マニラのeそよ風

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第295号 2005/08/10 殉教者助祭聖ラウレンチオの祝日

St Lawrence Distributing Alms, FRA ANGELICO

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 フランス革命の時、人類は天主に社会的・政治的に反乱を起こしました。「革命」とは天主に挑む戦いであり反乱のことです。フランス革命で直ぐにしたことは、天主が私たちの上に持っている主権を否定し、私たちが天主に対して持つ義務の放棄を宣言したことです。それが「人権宣言」でした。そこで天主が私たちの上に立てた法と制度と秩序を否定する、「自由」と「平等」とが唱えられました。これが革命の原理です。この革命の原理は、私たちの持つ「日本国憲法」にも脈々とつながれています。

 人間が、天主の掟から解放され「自由」を追求しだすと、自然に弱肉強食の野獣のような社会が成立します。強い者はますます強くなり、弱い者はますます弱くなります。富む者はますます富み、持たない者はますます貧しくなります。富む者は自分の持つ影響力に任せて、規制を撤廃し、ますます自由を拡大しようとします。おそらくは富の蓄積と集中を達成させるために、国家の撤廃も望み、一握りの少数の富豪が世界を支配するように進むでしょう。そして人類は、何も知らないまま、一握りの大富豪の奴隷となることでしょう。

 人間の天主のない「自由」の弊害に気づいた人々は、革命の別の原理を強調します。つまり「平等」です。一部の革命家らが全ての国家権力を掌握し、軍隊と警察と飢饉とを使い全人民を「平等」に奴隷にさせるのです。中央革命委員会を例外とすると、全人民は、全てが奪われ、虚偽と追従と恐怖と不信と無気力のうちに、地上に出現した地獄を生きなければならなくなります。天主の立てた自然の秩序は、強制的に否定され、男も女もなく全ては世界革命を遂行させるための手段になります。

 革命家らは、自分らが不平等の根元と見なす個人所有と家族と国家の撤廃を望み、天主への反乱と世界革命を達成させ、一握りの少数の共産党員が世界を支配するように進むでしょう。そして人類は、それに対して何も出来ないまま、一握りの革命家らの奴隷となることでしょう。

 私たちが天主に反乱を起こし天主からの「自由」を追求しても、あるいは天主の作った秩序に逆らう「平等」を追求しても、結局は、天主に反抗する以上人類は奴隷に転落してしまうでしょう。

 私たちカトリックが望んでいるのは、反革命という「革命」ではありません。私たちが望んでいることは、「革命」の反対です。私たちは「我になれかし」という天主への従順で生活することを望んでいるのです。そしてそれがたとえ私たちに多くの犠牲を強いるとしても、そこにこそ私たちの、そして私たちの愛する家族と、私たちの愛する祖国への真の幸福がある、と知り信じています。

 私たちは、天主への従順において初めて人間の自由と完成があると知っています。何故なら、私たちは罪と情欲と悪とから解放され自由になるからです。

 私たちは、天主への愛において初めて人間の平等と完成があると知っています。何故なら、私たちは、愛によって天主から裁かれるからです。天使も人間も、男も女も、金持ちも貧乏も、老人も若者も、天主をどれほど愛するかによって等しく裁かれるからです。そして天主を愛すれば愛するほど、天主は私たちを報われるからです。

 愛する兄弟姉妹の皆様、そしてこれから婚姻の秘蹟によって結ばれようと準備をしている兄弟姉妹よ、いつも天主とともに、天主への愛のこもった従順のうちに生きて下さい。

 カトリックの婚姻と家族については次の記事もご参考にお読み下さい。
日本語サイト リンク FSSPX Japan: カトリックの家庭(1)
日本語サイト リンク FSSPX Japan: NICE IIの家庭観

それでは「カトリック家族とその敵について」の続きです。
(7)家族に反対する戦い をお届けします。ごゆっくりどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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カトリック家族とその敵について

----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----

(7)家族に反対する戦い

 家族に関する「定義」の戦争に巻き込まれないように、私たちは家族が何であるかもう一度再確認する。家族は一人の男と一人の女と彼らの子供達から成立する。家族の成員は天主から自分に与えられた使命を理解し、天主の十戒を遵守し、家族を聖なる制度であると考える。家族は、国家に先立つ。国家は家族を援助しなければならず、家族の存続を脅してはならない。

 現代世界の世俗の考えはこれとはかなり違っている。家族とは、自分自身の利益のことしか考えない・利己主義的で・堕落した・「自己定義的な」個人から成立している。これらの個人はしかしながら国家の法によって、他人に危害を与えたり腐敗させたりすることを禁じられている。

 レオ13世は、1880年にキリスト教的な婚姻に関する回勅『アルカヌム・ディヴィネ』でこう述べている。

 「さて、婚姻が聖なるものであることを否定する者ども、そして婚姻からその全ての聖性をはぎ取り世俗の事柄の一つの位にこれを格下げする者は、それによって自然の基礎を掘り崩し、天主の御摂理のご計画に抵抗するばかりか、彼らの出来る限り天主が打ち立てた秩序を崩壊しようとする。従って、このような狂気の不敬な試みから、霊魂の救いと公共福祉の安寧を極めて恐ろしく脅かす危険な悪が刈り取られることになるのは、誰の目にとっても不思議ではない。」

 家族という天主の立てた制度を破壊しようとするこの「狂気の不敬な試み」は、プロテスタントの反抗によって始まった。それはプロテスタント主義が離婚を許可するようになったからである。そして家族破壊の試みは、フリーメーソンやフランス革命の考えによって主に進められ、加速度的に速度を増した。フランスにおいては、例えば、フランス革命が1792年初めて離婚を合法化した。しかしカトリック哲学者であったルイ・ド・ボナルド(Louis de Bonald, 1754-1840)が革命後に離婚に反対して説得に当たり、フランスでは1816年離婚は廃止された。そしてその後フランスに離婚が再導入されるのは1884年である。

 家族に反対する戦争において重要な要素の一つがマルクス主義である。マルクス主義は常に個人所有財産の廃止、家族の廃止、宗教の廃止を訴えていたからである。家族に関する考えは、フリードリッヒ・エンゲルス(1820-1895)によって、その著書『家族、個人財産及び国家の起源』においてほとんど完全に唱えられた。エンゲルスは家族の将来についてこう言っている。

 「生産手段が共同所有に移行されると、個人的な家族は社会の経済的単位として存在することを止める。個人的家計は社会産業に移行される。子女の世話と教育は公的事業となる。社会は全ての子供達を、結婚した夫婦から生まれた子であれ私生児であれ、平等に世話する。」

 ボルシェビキは、ソヴィエト・ロシアで権力を握るとすぐにこの考えを実践に移した。イゴール・シャファレヴィッチは『社会主義者的現象』の中で家族に対する悲惨な影響を描写している(Igor Shafarevich, The Socialist Phenomenon, 1975)。

 フリーメーソンの影響を受けて、西洋でも家族崩壊という同じ目標が追求された。ただし西洋では速度は遅く、より巧妙に進められた。家族を浸食し崩壊させるために取られた手段の巨大な兵器庫には、離婚の合法化、扶養手当の不支払い、大家族への罰則的課税、避妊の推進、堕胎の合法化、避妊手術、集団育児(デイ・ケア・センター)、性道徳の腐敗、婚姻外の性交渉の促進、ポルノ、現代生活の全てにわたる慎みのなさ、男女変わらない衣装、同性愛の絶対的促進などが含まれている。

 家族崩壊の重要な部分には、子供の公的義務教育がある。この公的義務教育からは、真の宗教と絶対的道徳的基準というものが追放されている。(既に1929年、チェスタートンはこう書いている。「義務教育の目的は、普通の人から常識を取り上げることである。」)

 義務教育は、絶対的道徳的基準を教える代わりに、子供の性教育に極めて熱心であり、若い学生たちに家族に反対する考えを植え込む。バベット・フランシスは、教科書と教育課程に強要された「性差別のないガイドライン」に従った表現によって、オーストラリアでは伝統的な家族というものをなくさせる思想統制と検閲の巨大なキャンペーンが隠されていると言っている。「性別による役割の分担」ということを撤去することは、学校教育の目的である情報の伝達ということを遙かに上回ってしまっている。

 子供の教育に関する家族と国家との軋轢は、常に家族に反対する戦争を伴ってきた。家族の敵は、常に子供の教育権は、直接にそして直裁的に国家権威にある、と主張してきた。

 この原理は、フランス革命の時代から大胆に主張されてきた。フランス革命時代の革命家ダントンはこう叫んだ。「子供達は、親に属する前に共和国に属する。」別の革命家ロベス・ピエールはこう言った。「祖国は、その子供達を育てる権利と義務がある。この信託を家族の傲慢あるいは個人の偏見に任せることが出来ない。」

 ブカーリンは、共産主義のためにこう言った。「社会は、子供の教育の原初的基本的権利を有する。私たちは従って、家族を通して教育を与えるという親の主張、彼らの子女の考えに対する偏狭な見方を妥協することなく払いのけなければならない。」

 ひとたび女性が賃金のために労働せざるをえなくなると、そして女性が男性と競争することを義務づけられると、正当賃金の問題が起こる。これが「女性問題」といわれたことにつながった。この問題は、プロテスタント主義が修道会を全て廃止してしまったために更に酷くなった。何故なら、修道会の廃止により、そのために自分で生活の糧を得なければならない女性が激増したからである。

 キリストは、自由に選択した童貞が婚姻よりも高貴であることを教えた。選ばれた男女は、高貴な生活を送るように招かれている。この教えはカトリックの教えの重要な部分である。この教えによって女性はとくに、以前には考えもつかなかった、男性から独立した地位に置かれた。修道生活は結婚しない女性たちに、男性のいないことの価値とその重要さを与えた。そして更に、宗教的動機によって婚姻を放棄する童貞女は、結婚した女性よりも上位の地位を獲得し、社会においてより大きい母性的影響を及ぼす。エリザベト・グナウク・キューネ(Elisabeth Gnauch-Kuehne)は良く言い当てている。「童貞性を評価することこそが、文字通りの意味における真の女性解放である。」

 しかし修道会を廃止し離婚を勧めたプロテスタント主義は、社会に大きな害を及ぼした。そしてひいては今日私たちがフェミニズムと呼ぶものを準備した。

以上は次の記事を参考にした。
http://www.sspx.ca/Angelus/2002_August/Feminism_As_Antichurch.htm
Society of Saint Pius X Canada: Feminism As Antichurch Part

(続く)