マニラのeそよ風

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第395号 2007/08/06 私たちの主イエズス・キリストの御変容の祝日


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 兄弟姉妹の皆様にはお伝えしたいこと、書きたいことが山ほどありますが、今回は私の最近読み返した本について紹介させて下さい。

 それは、ヨハネ・パウロ二世によって福者となったドン・コルンバ・マルミオンの『修道者の理想なるキリスト(Le Christ Ideal du Moine)』という本です。これはドンボスコ社から山下房三郎神父様の日本語訳が出版されています(初版1954年)。

 福者マルミオンは、第1部の第3章で、修道院長はキリストの代理者であると言うことを説明します。修道院長(英語でAbbot)とは、ベネディクト会などのそれぞれの大修道院の長に立つ修道者です。修道院長は、修道者たちにとってのキリストの代理者として、牧者としてのキリストを模倣し、大司祭としてのキリストを模範として生活しなければならないと説明します。もちろん、私は修道院長ではありません。聖伝のミサに与る方々は修道者ではありません。しかし「神父様」と呼ばれる身としては、自分のあるべき理想として多くの息吹を受けました。


====引用開始====

 修道院長に要求される二つの大きな徳がここにあります。それは分別と愛です。・・・霊魂の指導において、修道院長は「諸徳の母」であるこの分別の徳を大いに実行せねばならないとかれ(大聖グレゴリオ教皇)はしきりに叫んでいます。・・・

 「分別」とは、一種の超自然的技術であって、これによて全てのことがらを、それぞれの目的に従って程よく調整することです。・・・ ではこの目的とは何ですか? それは「霊魂を天主に導く」ことです。しかもそのための手段はどんなものであってもいいというのではなく、配下の修道者達が、心から喜んで採用するような手段でなければならないのです。・・・「修道院長は多くの人のそれぞれ違った種々様々な性格に、いちいち自分を順応させなければなりません。」これこそ、修道院長が配下の修道者達に対して取るべき態度の黄金律とも言うべきものです。これこそはまた「霊魂を指導する」という「これ程困難なこれ程難しい技術」(大聖グレゴリオはこれを称して「技術中の技術」とよんでいます)において成功を勝ち得るための唯一の秘訣なのです。

 この点に関して、聖ベネディクトは修道院長に、ちょっと見では相反するかに見えるが、しかしきわめて調和のとれた、諸性格の円満な総合を要求しています。・・・修道院長は、「ものごとに熱心でなければならないが、焦燥は禁物です。用心深くあらねがならないが、あまりに小心すぎて無為無能であってはなりません。」

 「ついも天主の国と天主の義を求めなければならないが、さりとていささかも修道院の物質的方面を閑却してならないばかりか、これを最も賢明に管理しなければなりません。」

 「配下の修道者達をかわいがらねばならないが、その悪徳は心から憎まなければなりません。」

 「配下の修道者の過失のため治しに当たっては、細心の注意を払い、角をためなおそうとして牛を殺すという愚かさを演じてはなりません。」

 修道院長は、配下の修道者の一人一人にたいして、その境遇と性格の如何に応じて、臨機応変の措置を講じなければなりません。Aは明朗で開放的な性格でしょう。Bはいつもふさぎ込んだ暗い性格でしょう。Cは、知に働いて角が立ち、Dは情にさおさして流されます。【夏目漱石の「草枕」のよう・・・】あの人は精神が温順で、この人は強情です。しかし修道院長はこれら「全ての気質、全ての性格に、いちいち、自分を順応させていかなければなりません。」

 「こころが頑固な修道者に対しては、師たるの威厳を示さなければなりません。」

 「天主を探し求めている者には、優しい父の情けを示さなければなりません。」

 「生まれつき善良な性格に恵まれ、そのうえ一意専心、天主を見いだそうと努力している者には、ただ口だけで教えを授けるだけで足りるが、知恵遅れで心が頑なな者には、教えるに先立って自分がそれを実行して模範を示さなければなりません。」・・・

 一言でこれをつづめれば、各自の気質と性格に、いちいち自分をはめ込んでいかなければなりません。こうして初めて「自分に委ねられた霊魂の損害を見ないばかりか、かえって善良な羊の群れがますます増え、徳の道に進んでいくのを見て喜ぶことができるでしょう。」・・・「弱い者を落胆させないように、強い者をますます奮起させるように、すべてを巧みに調整しなければなりません。」

 修道院長に要求される主な徳は、ただ分別ばかりではありません。配下の修道者に対する愛徳がそれに加わらなければなりません。いや、むしろ、修道院長に超自然的技術を与え且つこれを最高に発揮させるものは、何と言っても配下の修道者たちに対するこの愛徳なのです。配下のものを一人一人、しかも深く愛すればこそ、かれらをその生まれつきの才能、性向、弱さ、必要、志望に応じてキリストのもとに導こうと一心に努めるのではありませんか。・・・

 修道院長は、配下の修道者を深く愛さなければなりません。しかもその愛は、一視同仁、公平無私の愛でなければなりません。「かりそめにも、特にある一人を他の人よりも目立って愛してはなりません」何故なら「私たちは皆キリストにおいて一つだからであり、さらにキリストにおいては奴隷の身分も自由の身分もなく、人はみな同一の天主の子たるの身分と同一の天国の家督に召されているから」というのは聖ベネディクトの持論です。

 とはいえここに例外があります。天の聖父が御一人子イエズス・キリストのお姿に一層よく似ている人々を一層大きなご満悦をもってお眺めになるように、修道院長も、善業または従順によってこの天主なるお手本に一層多く近づいている修道者達に対しては、一層深い愛を表すことができます。・・・

 「修道院長は、配下の修道者から恐れられるよりも、むしろ愛されるように努めなければなりません。」すなわち、その行動において、すこしでも独善的・専横的なところがあってはなりません。・・・

 「修道院長は、過失に陥った修道者に対しては、至りつくせりの同情的な配慮を持って臨まねばなりません。九十九頭の羊を野原に置き去りにし、失われた一頭の羊を訪ね求めてその後を追うよき牧者の模範を、修道院長は絶えず眼前に見据えていなければなりません。」・・・イエズス・キリストを仰ぎ見なさい。人びとの悲惨に対してその聖心は愛と慈悲に波打ちながらも、人間の罪悪に対しては、歯に衣着せず、完膚無きまでこれを粉砕したではありませんか。キリストは、ただの一言で罪の女マグダレナのマリアを赦し、姦淫を犯した女を救い、大きな愛を持って弟子達の欠点を忍ばれましたが、罪悪、わけてもファリザイ人らの傲慢に対してはどれ程の憎悪を示されたことでしょう。

 同様にキリストの代理者をつとめる修道院長もこの点に関してはキリストの模範に従わなければなりません。「たといこの仕事が、どんなに難しく、どんなにつらくとも、配下の修道者たちを愛してその罪は憎まなければなりません。」もしも或る修道者を何らかの点でため直す必要がある場合には、大きな愛と父としての暖かい情けをもって、彼を諭すべきです。あまりに厳格な上長が配下の修道者に大害を来すことはいわなくても分かりきった事実です。・・・

 或る霊魂にいたっては、いつまでたっても当然期待されるはずの成果を期待し得ない場合があります。こんな人に対してはどんな措置を執るべきでしょうか。匙を投げてもよいのでしょうか。いいえ、断じてそうではありません。大きな忍耐を持って「恩寵の時」を待つべきです。遠い道のりをあまりに急がせて、自分の羊の群れを疲労させることを望まなかった太祖ヤコボの思慮不快さを思い起こすべきです。また全ての霊魂が皆同じ度合いの完徳に召されていないことも考慮に入れて、天主への巡礼の道が険しく、霊性の歩みが一層緩やかで一層おぼつかない人をこそ、いっそう親切にいたわるべきではありませんか。・・・

 しかしそれでも、これは到底矯正の見込みがない、ということがはっきり分かるまでは、修道院長はイエズス・キリストの模範に倣って、慈悲に富んでいなければなりません。慈悲はいつも正義に打ち勝たなければならないからです。キリストが至福八端の中で約束されているように、自分も同じように天主の慈悲を蒙ることができるためです。「長上はいつも自分の弱さを自覚していなければならない」からです。

====引用終了====


 兄弟姉妹の皆様には誤解なさらないように申し上げますが、私は修道院長という高い地位に立つものではありません。しかし、福者マルミオンの示す理想は、司祭としてのあるべき理想を示して私に訴えているようです。何故なら、司祭である自分が修道者の理想なるキリストに近づけば近づくほど、天主と一致すれば一致するほど、天主に対する愛徳、隣人に対する愛徳の燃える愛の炎を、多くの霊魂に灯し、焚き付け、いつまでもそれを天主へのために燃え続けさせることができると思うからです。

 永遠のイエズス・キリストの聖心の愛の燃ゆるかまどに自分を投じることによって、他の霊魂たちも天主の利益と栄光のため、キリストの王国であるカトリック教会の発展のために熱望するようになると思うからです。私たちが本当に天主を愛する時、この愛すべき天主が全ての人々から愛され、いつ何処でも誰からも愛され、その「聖名が尊まれことを」望むようになるからです。

 しかし、自分を振り返ると、何と遙か遠くに立っていることでしょうか! 幼きイエズスの聖女テレジアが願ったように、イエズス・キリストの聖心の憐れみの腕がエレベーターとなって目ざす理想へと運んで下さることにひたすら寄りすがります。真夏のローマにも雪を降らせ積もらせることができた聖母マリア様に寄りすがります。童貞聖マリアの御憐れみによって、自分の欠点が白く隠され、天主以外のための熱が冷めて凍り付きますように! そして、兄弟姉妹の皆様の暖かい祈りに寄りすがります。

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え。

 さて昨日の八月五日は、主日でしたので、今年は祝われませんでしたが、聖マリアの雪の聖堂奉献の祝日ですので、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「聖母の御訪問」のお説教をご紹介します。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

八月五日 聖マリアの雪の聖堂奉献

雪の聖母の大聖堂
Santa Maria Maggiore 雪の聖母の大聖堂

(1)- いよいよ文字通り炎暑焼くが如き真夏となりました。何か涼しい眠気醒しにでもなったらと思い、今日は「聖マリアの雪の聖堂奉献」に就いて、お話し致します。「雪の聖堂」とは聞いたばかりでも何だか涼しく感ぜられるじゃありませんか。雪の聖堂!それは雪を積み上げて築いた聖堂なんでしょうか、そんな聖堂が何時、何処に建てられたのでしょうか。頃は紀元三百六十五年、リベリウス教皇様の代にヨハネと云う熱心な貴族信者がローマに居ました。夫婦の間に子宝がありませんでしたので、聖母マリアを相続人と定め、その財産を何に使用するのが思召しに適(かな)うか、告げさせ給えと祈って居りますと、八月四日の夜、聖母は夫婦別々にお現れになりまして、エスクイリヌム丘の上に雪を降らして置くから、その地点に聖堂を建てて貰いたいとお告げになりました。

 ヨハネは翌朝そのことを教皇リベリウス様に報告すると、教皇様も前夜同じお告げを蒙って居られました。よってローマの聖職者、信徒を従え、行列をして丘に登って見られますと、果たして丘の一部が白雪に蔽(おお)はれて居ましたので、その上にヨハネ夫婦の浄財で荘厳な聖堂をお築きになりました。聖堂は「リベリウスの大聖堂」とも、「馬槽(うまぶね)の聖母マリア」(キリストの馬槽(うまぶね)を所蔵せる所から)とも呼ばれましたが、ローマには聖堂の名を冠せる聖堂が数々ありますけれども、この聖堂はその由来と云い、その輪奐(りんかん)の美と云い、一頭地を抜いて居る所から、「聖マリア大聖堂」と呼ばれるようになりました。

 我国の奮い信者は、この祝日を随分大切にしたもので、パスチアンの暦にも、ちゃんと「七月十二日、ゆきのさんた丸や」と出て居ます。夏の祝日の中では「雪のサンタ、マリアを最も厚く尊んで居たものです」と古老の言うのを自分はきいたことがあります。

 理由は固(もと)より明らかでありません。暑い盛りに雪が降ったと云う奇蹟の珍しさから、自づとこの祝日に重きを置く様になったのかも知れません。


(2)- 一体、雪は美しいものです。銀花(ぎんのはな)だの、玉花(たまのはな)だの、六(ろく)花(か)粉々(ふんふん)だのと、よく春の花に譬えられます。然し春の花は人の心を蕩かし、浮き立たせるものですが、雪はむしろ之を引き締め、緊張せしめます。野も山も、田畑も屋根も、庭の掃き溜めまでも、一面の銀世界となした雪の美しさ、「三千世界銀色を成し、十二楼台(ろうだい)玉層(たまそう)を作る」と云う光景に至りましては、実に形容の辞なきに苦しむほどですが、それで居て、人を浮かれ廻らせる様なことは微塵もございません。

 普通の婦人美を花に譬(たと)えると、聖母の純美は正しく雪であります。容色勝れた婦人は、よく人を惑わし、城を傾け、国を亡ぼすに至ることさえ珍しくありません。然るに聖母は被造物中の傑作で、それこそ絶世の佳人でありましたが、それで居て、之を仰ぐと何時しか心は引き締まり、緊張し、浄化されるのを覚えて来るのであります。

 もしそれ高山の頂を蔽(おお)える皚々(がいがい)たる白雪の美に至りましては、全く譬(たと)えるに物なしであります。

田子の浦に打出で見れば真白にぞ、
富士の高嶺(たかね)に雪は降りける

 富士山の秀麗、美観も、その大半は嶺の白雪に負う所があるのじゃございませんか。聖母マリアこそ実に高嶺の白雪でありました。正義の太陽にて在すキリスト様の御光を反射して、異様に照り輝き、之を仰げばいよいよ清く、之を望めばいよいよ美しく、しかも雪が太陽熱に融けてよく水源を養い、山麓地方を潤すが如く、聖母も、邪欲の炎熱に苦しめる我々の上に絶えず聖寵の水を流して、之を冷やし、之を潤し、之を肥沃、豊饒(ほうじょう)ならしめ給うのであります。

 あゝ雪のサンタ、マリア!罪の焔(ほのお)に焼かれ、邪欲の熱に甚(いた)く悩まされつゝある我等を顧み給え。御身は高嶺の雪にて在(ましま)せば、何とぞ我等の熱を冷(さま)し、心を引き締め、いよいよ聖寵を溢(あふら)して、善の花を咲かせ、徳の実を結ばしめ給え、アメン。