マニラのeそよ風

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第371号 2006/11/29

フェデリコ・バロッチ / 受胎告知
フェデリコ・バロッチ / 受胎告知

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 聖フランシスコ・ザベリオに対するノベナがありますが、聖伝によると今日から天主の御母聖マリアの無原罪の御宿りのノベナが始まります。(「マニラの eそよ風」 212号313号 をご参考にお願いいたします。)

 元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の死せる信者の記念の日の(二)如何なる霊魂が煉獄に苦しんで居るかをどうぞ黙想下さい。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 二 日

(二)如 何 な る 霊 魂 が 煉 獄 に 苦 し ん で 居 る か

(1)-煉獄に苦しんで居るのは、すべて天主の正義に充分の償いを果さずして現世を去った霊魂である、して見ると、彼の恐るべき煉獄を通らないで、直ちに天国え這入れる霊魂は極めて稀であると思わなければなりません。人は毎日毎日幾多の罪を犯して居ますか。して償いはと云えば、何一つ遣って居ないのです。取り分け不思議に思われるのは、最も罪の多い人や、最も品行の正しくない人が、最も償いをしない人であることです。罪が多くて重ければ、償いも亦それほど多くて重からねばならぬ、随って多くの困難を堪え忍び、多くの大齋をなし、多く身を責め苦しめ、多く祈祷をなし、多く償いの業を果たさなければならぬ筈でしょう。然るに実際は其の反対で、そうした人に限って、償いの業は一つもやって居ないのですから、是非とも後の世に於いて、非常に恐ろしい苦痛を堪え忍んで、其の償いを果たすより外はないのであります。


(2)-今この道理を一層明瞭にするが為、即ち一生の間、快楽の中に月日を送り、少しも我と我が身を苦しめるでもなく、我が身の上に落ちかかって来る悲しみ苦しみをば、償いとしてじっと堪え忍ぶと云うこともないならば、たとえ天主の御憐れみにより、罪の赦しを得て死するの幸福を忝うしたにしても、如何に重大な償いが後の世に残るであらうかと云うことを、よくよく悟るが為には、昔頃、信者の信仰が熱烈な時分、公の罪人に課せられる償いが如何なものであったかと云うことを考えて見るが可いかと存じます。

 其の償いは今のようにコンタスを一日か、三日か、一週間か誦えると云う位ではない、実に三年、五年、七年、或いは一生涯と云うように長いものでありました。一例を挙げますと、天主に向って冒涜の言を吐いたり、誓いを破ったり、邪淫(じゃいん)の罪を犯したりしたものには七ヶ年の償いを命ずることに定まって居ました。夫れのみならず、聖ボナウエンツラは「聴罪司祭の案内」と云う書の中に、「償いを命ずるのは司祭の自由だけれども、然し大罪にはすべて七ヶ年の償いを命ずべきものとす」と書いて居られます。是は固(もと)より公の罪に当る償いのことで、告白場に於いてのみ知られた罪に対しては、そんなに公の償いを命ずると、告白の秘密が洩れることになりますから、それが出来ないのは申す迄もありますまいが、然し密かな罪といえども、公の罪よりも遥かに重くて大きいのが少なくないでしょう。

 随って公の罪より猶更ら重い償いを課せられねばならぬ場合も無いではないのです。して見ると、我々の如く色々と大罪小罪を重ねて居る罪人は、当然如何なる償いを命ぜらるべきであるかと云うことは決して分かり難い話ではありますまい。然し善く承知して戴かねばならないことは、それほど厳しい償いでも、夫れは償いの全部ではない、天主が正義によって課し給う償いの一部分たるに過ぎないことである。之によって考えて見ましても、死後我々は如何なる償いを果たさなければならぬのであるかと云うことは、朧(おぼろ)げながら悟れぬこともありますまい。世の人の犯して居る罪と云う罪は実に恐ろしいものである。して其の償いと来ては、一ヶ月でも、否、一週間でも、否、一日でも碌に果たして居ないと云う位、さすれば、たとえそうした罪人が天主の御憐れみにより、罪の赦しを得て現世を立つと致しましても、其の行き先は煉獄でなくて何処でございましょう。


(3)-もし幸いにして大罪を犯したことがない、洗礼当時のままの無罪を保つて世を渡ったと致しましょう。夫れでも毎日毎日幾れほどの小罪を犯して居ますでしょうか。毎日幾れほど無益な考えを起しますか、幾れほど益にもならぬ饒舌を致しますか、幾れほど好奇心に駆られて居ますか、拙らぬ計画をやり出すことは幾何でしょう、無暗に心配する、堪忍を破る、懶(なま)ける、心を散らす、遊興に、無駄話に、虚栄に耽(ふけ)り、徒に時間を費やして居ることも幾何でしょう。斯の如くして償いを果たさなければならぬ時間をば、罪を犯すが為に費やして居るようでは、煉獄の苦痛を減じ、其の償いの時を短少めることはさて措き、却っていよいよ之を増して居る、却っていよいよ之を長くして居ると云うものではございませんでしょうか。所でもし現世に生存えて居る間には、負債だけで、一つも支払うことがないならば、是非とも後の世に於いて其の支払いを果たさねばならないことは、火を見るよりも明らかでございましょう。


(4)-今まで申上げました所を以っても、煉獄に苦しんで居るのは如何なる霊魂であるかと云うことは略(ほぼ)判断が付きましょう、天主がその恐るべき正義によって、煉獄に拘留し給える霊魂は、現世に在る間に、其の罪の償いを残らず果たさなかった霊魂であって、信者の霊魂は百の九十九迄はそれであると云っても、過言ではありますまい。然しながら、もし一層明らかに、誰(だれ)某(それ)の霊魂と、掌を指すが如く知りたいと思いなさいますならば、お目に懸けることも出来ないものではありません。それは即ち皆さんの御父様の霊魂、御母様の霊魂、皆さんの御主人なり奥様なりの霊魂、皆さんの可愛い子女(こども)さんの霊魂ではありますまいか。皆さんの善(よ)く識って愛して居られたお朋友や、隣近所のお方々、皆さんの大変御世話になられた恩人の霊魂ではありますまいか。其の他すべて天主の御憐れみの上より与えられた時間を善く使はない、罪の償いもしない中に、その厳しい法廷に召し出された霊魂等でありましょう。

 そこでもし皆さんの心に未だ夫婦親子の情愛と云うものが残って居ますならば、朋友や恩人に対する親愛と云うもの、感謝と云うものが多少とも存じて居ますならば、彼の哀れな霊魂に対して、可哀相に!と云う思いが少しでもありますならば、今こそ夫を表現すべき時ではありませんでしょうか、皆さんは自分の愛するお父様や、お母様が病にかかり、柔らかい布団の上に寝んでいらっしゃるのを見てさえも、何んなに心苦しく覚えられましたでしょう。我が身が代わって苦しんで上げたいとも思いなさいませんでしたか。然るに今やその同じお父様なり、お母様なりが、非常に恐ろしい苦しみの床に、世界にあるほどしの苦痛を悉(ことごと)く集めても比較にならないほどの苦痛の中に悶え悩んでいらっしゃるのを見ながら、平気で居られますか。

 嘗ては可愛い我子が悲しんで居るのを見、苦しんで居るのを眺めては身も世もあられぬ思いして、何んとかして慰めてやりたい、其の涙を拭ってやりたい、責めては一緒に貰泣(もらいな)きに為り泣いて見たいと云う位でありましたでしょう。然るに今や其の可愛い我子が非常に恐ろしい苦痛に泣いて居るのを見ながら、何うしてじっとして居られましょう。もしや皆さんの御主人なり奥様なり、お朋友なりが何かの都合で遠島にされなさった、監獄に打込まれなさったと云うならば、皆さんは如何に悲しみ悶え、何とかして之を救い出すべく奔走しなさいますでしょうか。夫れに今日、その同じ御主人なり奥様なり、お朋友なりが、天主に遠く離れ、恐ろしい煉獄に打込まれて、偏に皆さんの救助を俟って居ると云う悲惨な場合でありますのに、何うして之を救い上げる為に何等の奔走もせずに居られますでしょうか。

あゝ実に天主の正義は厳しい、憐れみの神にて在しながら、どうして愛する我子を是れほど厳しく取扱いなさるのでしょうか。全善(ぜんぜん)の神にて在しながら、どうして其の善人の霊魂を斯くまで容赦なく罰し給うのでございましょうか。十字架に磔けられ給うた愛のイエズスでありながら、御自分の御血によって救はれた霊魂をば、斯うしてまで潔め給うのでございましょうか。然し天主の正義は恐ろしいと云っても、人々の無頓着、無感覚もまた甚だしいではありませんか。自分とは親しい、切っても切れぬ仲になって居る霊魂が、斯うした厳しい罰に処せられて居るのを身ながら、之を憐れむ、之に同情を寄せることを知らないと云うは、不人情もまた極まるじゃありませんか。


(5)-今彼の霊魂等が煉獄に苦しんで居る原因を思って見なさい。皆さんの御父様は、皆さんの為に財を貯えよう、身代を善くして上げようと、余り夫れのみに熱中して、為に霊魂上の務めを怠られた。皆さんの御母様は、皆さんを余りにも甘く優しく育てられました、皆さんの髪を飾り、顔を飾り、衣服を飾り,夫ればかりを心配して、親の務めを等閑(なおざり)になさいました、皆さんの霊魂を飾らうとは思って下さいませんでした。皆さんの子女さんは皆さんの間違った、良からぬ望みにあまりにも易々と従いました、皆さんの朋友は罪になるまで皆さんの言う所、為す所に賛成してくれましたから、今、煉獄に苦しんでいらっしゃるのじゃないでしょうか。

 すべて何人にしても煉獄に下って見たならば、自分の悪い勧誘、悪い鑑を以ってこの苦しみの場に突込んだ霊魂が少なからずあるのに驚く所はありますまいか。そうした霊魂に対しては、是非とも之を救い出すべく力を尽すのは当然の義務ではありませんでしょうか。

 我々故に彼の恐ろしい煉獄に苦しんで居るのだとすれば、責めてもの罪滅ぼしに、之を救い上げねばならぬはずでしょう。殊に彼の霊魂等は煉獄に落ちてからと云うものは、自分では何等の善業をも為すこと出来ず、ただ天主より定められた時期の来るのを俟(ま)つか、或いは世の情けある人々の救助に縋るかするより外はないのである。斯う云う憐れな人を救うのは、実に何よりも立派な慈善業であります、慈善業はただ先方の為になるのみならず、此方にも随分益になる、「福(さいわい)なる哉(かな)、慈悲ある人、慈悲を得べければなり」とイエズスは曰(のたま)うて居る。然らば我々が今煉獄の霊魂に慈悲をかけましたら、我々も亦天主の御慈悲を蒙ることが出来る。

 確かにそれが出来るのであります。其の上我々より救われた霊魂も天に昇ってからは決して我々の恩を忘れるものではありません、始終我々の為に祈って下さる、我々が誘に遭うのを見ては、之に打ち勝つ力を祈り、罪に落ちたのを見ては、痛悔する聖寵を求め、善を行って居るのを見ては、終わりまで続いて益々善に進む根気を、病に罹った時は、善く之を耐え忍ぶ力を、臨終に当っては、善き終わりを遂げるの聖寵を求めて下さるに相違ありません。して慈悲ある人に殊更、慈悲を垂れると云う天主は、その霊魂等の祈りを拒み給うことがありますでしょうか。否、聖人等の御説に由ると、彼の霊魂等はまだ煉獄に在る中にも、自分等の恩人の為に祈ることが出来ると云うのであります。

 して見ると煉獄の霊魂を救うのは、我々の当然の義務であるのみならず、それによって我々の得る所も決して少なくはないのであります。

(続く)