極めて破壊的で重大な結果は認めるがこの結果を私たちが間違って公会議のせいにしているとか、或いはこの状況を、反乱と独立という正しくない態度を正当化するために私たちが使っているなどと言って、私たちを告発しています。

 しかしながら、全時代を通して、教父たち、教導権、典礼、神学の書かれた文章をみると、私たちが心から愛着する単一性があることに気が付きます。この教義の単一性、つまり、この教えが一つであることが、現在の新しい行動の方針によって、実際上、極小化され、傷つけられ、反対されています。

 私たちが断絶を発明したのではありません。断絶は不幸にして存在しているのです。近代主義の人々が聖伝の味わいのすることを全て拒否するその深さがどれ程であるかを観察するためには、一部の司教たちが、「破門」の撤回の後であったとしても、私たちをどのように取り扱うかそのやり方を見るだけで充分です。この聖伝の拒否に過去との断絶という名前を与えずにはいられないほど、深いものです。

 はい、そうです。一月二十一日の教令が出たことで私たちが驚いたように、進歩主義者や左翼一般が私たちに対して取った反動の凶暴さにも驚きました。彼らは、ウィリアムソン司教様の不幸な言葉に、極めて不当なレッテル張りをし、私たちの聖ピオ十世会をスケープ・ゴートとして虐待するすることを許すような黄金の機会を見出したのも本当です。

 私たちは、まだもっともっと重要な闘いにおいて、道具とされました。つまり、戦闘教会という名前を持つ教会の、(聖パウロの言葉によれば)空中をうろつく悪霊に反対する戦いにおいて。

 そうです。私たちはその小さな歴史を教会の偉大なる歴史に書き込むことを躊躇しません。創世記の時代から既に予告された、そして聖ヨハネの黙示録においてゾッとするやり方で描写されている、霊魂たちの救いのための超巨大な闘いの歴史の中に。しばしばこの闘いは霊的なレベルに留まっていますが、時々、オープンな迫害時のように、霊のレベルと霊魂たちのレベルは、肉体と目に見えるレベルまで下がっています。

 最近数ヶ月に起こったことを通して、この闘いのより激しい時が来たと認めることが出来なければなりません。究極の標的とされているのは、教会の何らかの復興を始めようと努力しているキリストの代理者、つまり教皇様であることは明らかです。人々は、教会の頭【である教皇様】と私たちの運動とが接近するのを恐れているのです。人々は第二バチカン公会議の既得を失うことを恐れているのです。だからこれを中和させるために全力を尽くしているのです。

 教皇様はそれについて本当は何を考えているのでしょうか? どこに自分をおかれているのでしょうか? ユダヤ人たちと進歩主義者達は、教皇様をして、第二バチカン公会議と私たちとのどちらを取るのかと選択を迫っています。そのために、バチカンの国務長官は彼らを安心させるために、私たちの教会法上の存在のために必要な条件に、私たちが現在の問題を引き起こした主要な原因の源と考えることそして私たちがいつも反対していたこと【つまり第二バチカン公会議】を完璧に受け入れること、というそれ以上に彼らを喜ばせることがないことを押しつけたほどです。・・・しかしながら、彼らも私たちと同じように、近代主義に反対する宣誓そしてその他の全ての教会の排斥を排斥されたものとして守る義務があるのです。

 だからこそ、私たちは、天主と教会との前でなしたこれらの荘厳な宣言(信仰宣言と近代主義に反対する宣誓)の光において以外には、第二バチカン公会議を取り扱うことを受け入れません。そして、もしもこれ【=第二バチカン公会議】が【それらの宣言と】相容れないと現れるなら、必ずしや革新の方こそが間違っていることになります。私たちは、これらの点が出来る限り、深く全く明らかになるように、予告された教義に関する話し合いに期待しています。

 「破門」に関する教令、これは聖ピオ十世会の教会法上の地位を何も変えたものではありませんでしたが、この教令後の新しい状況をうまく利用して、多くの司教たちは、あたかも私たちが完璧に問題が存在していなかったかのように、全ての点において教会法の文字に従順であることを私たちに要求し、丸い四角を私たちに押しつけようとしています。他方では、それと同時に、司教たちは私たちが教会法上存在していないと宣言しているのです! すでに一人のドイツの司教は、今年の年末の前に聖ピオ十世会はもう一度教会の外にあるだろうと予告をしていますが、なんとチャーミングな見方でしょうか!

 成功の見込みのある唯一の解決は、他でもない私たちが求めていたことですが、中間的な状況という解決です。これはもちろん、教会法上の見地からは未完成で不完全なものですが、ひっきりなしに私たちの目の前で不従順であるとか反乱であるとかという告発を投げ掛けることなく、不当な禁止を私たちに投げつけることなく、【聖ピオ十世会を】あるがままに受け入れるということです。何故なら、とどのつまり、教会が今いる異常な状況、そしてこれを私たちは「必要の状況」と呼んでいるのですが、この状況が、今回さらにもう一度、一部の司教たちが発した教皇様と聖伝とに対する態度と言葉で証明されたからです。

 ものごとはどのように進展していくのでしょうか? 私たちには何も分かりません。私たちは今私たちがいる不完全な状況を一時的なものとして受け入れるという私たちの提案を維持し続けます。それと同時に、遂に、予告された教義上の話し合いを開始します。そしてこの話し合いが良い実りをもたらしてくれることを期待します。

 しかし、この極めて難しい道において、かくも激しい反対を前にして、親愛なる信徒の皆様、私たちは皆様に更にもう一度、祈りに駆けつけることをお願いいたします。ファチマの聖母マリア様のメッセージに深く錨でつながれた、聖母マリア御自身が幸福な終わりを約束し給うた、規模の大きい攻撃を始める時期が来たように私たちには思えます。聖母マリアは最後には御自分の汚れ無き御心が凱旋するだろうと予告されたのですから。

 私たちは聖母マリア様にこの凱旋を要求します。この凱旋は、聖母マリア様御自身が求めた手段によるものであり、それは最高の牧者である教皇様とカトリック世界の全ての司教たちとによって、ロシアが聖母の汚れ無き御心に奉献されること、および聖母の悲しみに満ちた汚れ無き御心への信心が広がることです。

 だからこそ、私たちは童貞聖マリアにこの目的のために、今日から2010年3月25日までの間、天主の御母聖マリア様の回りを飾る星の数の冠として、1200万環の霊的花束を、それと同じほど価値のある総量の犠牲、つまり私たちの身分上の義務を忠実に果たすことをまず第一として私たちの日々の苦労の犠牲も合わせて、聖母の汚れ無き御心への信心を広めるという約束をつけて、童貞聖マリア様にお捧げしたいと思います。

 童貞聖マリア様御自身もその御出現の目的としてこのことを提示しています。私たちは、もしも聖母マリア様が私たちにお求めになることに注意深く従うなら、私たちは、敢えて期待することさえもしていなかったような全てのこととそれよりも更に多くのことを、特に聖母が私たちに約束した聖寵を受けながら私たちの救霊を確保することを、手に入れるだろうと言うことを親密に確信しています。

 従って、私たちは聖ピオ十世会の司祭たちに特別の努力を払って、信徒の皆様がこの信心を実践し易くするように取り計らうこと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることを強調するだけではなく、更には聖母の汚れ無き御心に自分を奉献して聖母マリアと極めて深い親しさにおいて生活するようにと信徒の皆様を励ますことを求めます。またインマクラータの偉大なる先触れの伝令官であるマキシミリアノ・コルベ神父の霊性をよく知り深めることも良いでしょう。

 私たちの聖ピオ十世会は、今年で聖母の汚れ無き御心に奉献されて二十五年になります。私たちはシュミットバーガー神父様がなさったこの幸福なイニシアティヴを更新し、それに私たちの全ての霊魂を込め、この【奉献の】精神を私たちの心に再び生き生きとさせようと思います。

 私たちには天主様の御摂理に、天主様がなさるべきことを命じようなどと言う意向は全くないことはもちろんのことです。ただ私たちは、諸聖人と聖書の模範から、大きな願いが天主様の御計画を印象的なやり方で早めさせることが出来るということを学んだのです。まさにこの大胆さを持って、私たちは今日、聖母の汚れ無き御心に【以上述べた】この意向を委ねるものであります。皆様を全てその母なる保護のもとに置き給うことを、聖母の汚れ無き御心に求めつつ。 願わくは天主が皆様を豊かに祝し給いますように!

私たちの主イエズス・キリストの栄光ある御復活の祝日において
ウィノナにて、2009年復活祭
+ベルナール・フェレー




Lettre aux amis et bienfaiteurs printemps 2009
外国語サイト リンク La Porte Latine - Lettres aux amis et bienfaiteurs n° 74


LETTER TO FRIENDS AND BENEFACTORS - SPRING 2009

Ave Maria !

Chers Amis et Bienfaiteurs,

SSPX Au moment où nous lancions une nouvelle croisade du Rosaire, lors de notre pèlerinage à Lourdes en octobre dernier, nous ne comptions certainement pas sur une réponse si rapide du Ciel à notre demande ! En effet, comme pour notre première supplique à laquelle notre bonne Mère du Ciel avait répondu si efficacement par l’intermédiaire du Vicaire du Christ et de son Motu Proprio sur la messe traditionnelle, il a plu à la Vierge Marie de nous octroyer une deuxième grâce avec plus de rapidité encore : dans la même visite à Rome, au mois de janvier, où je déposais le bouquet des 1.703.000 chapelets à l’intention du Souverain Pontife, je recevais des mains du Cardinal Castrillón Hoyos le décret de remise des "excommunications".

Nous avions demandé cela, dès l’an 2001, comme signe de bienveillance de la part du Vatican envers le mouvement traditionnel. Car depuis le Concile, tout ce qui est et veut être traditionnel dans la sainte Eglise supporte brimade sur brimade, jusqu’au refus du droit de cité. Cela a bien évidemment détruit, en partie voire totalement, la confiance envers les autorités romaines. Tant que cette confiance n’est pas partiellement rétablie, disais-je alors, nos relations resteront minimales. La confiance n’est pas seulement un bon sentiment, elle est le fruit qui naît naturellement lorsque nous reconnaissons dans ces autorités des pasteurs qui ont à cœur le bien de tout ce que nous appelons la Tradition. Et nos demandes préalables furent formulées dans ce sens. De fait, il est impossible de comprendre notre position et notre attitude envers le Saint Siège, si on ne veut pas inclure la perception de l’état de crise dans lequel se trouve l’Eglise. Il ne s’agit pas là d’un événement superficiel, ni d’une vision personnelle. Il s’agit d’une réalité indépendante de notre perception, reconnue par ces mêmes autorités de temps en temps, et vérifiée tant de fois dans les faits. Cette crise a des aspects multiples, variés, parfois profonds, parfois circonstanciels, et nous en souffrons tous. Les fidèles sont surtout frappés par les cérémonies de la nouvelle liturgie - hélas très souvent scandaleuses ! -, par la prédication ordinaire où sont prises des positions sur la morale en totale contradiction avec l’enseignement pluriséculaire de l’Eglise et l’exemple des saints. Les parents ont eu très souvent la douleur immense de constater la perte de la foi chez leurs enfants confiés à des instituts d’éducation catholiques, ou de déplorer leur ignorance presque totale de la doctrine catholique faute de catéchisme sérieux. Les religieux, en nombre incalculable, manifestent depuis les révisions de leurs constitutions, et après les recyclages postconciliaires, une perte de l’esprit évangélique, en particulier celui du renoncement, de la pauvreté, du sacrifice ; perte qui a eu pour conséquence presque immédiate une diminution telle des vocations que plusieurs ordres et congrégations ferment leurs couvents les uns après les autres, lorsqu’ils ne disparaissent pas purement et simplement. La situation de nombreux diocèses est pareillement dramatique.

Tout cela forme un ensemble cohérent et n’est pas arrivé par hasard, mais à la suite d’un concile qui s’est voulu réformateur, en prétendant mettre l’Eglise au goût du jour. On nous accuse soit de voir une crise là où il n’y en aurait pas, soit d’attribuer faussement à ce concile les résultats pourtant désastreux et extrêmement graves que chacun peut constater, soit encore de profiter de cette situation pour justifier une attitude incorrecte de rébellion ou d’indépendance.

Pourtant, que l’on prenne les textes des Pères de l’Eglise, du Magistère, de la liturgie, de la théologie à travers tous les temps : nous trouvons une unité à laquelle nous adhérons de tout notre cœur. Et cette unité doctrinale est fortement contredite, blessée, amoindrie dans la pratique par les lignes de conduite actuelles. Nous n’inventons pas une rupture, elle existe bien malheureusement, et il n’est qu’à voir la manière dont certains épiscopats nous traitent, même après le retrait des excommunications, pour constater combien est profond le rejet des modernes vis-à-vis de tout ce qui a saveur de Tradition, au point qu’il est impossible de ne pas donner à ce rejet le nom de rupture avec le passé.

Oui, autant nous avons été surpris par la parution du décret du 21 janvier, autant nous l’avons été aussi par la violence de la réaction des progressistes et de la gauche en général à notre encontre. Il est vrai qu’ils ont trouvé une occasion en or dans les malheureuses paroles de Mgr Williamson, qui leur ont permis par un amalgame fort injuste de maltraiter notre Fraternité considérée comme un bouc émissaire. En fait, nous avons été instrumentalisés dans une lutte encore beaucoup plus importante : celle de l’Eglise, qui porte bien son nom de militante, contre ces esprits mauvais qui rôdent dans les airs, comme dit saint Paul. Oui, nous n’hésitons pas à inscrire notre petite histoire dans la grande histoire de l’Eglise, dans celle de cette lutte titanesque pour le salut des âmes annoncée dès la Genèse, et décrite de manière si saisissante dans l’Apocalypse de saint Jean. Souvent cette lutte reste au niveau spirituel ; de temps en temps, du niveau des esprits et des âmes elle descend au niveau des corps et devient visible, comme dans les persécutions ouvertes.

Il faut savoir reconnaître, à travers ce qui s’est passé ces derniers mois, un moment plus intense de cette lutte. Et il est bien clair que celui qui en fin de compte est visé, c’est le Vicaire du Christ dans son effort de commencer une certaine restauration de l’Eglise. On craint un rapprochement entre la tête de l’Eglise et notre mouvement, on craint une perte des acquis de Vatican II, et on met tout en œuvre pour neutraliser cela. Qu’en pense vraiment le pape ? Où se situe-t-il ? Juifs et progressistes le somment de choisir entre Vatican II et nous…, au point que pour les rassurer la Secrétairerie d’Etat n’a rien trouvé de mieux que de poser comme condition nécessaire à notre existence canonique l’acceptation complète de ce que nous considérons comme la source principale des problèmes actuels et à quoi nous nous opposons depuis toujours… … Cependant, eux comme nous sont tenus par le serment anti-moderniste et toutes les autres condamnations de l’Eglise. C’est ainsi que nous n’acceptons pas d’aborder Vatican II autrement qu’à la lumière de ces solennelles déclarations (profession de foi et serment antimoderniste) faites devant Dieu et l’Eglise. Et si cela paraît incompatible, alors forcément ce sont les nouveautés qui ont tort. Nous comptons sur les discussions doctrinales annoncées pour tirer au clair aussi profondément que possible ces points.

* * *

Profitant de la nouvelle situation après le décret sur l’excommunication, qui n’a rien changé au statut canonique de la Fraternité, maints évêques essaient de nous imposer un cercle carré en exigeant de nous l’obéissance à la lettre du Droit Canon, en tout point, comme si nous étions parfaitement en ordre, alors qu’en même temps ils nous déclarent canoniquement inexistants ! Déjà un évêque allemand a annoncé qu’avant la fin de l’année, la Fraternité serait de nouveau hors de l’Eglise… Charmante perspective ! La seule solution viable, celle d’ailleurs que nous avions demandée, est celle d’une situation intermédiaire, forcément incomplète et imparfaite au plan canonique, mais qui soit acceptée comme telle sans constamment nous jeter à la face l’accusation de désobéissance ou de rébellion, sans lancer à notre égard des interdictions intenables. Car en fin de compte, l’état anormal dans lequel se trouve l’Eglise et que nous appelons état de nécessité, se voit prouvé une fois de plus dans l’attitude et les paroles de certains évêques à l’égard du pape et de la Tradition.

Comment les choses vont-elles évoluer ? nous n’en savons rien. Nous maintenons notre proposition d’accepter notre situation actuelle imparfaite comme provisoire, tout en abordant enfin les discussions doctrinales annoncées, en espérant qu’elles porteront de bons fruits.

* * *

Mais sur ce chemin si difficile, devant les oppositions si violentes, nous vous demandons, chers fidèles, encore une fois, de recourir à la prière. Il nous semble que le moment est venu de lancer une offensive d’envergure, profondément ancrée sur le message de Notre Dame à Fatima, dont elle-même a promis l’heureuse issue, puisqu’elle annonce qu’à la fin son Cœur Immaculé triomphera. C’est ce triomphe que nous Lui demandons, par les moyens qu’elle demande elle-même, la consécration de la Russie à son Cœur Immaculé par le Pasteur Suprême et tous les évêques du monde catholique, et la propagation de la dévotion à son Cœur douloureux et immaculé. C’est pourquoi nous voulons lui offrir dans ce but, d’ici le 25 mars 2010, un bouquet de 12 millions de chapelets, comme une couronne d’autant d’étoiles autour de sa personne, accompagné d’une somme équivalemment importante de sacrifices quotidiens que nous aurons soin de puiser avant tout dans l’accomplissement fidèle de notre devoir d’état, et avec la promesse de propager la dévotion à son Cœur Immaculé. Elle-même présente cela comme le but de ses apparitions à Fatima. Nous sommes intimement persuadés que si nous suivons avec attention ce qu’elle nous demande, nous obtiendrons beaucoup plus que tout ce que nous n’oserions jamais espérer, et surtout que nous assurerons notre salut en bénéficiant des grâces qu’elle nous a promises.

Nous demandons par conséquent à nos prêtres aussi un effort particulier pour faciliter aux fidèles cette dévotion, en mettant l’accent non seulement sur la communion réparatrice des premiers samedis du mois, mais encore en incitant les fidèles à vivre dans une intimité très profonde avec Notre Dame en se consacrant à son Cœur Immaculé. Il serait bon aussi de mieux connaître et d’approfondir la spiritualité du grand héraut de l’Immaculée, le Père Maximilien Kolbe.

Notre Fraternité s’est consacrée au Cœur Immaculé il y a 25 ans cette année. Nous voulons renouveler cette heureuse initiative de M. l’abbé Schmidberger en y mettant toute notre âme, en ravivant nos cœurs dans cet esprit. Il est bien évident que nous n’avons pas l’intention de commander à la divine Providence ce qu’elle devrait faire, mais nous avons appris dans les exemples des saints et de l’Ecriture Sainte elle-même que les grands désirs peuvent faire hâter de façon impressionnante les desseins du bon Dieu. C’est avec cette audace que nous déposons aujourd’hui auprès du Cœur Immaculé de Marie cette intention en Lui demandant de vous prendre tous sous sa maternelle protection.

Dieu vous bénisse abondamment !

En la fête de la Résurrection glorieuse de Notre Seigneur Jésus Christ,
Winona, Pâques 2009.
+ Bernard Fellay


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外国語サイト リンク http://www.sspx.co.uk/page8.htm


SSPX Just as we were launching a second Rosary Crusade at our Lourdes pilgrimage last October, we hardly expected such a swift answer from Heaven! As for the Vicar of Christ’s Motu Proprio liberating the traditional Mass, our second entreaty was answered even more swiftly by the Blessed Virgin, because on the very same visit I made to Rome in January to put in the Sovereign Pontiff’s hands our bouquet of 1,703,000 Rosaries, Cardinal Castrillon Hoyos put in my own hands the decree lifting the “excommunications” of 1988!

That is something we had asked for back in 2001, as a sign of good will on the part of the Vatican towards the Traditional movement. For, ever since the Council, everything Traditional or seeking to be Traditional in the Church has been undergoing one vexation after another, up to and including our being cast into exile. Naturally that undermined partially or even totally, ones trust in the Roman authorities. As long as that trust is not partially restored, as I said at the time, the relations between Rome and ourselves will hardly exist. Trust is not just a nice feeling, it is a fruit that grows all on its own when one can recognize in the Roman authorities shepherds who have the interests of everything Traditional at heart. That was the meaning of our two preliminary requests. It is impossible to understand our present position and attitude towards the Holy See if one does not take into account the state of crisis prevailing in the Church, which is no superficial matter, nor just a personal opinion. It is a reality quite independent of our way of looking at it, which is admitted now and again by those authorities, and verified all the time by the facts. There are numerous and varied aspects to the crisis, some profound, some merely circumstantial, but everyone suffers from it. What strikes the faithful above all are the updated liturgical ceremonies—very often scandalous, alas! and the day-to-day preaching from the pulpit of positions on moral questions in direct contradiction to the age-old teaching of the Church and the example of the Saints. Very often parents have been grieved by their children’s losing the Faith, after having been entrusted to Catholic schools, or by their almost complete ignorance of Catholic doctrine, thanks to the lack of any proper catechism. A countless number of members of religious orders, through their Constitutions having been re-written and their minds re-trained according to Vatican II, show that they have lost the spirit of the Gospel, in particular, self-renunciation, poverty and sacrifice. This loss has almost immediately resulted in such a falling off of vocations that a number of Orders and Congregations are closing their houses one after another, or disappearing altogether. The situation of many dioceses is just as dramatic.

All of which forms a coherent whole that did not happen merely by chance, but arose out of a Council setting out to reform everything, and claiming to bring even the Church up to date. Yet we are accused of either seeing a crisis where there is none, or of wrongly blaming the Council for a disastrous and enormously serious situation which anyone can recognize, or again of profiting by that situation to justify a wrongful attitude of rebellion and independence.

On the contrary, pick up the writings of the Church Fathers, or the Magisterium, or the Liturgy or Theology down the ages, and you find a unity of teaching and example to which we cleave with all our heart. This unity of doctrine is in practice heavily contradicted, thwarted and attacked by present ways of doing things. We are not imagining things when we say there has been a break. The break is all too real. To observe how the Bishops of certain countries treat us even after the “excommunications” were withdrawn, is enough for one to see how deeply the up-dated churchmen reject anything that smacks of Tradition. The only name that can be given to such an occurrence is a break with the past.

For again, as surprising as was the appearance of the Decree of January 21, just as astonishing was the violence of the reaction of the progressives and leftists in general with regard to ourselves. By Bishop Williamson’s unfortunate words they may well have been handed a golden opportunity to smear the whole Society of St. Pius X and to treat it as a scapegoat, but the truth of the matter is that we were merely an instrument in a much more important struggle, the struggle of Mother Church, truly called the Church Militant , against the evil spirits prowling through the atmosphere, as St. Paul says. It is no presumption on our part to say the Society has just now been playing a part in Church history, the history of the titanic struggle for the salvation of souls, announced in the Book of Genesis and described so dramatically in the Revelation of St. John. Normally this struggle confines itself to the spiritual domain, but every now and again it flows over from words and souls into the bodily domain, and then it becomes visible, as with open persecutions.

In all that has happened these last few months we should see a particularly intense moment of this struggle. It is clear as clear can be that the main target being aimed at is the Vicar of Christ as he attempts to undertake a certain restoration of the Church. A coming together of the Head of the Church and the Traditional movement is much feared, as is any going back on the novelties of Vatican II, so everything possible is done to prevent it. What does the Pope truly think? What position is he taking? Jews and progressives want to force him to choose between Vatican II and ourselves…. to such a point that to re-assure them, the Secretariat of State could find nothing better than to lay down as a necessary condition for our canonical re-instatement the complete acceptance of what we consider to be the main source of the current problems we have always been opposed to!.... Yet those churchmen are bound, as are we all, by the Anti-modernist Oath and all the other Church condemnations of modern novelties. Thus we refuse to approach Vatican II from any other angle than that of the Solemn Declarations (Profession of Faith and Anti-modernist Oath) drawn up before God and the Church. And if the Council is incompatible with such Declarations, then it is the novelties that must be wrong. We are relying on the up-coming doctrinal discussions to clarify these points as much as possible.

Profiting from the new situation arising from the withdrawal of the “excommunications” which has actually left the canonical status of the Society unchanged, several Bishops try to square the circle by demanding that we obey Canon Law to the letter on every point, as though we were perfectly in order, at the same time as they declare we have no canonical existence! One German Bishop has announced that by year’s end the Society will once more be out of the Church… Nice of him! In fact the only possible solution is the one we already asked for, namely an intermediary status, necessarily incomplete and canonically imperfect, but generally accepted as being intermediary, without our having to be constantly accused of disobedience and rebellion, without our having ridiculous prohibitions thrown at us. When all is said and done, one more proof that the Church finds itself in an abnormal state, which we call a state of necessity, is the present words and deeds of certain Bishops with regard to the Pope and Tradition.

So how will things develop from here? We have no idea. We stand by our proposal to accept our present imperfect situation as being temporary, even while we enter into the doctrinal discussions that have been announced, in the hope that they will bear fruit.

But on this difficult path, in the face of such violent opposition, we ask you, dear faithful, once more to resort to prayer. It seems to us that the moment has come to launch a major offensive, firmly anchored in the message of Our Lady at Fatima, where she promised us success, announcing that in the end her Immaculate Heart will triumph. This is the triumph we are asking her for by the means she herself requested, namely the Consecration of Russia to Her Immaculate Heart by the Supreme Pastor and all the Bishops of the Catholic world, and the spread of the devotion to her Sorrowful and Immaculate Heart. So for this purpose we wish to offer her by March 2010 a bouquet of 12 million Rosaries, like a crown of 12 million stars all around her, to be accompanied by a similar quantity of daily sacrifices to be drawn above all from the faithful accomplishment of our duty of state, while we promise to spread the devotion to her Immaculate Heart. We are firmly convinced that if we take care to do what she says, we will obtain much more than we could ever have hoped, and above all we will make sure of our salvation by benefiting from the graces she has promised us.

So we ask also of our priests a special effort to make this devotion easier of access for our faithful, by putting the accent not only on the Communion of Reparation of the first Saturdays of the month, but also on living very close to Our Lady through the consecration to her Immaculate Heart. It would also be good to know better and to deepen the spirituality of Fr. Maximilian Kolbe, the great herald of the Immaculate.

Our Society was consecrated to the Immaculate Heart 25 years ago this year. We wish to renew this happy initiative of Fr. Schmidberger by wholly devoting ourselves to that Heart and by reviving our own hearts in this spirit. Obviously we are not going to tell Providence what it should do, but we have learned from the examples set by the Saints and in Scripture itself that to have great desires can bring forward the designs of the good Lord in a remarkable way. Thus today we make bold to entrust this intention to the Immaculate Heart of Mary, by asking her to take you all under her motherly protection. May God bless you abundantly!

On the feast of the glorious Resurrection of Our Lord Jesus Christ,
Winona, Easter 2009
+Bernard Fellay


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