マニラのeそよ風

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第332号 2006/02/24 使徒聖マティアの祝日

聖マティア

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 こんにちは!お元気ですか。

 日本と韓国の私たちの兄弟姉妹の皆様のご家族の喜び、幸福、ご心労、十字架、苦しみ、悲しみに思いを馳せています。2月22日で結婚記念日を迎えた兄弟姉妹、病気で苦しむ兄弟姉妹、また苦しむご家族の方々、兄弟姉妹の皆様と共に祈りミサ聖祭を捧げます。

 パリャラーニ神父様が主日のお説教で言われたことを思い出します。キリストに近づくには、天に近づくには、イエズス・キリストの通った道を通らなければならない、十字架の道を歩まねばならない、苦しみを捧げなければならない。誰にでも苦しみはあるけれども、私たちはそれを愛を込めて抱きしめ、受け入れ、捧げなければ、苦しむだけで終わってしまう、十字架以外の道を通って天国に行こうと考えるのは、キリストの教えではない、と。

 四旬節がますます近づいていますので、兄弟姉妹の皆様には私たちの主イエズス・キリストの御受難とますます一致できるように、キリストの御受難についての聖トマス・アクィナスの言葉を紹介したいと思います。そこで『神学大全』第三部 第46問 第1項「キリストが人類の解放のために苦しむことは必要であったか」の日本語訳をお送りします。分かりにくい表現は、訳者の私の責任です。ご容赦願います。原文となったラテン語は次をご覧下さい。

外国語サイト リンク CORPUS THOMISTICUM / Sancti Thomae de Aquino / Summa Theologiae / tertia pars a quaestione XLVI ad quaestionem LII / Quaestio 46

 では良き四旬節となることをお祈りします。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 ファチマの聖母よ、我らのために祈り給え!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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神学大全 第三部より

第46問 キリストの受難について

序文

 続いてキリストのこの世から去って行かれたことに関して考察しなければならない。第1にキリストの御受難、第2にその御死去、第3にその御葬り、第4に古聖所へ下られたことについてである。

 御受難にまつわって3重の考察がなされる。第1の考察は御受難それ自体について、第2に御受難の能動因について、第3に御受難の実りについてである。

 第1に関して12のことが探究される。

第1、キリストが人々を解放するために苦しむことが必要であったか。
第2、人類の解放の他のやり方の可能性があったか。
第3、このやり方が相応しかったか。
第4、十字架において苦しまれることは相応しかったか。
第5、キリストの受難の一般性について。
第6、キリストが受難において堪え忍んだ苦しみは最大であったか。
第7、キリストの全霊魂が苦しんだか。
第8、キリストの受難は至福直感の喜び(gaudium fruitionis)を妨げたか。
第9、御受難の時について。
第10、場所について。
第11、キリストが盗賊らと共に十字架に付けられたのは相応しかったか。
第12、キリストご自身の受難は、天主性に帰属させられるべきか。



第1項 キリストが人類の解放のために苦しむことは必要であったか。

【疑問】

 第1について次のように進められる。キリストが人類の解放のために苦しむことは必要ではなかったと思われる。


【異論】

異論1 人類は天主によらずに解放され得なかった。イザヤ45:21によると「私は主ではないか。私の他に天主はない。正しい救い主の天主は私の他にいない」とある。

ところで天主には何らかを必要とすることはない。何故ならこれは天主の全能に反するからである。

従ってキリストが苦しむことは必要ではなかった。


異論2 更に、必要・必然的ということは意志的なことに反する。

しかしキリストは自分の意志によって苦しまれた。何故ならイザヤ53:7にはこう言われているからである。「自分で望んだので捧げられた。」

従ってキリストが苦しむことは必要・必然ではなかった。


異論3 更に、詩篇24:10で言われるように、「主の全ての道は憐れみと真理である」。

しかし天主の憐れみの観点からは、苦しむことは必要ではなかったように思われる。天主の憐れみとは、天主が無償で賜物を分け与えるように、天主の正義を満足させること(satisfactio)無しに無償で負債を勘弁することであるように思われるからである。

更に天主の正義の観点からも、苦しむ必要はなかった。何故なら天主の正義に従えば、人間は永遠の滅びに値したからである。

従って、キリストが人々を解放するために苦しむ必要はなかったように思われる。


異論4 更に、天使の本性は人間本性よりも優れている。これはディオニジウス著『天主の聖名について』第4章に明らかである。

ところで罪を犯した天使の本性を償うためにキリストは苦しまなかった。

従って、人類の救いのためにキリストが苦しむ必要もなかったと思われる。


【しかし反対に】

 しかし反対に、ヨハネ3:14-15には「モイゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられなければならない。それは、信じるすべての人が、かれによって永遠の命をえるためである」と言われている。

ところでこれは「十字架に付けられてあげられる」ことであると解されている。

従って、キリストは苦しまなければならなかったと思われる。


【本論】

 答えて言わなければならない。アリストテレスが『形而上学』の5巻で教えるように、「必要」とはいろいろな意味で言われる。ある意味では、自分の本性に従えばそれ以外ではありえないという意味で「必要」と言われる。この意味においては、明らかにキリストが苦しむことは必要ではなかった。天主の観点からも、人間としての観点からでも必要ではなかった。

 別の意味で、或る外的な要素から何かが必要であると言われる。もしそれが作出因あるいは動因だとすると、それは強制の必要性(necesitas coactionis)となる。例えば、ある人が、暴力に拘束されて行くことが出来ないときがそうである。

 もし必要性を生じさせるその外的要素が目的因の場合には、それは、何かが目的を想定するゆえに必要であると言われる。つまり何らかの目的が、そのような目的を前提としない限り、或いは如何なる意味でもありえない、或いは相応しくありえない場合である。

 従って、強制の必要性においてはキリストが苦しむ必要はなかった。天主の側からしてもそうであるし、キリストご自身の側からしてもそうである。天主は【強制されずに】キリストが苦しむことを定めたし、キリストは喜んで苦しんだからである。


 ところで目的の必要性において必要であった。このことは3つの意味で理解される。

(1) 第1に、私たちの側からである。私たちはキリストの受難を通して解放されたのであり、それは、ヨハネ3:14-15に「人の子もあげられなければならない。それは、信じるすべての人が、かれによって永遠の命をえるためである」と言われている通りである。

(2) 第2に、キリスト自身の側からである。キリストは受難の屈辱を通して高揚の栄光の功徳を得たのであり、ルカ24:26「キリストは、これらの苦難をうけて栄光にはいるべきであった」はこのことに関する。

(3) 第3に、天主の側からである。聖書において予告され旧約の規律に前表されていたキリストの受難にかんしての定めは、正に天主の定めであったからである。このことについてルカ22:22「人の子は、定められたとおりに去っていく」と、またルカ24:44,46「私が、まだあなたたちといっしょにいた時に話したとおり、モイゼの律法と預言書と詩篇とに私についてしるされたことはみな、かならず実現するべきだった」そして「キリストは、苦しみをうけて、三日目に、死者の中からよみがえるべきであった、としるされてある」とある。


【異論への回答】

 異論1については、それゆえ、言わなければならない。この異論は天主の側からの強制の必要性について論述されている。【強制の必要性においてはキリストが苦しむ必要はなかった。天主の側からしてもそうであるし、キリストご自身の側からしてもそうである。】

 異論2については言わなければならない。この異論は人間としてのキリストの側からの強制の必要性について論じている。

 異論3については言わなければならない。人間がキリストの受難を通して解放されることは天主の憐れみと正義に相応しいことであった。正義について言えば、キリストの受難を通してキリストは人類の罪のために天主の正義を満足させたからである。そしてこうして人間はキリストの正義を通して解放された。憐れみについて言えば、既に【第1問 第2項 異論2についての回答】述べたように、人間は自分で全人類の罪のために天主の正義を満足させることが不可能であったので、ローマ3:24-25「キリスト・イエズスによるあがないによって、天主の恩寵により、無償で義とされた。天主はキリストを、そのおん血によって、信仰による宥めの供物と定められた」によれば、天主は人類に天主の正義を満足させる者として聖子を与えた。そしてこのことは、天主の正義を満足させること無しに罪が赦されることよりも、さらに大きな溢れるばかりの憐れみに属することであった。そのためにエフェゾ2:4-5にはこう言われている。「慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくだった。」

 異論4については言わなければならない。第1部【第64問 第2項】で述べたことから明らかなように、天使の罪は人間の罪とは違って回復することの出来ないものであった。


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