マニラのeそよ風

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第399号 2007/12/03 聖フランシスコ・ザベリオの祝日

聖フランシスコ・ザベリオ


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 ついに待降節になりましたね。今日は日本の恩人でもある聖フランシスコ・ザベリオの祝日です。「マニラの eそよ風」は、ご無沙汰しておりました。いかがお過ごしでしょうか。

 九月は東京での聖伝のミサの後、午後に聖ピオ十世の回勅「パッシェンディ」(近代主義についての回勅)について、お話ししたところ、分かりやすかったというコメントをいただき大変うれしく思いました。

 十月は午後の講話にピオ十一世の回勅「クワス・プリマス」(王たるキリストについての回勅)を学び、十一月には新約聖書のラテン語を一緒に勉強しました。ラテン語を勉強したいという方が多いので、ラテン語の勉強会をしばらく続けたいと思っています。

 さて、今回は聖ピオ十世会総長のフェレー司教様の「友人と恩人の皆様への手紙第七十一号」をお届けします。

 フェレー司教様は、ロザリオの祈りの十字軍について語っておられますので、天主の童貞母が私たちに下さった武器ロザリオの祈りをもう一度しっかりと手に取ることにいたしましょう。

 フェレー司教様は司教たちの「従順」や「反乱」ということについて言及されていますので、ここで「従順」とは何かを少し確認してから、お手紙をお読み下さるようにお願いします。従順とは、天主様の御旨を果たすために、天主様の代理者である目上の人間の意志を行うことが従順です。

 ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会は、新しいミサを拒否しました。何故なら、新しいミサは新しい精神と新しい「信仰」を私たちに伝えているからです。新しいミサは「新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」(オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿のパウロ六世への言葉)からです。教皇様は、私たちに信仰を失わせるように命じるとき、それに従うことは本当の「従順」ではないからです。

 ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会は、アシジの諸宗教の集会を拒否しました。何故なら、この種の集会は天主の十戒に反し、カトリック教会の聖伝に反し、聖書に反し、歴代の教皇様の教え(例えば特にレオ十三世やピオ十一世)に反しているからです。そのような場合、これに従うことは本当の従順ではあり得ないからです。何故なら、従順とは天主の御旨を果たすためにするのであって、明らかに天主の御旨に反しているなら、それに従っては罪になるからです。

 カトリック信仰を、二千年間教会が信じ愛してきたそのままの変わることのない真理をそのまま信じ、愛し、実践する、それだけをルフェーブル大司教様がし続け、聖ピオ十世会がそれだけをし続けようとしているのです。そして、それがためにルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会は極めて難しい立場に置かれ続けてきたのでした。

(これについては、「マニラの eそよ風 日本語サイト リンク (第236号)」もご参考にお読み下さい。)

 以下は私が最近、個人的に思うことですが、ファチマの三つの「秘密」になぞらえて言うと、バチカンには三つの「秘密」があるように思えます。

 ベネディクト十六世教皇様は、今年の七月ついに、今までのバチカンの「第一の秘密」を破って、聖伝のミサは実はカトリック教会の有効で合法的なミサ聖祭である、と認めたのでした。聖伝のミサは決して廃止されていないと主張していたがために、ルフェーブル大司教様は「不従順」の汚名を帰せられていたのですが、じつはルフェーブル大司教様こそが本当に従順であったということが全世界に分かるようになりました。

 バチカンには「第二の秘密」があります。ルフェーブル大司教様の「破門」です。これが全く無効であるということを「秘密」にしようとしているからです。何故この「破門」が無効かはカトリック教会法典をありのままに読めばそうなるのですが、そうしなくとも今のエキュメニカル運動を見ても分かるのではないでしょうか。何故なら、もしも万が一、カトリック教会がかつて離教であり破門に値すると取り扱っていた種々の教会団体がエキュメニカルな「交わり」の中にいて、カトリック教会が二千年間やっていたことをやり続けようとしたルフェーブル大司教様が本当に「破門」だったとしたら、本当の意味で破門・分裂的になってしまうのは、教会の過去から断絶しようとした方であるからです。何故なら、もしも自分は世界中のいろいろな宗教(カトリック教会が離教とし異端と見なしていた諸団体)と交わり、それと同時に、アシジのエキュメニカルな集会を受け入れることが出来ずに司教を聖別せざるを得なかったルフェーブル大司教様を本当に破門しようとすることだからです。もしもそのような「破門」が本当なら、この「破門」はカトリック教会からと言うよりも、「エキュメニカルな交わり」からの破門ということになってしまうからです。

 バチカンの「第三の秘密」は「ファチマの第三の秘密」と重なるのではないでしょうか。

 では、フェレー司教様のお手紙をお読み下さい。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.


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聖ピオ十世会総長の
友人と恩人の皆様への手紙 第71号
2007年11月1日 諸聖人の祝日にて

親愛なる友人と恩人の皆様、

 聖伝のミサは決して廃止されていなかった。親愛なる信者の皆様、七月七日、ベネディクト十六世のモートゥー・プロプリオ(自発教令)の宣言を聞いて、何という喜びが私たちの心を一杯にしたことでしょうか! 私たちは、私たちがしたロザリオの十字軍への天からの答えとしてこれを見ました。モートゥー・プロプリオが出されたという事実だけではなく、私たちが正にその中にいる聖伝の典礼に対して開かれたその広がりという理由のためです。というのも、ミサ典書のみならず、その他の典礼書も教会の法であると宣言されたからです。

総長 もしもミサ典書が一度も廃止されたことがないのなら、そのミサ典書はその権利をそのまま保っていると断言しなければなりません。自発教書は、現実には、永遠のミサ典書に何の新しいことをも付け加えたのでもありませんでした。ただ単に聖ピオ五世のミサ(自発教令ではヨハネ二十三世のミサと呼ばれていましたが)は、約四十年間の空白期間と禁止があったにもかかわらず、常に有効であると断言しただけでした。トリエント・ミサは、常にカトリックのミサであるのです。新しいミサと古いミサとのことについて、同じ典礼様式の通常形式と特別形式というおぼつかない微妙な区別をしていましたが、これによって騙される人は一人もいないでしょう。二つのミサの違いについては、あまりにも明らかであるからです。自発教令で記憶すべきは、(聖伝の)ミサがカトリック教会の普遍の法として永久に有効であること、これです。「教会の法」ということは、それ自体で、特別許可(Indult)も、許可も条件も無い、ということを言います。司教たちは、限定的なおぞましい条件を付けて自発教令のもつ救いの効果を中和させようとしています。司教たちは確かに教皇様の意向に従ってはいません。大部分は隠れている、多かれ少なかれオープンなこの反乱がどのように発展するかを見守るのは、関心があります。来る数十年の教会の歴史は、この対立にかかっています。教皇様が御自分が教会にもう一度与えたものをそのまま維持しそれを強制する力を持ちますように祈りましょう。

 このことはミサを捧げるということだけでなくさらに多くの射程距離を持っています。自発教令は、旧典礼が発展することを許す方向にむけて、昔の全典礼精神の扉を、かいま見せるように少し開いたのです。典礼は様々な要素から成り立っていますが、そのうち最も重要なものはミサ聖祭です。しかしこの宝は、いろいろな典礼書を合わせた中に飾られているのです。これらの典礼書の大部分、とりあえず最もよく知られている様々な典礼書は、新しい命を吹き込まれようとしている、ということに気づかねばなりません。司祭によって執行される秘蹟や祝福のやり方を含む儀式書(rituale)、堅振の秘蹟を含む司教儀式書(Pontificale)の一部、聖務日課です。これらは全て、疑いもなく、聖伝の典礼精神をして教会生命の中にもう一度その場所を見出すことを許す全体を作り上げることでしょう。

 自発教令の最初の効果は、興味深いものです。たとえそれが教会生命全体から見ればほとんど取るに足らないものだとしても、です。しかし、この運動を積極的に支持する司教が幾名かおり、そして特に、その他の教区長司教たちから妨害を押しつけられているのも関わらず、司祭たちは(聖伝の)ミサ聖祭を学び、捧げ始めています。聖ピオ十世会が準備したミサ聖祭の儀式を描写した動画を求めた司祭たちは、全世界で五千名以上存在しています。これは司祭たちが永遠のミサ聖祭に関心を持っているということを示しています。

 素晴らしいのは、トリエント・ミサを発見した司祭たちから私たちに伝えられた一致した意見です。次のような証言はまれではありません。 「この二つは全く別世界だ!」
「祭壇に向かってミサをするのと、会衆に向かってミサをするのは全く別だ!」
「このミサを捧げながら、私は司祭が何かを発見した!」

 これらの証言は、このようなことを長く述べ、それを証明しています。

 彼らに新しいミサの典礼様式の聖性についてどう思うか、と尋ねるのも無駄なことです。もしも聖伝のミサの真の自由が保障されたならば、単なる紙の上の文句ではなく事実上そうなったら、トリエント・ミサの数はすぐに急上昇するでしょう。少なくとも過去二世紀にわたって私たちのカトリック教会にて吹き荒れている巨大な戦いを知っているものにとって、ミサの周辺で教会の危機の大部分がたち起こっていることは明らかです。二つのミサ、二つの神学、二つの精神。新しいミサを通して、キリストの神秘体の全ての動脈に新しい精神が、「第二バチカン公会議の精神」が流れ込みました。その反対に、聖伝のミサはカトリック精神を輝きだしています。聖ピオ五世の典礼様式は、信仰と道徳の無比の緊密さを意味しています。聖伝のミサに真面目に与る人は、このミサが信仰の要求するもの、ミサが厳格に養い育てる信仰の要求であることがすぐに明らかになります。すぐに信者の霊魂に信仰の論理が現れるのです。義人は信仰によって生きるのです。私たちは信じる通りに生きなければなりません。キリスト教道徳の全てとそれが要求するところの自己放棄、犠牲、この世からの離脱は、ここから由来するのです。天主は聖なる方であり、天主に近づくことを望むものは、純潔な生を生きなければなりません。何故なら、天主の聖性は霊魂にこの汚れのない衣を要求するからです。ミサはこの現実に、キリスト者の召命の崇高さに、目を開かせてくれるのみならず、特に、これを実現する手段を与えてくれさえもするのです。善意の信徒に何と溢れるばかりの聖寵が流れ来ることでしょうか、そしてこのミサを捧げる司祭にはさらに多くの聖寵が!

 ミサから出るまばゆく輝くような聖寵は、さらに別の聖化を呼び求めます。それはキリスト者の家族の聖化であり、全社会の聖化です。数世紀にもわたって、そして千年以上の長きにわたって、社会がキリスト教的であったのは、何よりもまずこのミサに、古代の終わりに既にその本質が完成された、いとも聖なるこの典礼様式に、その由来を帰さねばなりません。私たちは、十世紀、十一世紀の古い写本でも、何らの困難もなくトリエント・ミサとか聖ピオ五世のミサと呼ばれるこのミサを執行することが出来るのです。

 新しい典礼様式が導入されるやいなや極めてハッキリと、キリスト教社会が荒廃し、消滅していることを見るのは印象的でもあります。これを偶然だとかたまたま同時に起こったことでしかないと一体誰が見るでしょうか?

 私たちは正に、人類史を貫く霊魂の救いのための巨大な戦いのまっただ中にいるのです。自発教令によってなされた前進が、このより深い観点と希望の動機を、またルフェーブル大司教によって轍(わだち)がついた道に従って同じ戦いを続ける刷新された勇気を見失わせないように希望しましょう。

 私たちのロザリオの十字軍によって得られた成功、そこで私たちが使った熱心は、私たちをして天の母に対する私たちの信頼を新にしてくれます。一,二ヶ月だけの十字軍ではなく、ロザリオの永久の十字軍によって。そうです。願わくはこの祈りが教会の善のために、霊魂の救いのために、いつも絶え間なく天に昇り続けますように!

 聖母マリア様はこのような「アヴェ・マリア」の祈りを沢山受けて無関心ではいられないこと、そして天主の童貞母は教会の立ち直りの時期を早めて下さることを私たちは確信しています。ロザリオの祈りをしている軍人を見たスイスのギサン将官の美しい言葉「スイスがこの鎖によって囲まれて守られているのをどれ程見たいことか!」のように、私たちも全教会をロザリオの鎖で囲みたいと望みます。教会の擁護とその保全のために巨大なひっきりなしに続くアヴェ・マリアで教会を囲みたいと思います。

 従って、私たちは今この瞬間から「破門」の教書が撤回されることのみならず、カトリックの聖伝がその全てを伴ってあるべき場所にもう一度戻されるために、聖母の汚れ無き御心の凱旋の日まで、ロザリオの永久の十字軍を起こしたいと思います。

 願わくは全ての諸聖人が私たちを助けに来給わんことを!願わくは童貞聖マリアがあなたたちを祝福し給わんことを!

+ベルナール・フェレー


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