マニラのeそよ風

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第291号 2005/08/06 私たちの主イエズス・キリストの御変容の祝日

主イエズス・キリストの御変容


アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 私たちの主イエズス・キリストの御変容の目撃者である聖ペトロはこう書いています。

 「私たちは、主イエズス・キリストの力と来臨とを知らせたとき、巧みな作話をしなかった。私たちはそのみいつの目撃者であったからである。おごそかな光栄の中から「これは私の愛する子である。私はかれをよろこびとする」と声があって、主は父なる天主から、ほまれと光栄とを受けられた。私たちも、かれとともに聖なる山にいたとき、天からくるこの声を聞いた。」(2ペトロ1:16-18)

 そして天主聖父が喜びとする聖子は、私たちにこう言います。

 「私にとどまれ、私があなたたちにとどまっているように。木にとどまっていない枝は自分で実を結べないが、あなたたちも、私にとどまっていないならそれと同じである。私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。私にとどまらない人は、枝のように外に投げすてられて、枯れはててしまい、人々にひろい集められて、火に投げいれられ、焼かれてしまう。」(ヨハネ15:4-6)

 つまり真理は私たちにこう言っています。イエズス・キリストがいないと、私たちにはなに一つできない、と。

 私たちの取るべき態度は何でしょうか? 「我は主のつかい女なり、仰せのごとく我になれかし」です。「主よ、誰のところに行きましょう。あなたは永遠の生命の言葉を有しておられます」(ヨハネ6:68)です。

 私たちは、先月ベヒャー神父様の講話会のあとで O Gloriosa Virginum を皆で歌い、そのハーモニーを楽しみ、とても幸福でした。大自然は、天主の智恵と御旨に従い調和し、天主を賛美しつつ、全被造物は自分の幸福を感じています。理性をもつ人間は、自由に愛を持って、天主の御旨に従って生きるとき、そこにこそ初めて真理の幸福と人間の完成があります。天主イエズス・キリストがいないと、私たちにはなに一つできないのです。

 男と女は、天主の作った秩序に従って「我は主のつかい女なり、仰せのごとく我になれかし」と生きることによって、私たち個人の幸福と全人類の安寧と福祉につながるのです。

 それでは「カトリック家族とその敵について」の続きです。
 (3)人間の性と出産 をお届けします。ごゆっくりどうぞ。

 天主様の祝福が豊かにありますように!


 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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カトリック家族とその敵について

----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----

(3)人間の性と出産

 「天主はご自分にかたどって、人間を創りだされた。人間を天主のかたどりとし、男と女に作り出された。天主は人間を祝福して仰せられた。生めよ、増えよ、地に満ちて、地を支配せよ。」(創世1:27)

 天地の創造主は「生めよ、増えよ」と命令するだけではなかった。人間は、その他の動物と比べると、その誕生の時、最も弱々しく一人ではとても生きられない存在である。自然の法則に従って、嬰児の体の複雑さと豊かさが極めて大きいほど、それだけ壊れやすいものとなっている。もし生まれたばかりの赤ん坊が生き、成長するとしたら、赤ん坊は数年にわたってその母親から不断の世話を受けなければならない。ところで母親は、自分自身を支えて保証してくれる夫がなければ、そのような世話を相応しく子供に与えることが出来ない。女性が胎内に新しい生命を宿すとき、男は、母親と子供を守る家を造り、母親と子供を養うために畑を耕し、母親と子供を敵から守るために剣を研ぐ、あるいはそれに相当することをする。そうして初めて家族は存在する。しかし、そこにはそれ以上のことがある。人間とその他の野獣とを区別するものは、肉体的な要求が満足されてもまだ不足していることである。人間の霊的本性を満足させなければ、生物学的な要求を満足しても足りないのである。

 子供を育てるということは、家畜に餌を与えるというのとはわけが違う。子供は教育を受けなければならない。子供は実践的で道徳的な概念を教えられるが、それらは、子供への遺産であり子供がその中で生きる文明の助けである。そしてこの教育とは、長い難しい仕事である。両親の長きにわたる忍耐強い協力なしに、子供に相応しい教育を与えることは、ほとんど不可能である。これを確かめるためには、片親に死別された子供たちが道徳的な霊的な困難に直面すること、あるいはさらに両親の離婚のために家庭が崩壊してしまった子供達のますますの困難があるのを見るだけで分かる。

 子供を産むだけではなく、正しい理性の要求にかなったやり方で成熟するように子供を育てるとは、極めて難しい仕事であり私たちをひるませてしまう。そのため創造主は、人間の繁殖を望ませるように、人類に性的な情念と親になることを望ませる心を与えた。天主は、出産の課程に性的欲情の満足を付け加えた。もしも人間が、出産と性的欲情の満足という天主によって結びつけられたこの2つを切り離し天主に挑戦するなら、人間は自然法と天主の実定法とに反対する重大な罪を犯すことになる。性的な快楽とは、子供をもうけて相応しく育てるという難しい仕事を喜んで引き受けるということへの報償として天主によって人間に与えられたものである。相応しくもないにもかかわらず報償のみを求めようとすることは、正義を犯すことである。

 このことによって、貞潔に反する故意の罪は、道徳法において厳しく罰せられることが理解される。私たちは、少しだけ節食に欠くことがあり得る。少しだけ食べ過ぎてしまうことがあり得る。少しだけ不誠実であり得る。少しだけ真理に忠実でないことがあり得る。しかし人間は少しだけ不貞潔であることは有り得ない。貞潔に反する罪は、完全に理性が承諾したものであれば、常に大罪である。

「天主は、新しい人間生命の創造の計画がご自分の御手から取られ、快楽と興奮の不徳な貪欲を満足させるための道具に貶められることがないように、極めて厳格である。」

 性的快楽をただその快楽のためだけに追求することは、快楽それ自体を目的とすることは、自然法に全く反することであり、明らかに社会に対する侮辱である。カトリック教会はこれに反対して口を閉ざしたことがなかった。

「従って、夫婦行為は自然によって主要に子供の出産のためであるので、それを行いながら故意に自然の力と目的とを無に帰する者たちは、自然に反する罪を犯し恥ずべき本質的に邪悪な行為を犯すことになる。」(Casti Connubii)

 従って、聖書は、この恐るべき犯罪を天主が忌み憎み、時には死をもってこの罪を罰しておられるのを語っているが、それは驚くに当たらない。聖アウグスティヌスが言うように「子女の受胎が妨げられる時、自分の正当な妻との関係でさえも不法であり邪悪となる。ユダの子オナンはこの罪を犯し、主はかれをそのために殺した。」

 大天使ラファエルもトビアにこの言葉を言っている。 「聞け、私が悪魔に勝つことを占めそう。結婚の時、自分たちの心から天主を追い出し心なきうまかラバのように本能に溺れる人々に対しては、悪魔は強い。」(トビア6:16-17 ブルガタ訳による)

(続く)