マニラのeそよ風

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第366号 2006/11/16 童貞聖ジェルトルードの祝日

聖ジェルトルード

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 日本の新聞には連日のように、中学生などのいじめを苦にした自殺の話が掲載されています。何故、いじめが存在するのでしょうか? 何故、今の子供達は自殺を選んでしまうのでしょうか? いじめられた子供はさぞかし辛いことでしょうし辛かったことでしょう。いじめる方も、自殺に追いやるとは考えてもいなかったでしょう。かわいそうに。これは何処に問題があるのでしょうか?


 いじめられている小学生や中学生の兄弟姉妹に。

 馬鹿にされたり、いたずらされたり、嫌がらせをされたり、悲しいことを沢山受けて辛いよね。でも、一言こう言うのを許してほしい。

 この世はほんの一時住むだけの仮の宿なんだよ。アダムとエワから始まって、人間が天主に対して罪を犯して以来、この世には苦しみが入ってきたんだ。どんな人にでも苦しみや辛いことがあるんだ。苦しみのない人なんていないんだよ。

 そんな私たち人間を天国に行くことができるように、天主の聖子は人となったんだ。私たちの主イエズス・キリストだよ。イエズス様は、人間となった天主なんだ。でも天主だから、罪もなく善いことだけをしたけれど、同じ国の偉い人たちからいじめられてウソの裁判で十字架の死刑を受けたんだ。これはイエズス様にとって辛いことだったんだよ。でも三日目に自分の天主の力で復活した。イエズス様の受けた全ての苦しみは、世の贖いを勝ち取り、イエズス様の永遠の栄光の原因になったんだ。

 お母様の聖母マリア様も辛かったんだ。罪のないイエズス様が十字架で苦しんで辱められたから。でも、それをイエズス様と共に十字架の元でお捧げしたんだ。そして聖母マリア様の苦しみと悲しみは、イエズス様と共に人類の贖いの元になったんだ。

 だから、辛いことがあったらイエズス様と一緒にこの世の罪の償いとしてそれを捧げて下さい。ただ一人で苦しまないで、イエズス様と共にお捧げして。何故なら、全て罪がある人間はどうしたって苦しまなければならないから。でもお捧げすると、苦しみに無限の価値が出るから。

 この世には三つの苦しみのタイプがあるんだ。一つは罪なく苦しんだイエズス様や聖母マリア様の十字架の苦しみ。もう一つは、イエズス様の十字架の右に十字架に付けられた痛悔した罪人の盗賊の十字架の苦しみ。最後は、イエズス様の左に付けられてイエズス様の罵った罪人の苦しみだよ。

 ほら、今、日本では何でもお金で買えて、お金さえある人が一番で、お金を沢山持つことが一番偉いことであるかのように、考える人がますます増えてきているよね。楽しいことが一番だ、おもしろおかしく、イヤなことは避けるべきだ、って。

 だから苦しむこと、辛いこと、犠牲になること、十字架というと全然価値がないことのように思っているかもしれないな。そうじゃないんだよ。愛するために苦しむっていうことほど価値のあることはないんだ。愛するために、他人の苦しみを自分が受けるっていることだよ。

 「民主主義」だから「主権在民」で、皆、自由で平等で、自分が一番偉くて、何でもしていいっていわれているかもしれないけれど、それはちがうな。私たちは天主に従わなければならない。天主を愛するために、隣人を愛さなければならない。罪の償いを果たさなければならないんだ。

 嫌がらせをされても相手を憎まずに赦してあげよう。偉ぶらないでお友達のためにほんのちょっとした親切をしてあげよう。お友達を大切に思ってあげよう。一緒に悪いことをしちゃダメだけど、お友達の良いところを認めてあげよう。

 今、きっと辛い思いをしていると思う。でもそれを胸に大切に取っておいて、大人になったらそれで周りの人に優しく接してあげてほしい。大人の世界にも、やっぱりいじめとかそういうことがあり得るんだ。辛い思いをすると、そう言うことをされるのがどういうことか分かるんだ。そして私たちの主イエズス・キリストがどれ程、私たちのために苦しまれたかも分かるんだ。

 だから、辛いことがあったらイエズス様と聖母マリア様を思い出してね。


 では、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の「諸聖人の祝日」の部分の続きをどうぞ黙想下さい。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 一 日

(二) 諸 聖 人 の 祝 日

(1)-聖会は毎日毎日聖人等を尊敬して居ながら、特に諸聖人の祝日なるものを定めたのは何の為でしょうか、それは総ての聖人を一つに集めて之を尊敬する為であると共に、また我々の聖人等にたいする尊敬が常に不足勝であるから、それを補はせる為でもあります。然らば皆さん、今日は特に熱心をあらはして、この祝日を守り、一年中、聖人等に対して礼を欠き、十分の尊敬を尽さなかった所を償うように心掛けようではありませんか。

 然し聖会の志はただ是ばかりに止りません。その重なる目的は聖人等の楽しんで居られるその大いなる天国の福楽を我々の目の前にくりひろげて、我々の眠りを醒まし、自分も是非あの天国に辿り着かねばならぬと云う心を起さしめるに在るのであります。で今日は天国の福楽に就いて篤と考えて見ることに致します。


(2)-天国の福楽は如何なものでしょうか ー 聖パウロに由ると、天国の福楽は人が目に見たこともない、耳に聞いたこともない、心に思い浮かべたこともないほどであるとか。聖カタリナは天の片隅を覗いたばかりで、「私は人間の口に言い顕わすこと出来ない程の珍しいものをみました」と云い、同じく聖テレジアも「一目天国を見せて戴いてからは、この世の美しいものや、珍しいものや、そんな物はすべて厭になった」と曰(い)って居ります。

 それも其の筈で、全能の天主、天地万物を無より造り出し給うた天主が、その愛する臣下に、その可愛い子供に充分の福楽を与えたいと思召しになって、備え置かれた天国ですもの、人間の小ぽけな頭で考えられるような、拙(つま)らない、平凡な処であろうはずがない。実に聖ベルナルドも曰(い)はれた如く、天国には厭なものと云うは一つもなく、欲しいと思うものは何でもあるのであります。


(3)-天国には厭なものと云うは一つもない ー 我々の足が一たび天国の閾(しきい)を跨(また)いだものなら、凡ての禍は一時に拭うが如く消え失せる。然り、天国には怖ろしい暗(やみ)もなければ、肌を劈(つんざ)くような冬の寒さ、石をも溶かしそうな夏の暑さもない、ただ晴れ渡った昼ばかり、ただ長閑(のどか)な楽しい春ばかりである。天国には人から無理をされる気遣いがない、妬(ねた)みを受ける心配もない、

 天国の聖人等は皆相(あい)愛し、相楽しみ人の福を見ては我が身の福の如く喜んで居られる、天国には病の苦しみもなければ、貧の辛さもない。

 天国の聖人等は皆聖寵に固まって居ますから罪を犯す気遣いもない、天主を取り失う恐れもない、悪魔の誘に悩まされる憂いすらないのであります。


(4)-天国には欲しいと思うものは何でもある ー 目はその見事な景色、其処に住んで居られる天使、聖人聖母マリア、神の御子、至聖三位の美しい立派な御姿に見入り、耳は絶えず天使や聖人等の曲(ふし)面白く天主を讃美するその楽しい歌にうっとりと我を忘れて聴きとれるのであります。殊に聖人等が何よりも嬉しく覚えられるのは、善の善なる天主を面(まのあた)りに仰ぎ視て楽しむことであります。天主を仰ぎ視ると共に、その底知れぬ深い深い愛を悟るのであります。自分の為に人となり、厩に生まれ、十字架上に死し、聖体の中に食物となって、自分を養い下さったその感ずべき愛を悟って、何んなに吃驚するでしょうか。自分を改心せしめる為に浴びせ給うた聖寵、自分を勧め戒めて下さった数限りなき御恵みを一々数え上げては、どんなに仰天するでしょうか。貧乏だとか、病気だとか、災難だとか、自分が今の今まで禍である、不幸であると思って居たのも、実は決して禍ではない、不幸でもない、それこそ天主が自分を天国に引挙げんが為め、降し給うた価(あたい)高き恩賜(たまもの)であったよと悟っては、余りの嬉しさに身の措(お)き所も知らない位でありましょう。況(ま)して自分の友人、隣近所の人々が、自分ほどの罪も犯さないながら、心から痛悔しなかった為に、救霊を失い、地獄に苦しんで居るのを天国より打ち眺めては、何とて御礼の申し上げようもなく、ただ感涙に咽(むせ)び、嬉し泣きに泣くばかりでありましょう。


(5)-聖人等の楽しんで居られる天国の福楽は誠に斯(こ)んなものでございます。しかも夫(そ)れが百年でなく、千年でなく、天主が天主にて在(ましま)す限り、何時になっても終りを知らないのであります。

 誰にしても福が嫌いで、楽しみが厭な人と云うはありますまい。然らば、何方も宜しく目を挙げて天国をお眺めなさい。聖人等に与えられた楽しみは、我々にも約束されてあるのです、貪欲(どんよく)は人に賎しめられるが、然しそれは慾が余り小さいから、この世の僅かな目腐(めくされ)金、汚(けがら)はしい快楽、儚(はかな)い名誉、そんな被造物に対する小(ち)ぽけな慾だから然うなので、我々はむしろ聖人等の如く、大いに欲ばり、限りなき天の福楽を望みましょう。なるほどそれは決して生易しいことではありません。然し人はお金を儲ける為め、昇級する為、少しく地位を進める為ならば、如何ほど熱心に働きますか、千円も一万円も目の前にころがって居ると云う時は、夜を日に継いで、寝(やす)むことも食べることも忘れて、山を越え、海を渡り、一生懸命に働くじゃありませんか。そうして働いても必ずそのお金が儲かるものと極(きま)って居る訳ではありません。往々は損する、辛労損のくたびれ儲けに終わることが多い、それでも猶,懲りずまに東に西にかけまわるのであります。然し天主と取引をする、天国を目的に働くならば、決して損をする気遣いはない。

 必ず儲かる、それも千や万の目腐金ではない、限りなき天国の寶、天主を我(わが)有(もの)とするの幸福である、誰か之を思ったら腕打ちさすり、力足踏み鳴らして奮(ふるい)起(た)たずに居られましょう、苦労や、艱難や貧の悩み、病の辛さ、其等が山の如く前途に突っ立って居ましても、踏み越え踏み越え進んで行こう、側目(わきめ)もふらずに駆け出そう、勇往邁進しようと云う決心にならずにいられますでしょうか・・・

(続く)