マニラのeそよ風

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第279号 2005/05/26 御聖体の祝日




「新約においては、可見的、外的祭司職はないとか;主の真の御体と御血とを聖別し奉献する権能、罪を解きまたはつなぐ権能はないとか;福音を説く職務と奉仕だけがあり、説教をしない者は司祭ではないとか言う者は排斥される」
トリエント公会議(DS 1771)

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 今日は、私たちの主イエズス・キリストの御聖体の祝日です。
 キリシタンの時代から、わが祖国日本においては、御聖体への信心がとりわけ熱く、キリシタンはいつも

 「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」
 Lovado seia o Santissimo Sacramento!

と常に唱えていました。

 私たちも、御聖体のうちに真にましましたもう主イエズス・キリストを心から礼拝致します。御聖体を信じない人、御聖体に希望を置かない人、御聖体を愛さない人々に代わって、私たちは真心から、御聖体を信じ、希望し、愛し奉ります!

 そして、今から3年前の、2002年の御聖体の祝日に「マニラの eそよ風」の第1号がそよそよと吹き始めたのは、この御聖体への愛に促されてのことでした。


 さて、前号では、ある「司祭」が、私的啓示のメッセージに基づいてニューエラ(新しい時代)の新しい教会ができることを主張していることについて書きました。しかし、イエズス・キリストは言いました。この世は過ぎ去るが私の言葉は過ぎ去らない。

 イエズス・キリストは昨日も今日も変わりません。イエズス・キリストの立てた宗教は、時代によって変わりません。真の天主であるイエズス・キリストの立てた教会も、世の終わりまでそのまま変わらずに存続します。イエズス・キリストの新約の司祭職も、変わることなく続かなければなりません。そして、私たちには本当の意味でのカトリック司祭が必要です。全き意味でのカトリック司祭が。

 もう2年も前の話になりますが、2003年09月12日付けの 日本語サイト リンク 「マニラの eそよ風 」第167号では、オリエンス宗教研究所発行の「福音宣教」誌に連載されたG. ネラン師の「使徒もミサを捧げ得るか―――古代教会でのエウカリスチア―――」という論文についてコメントを書きました。

 ネラン師の主張の要点は次の通りでした。

* 「祭司」と「司祭」を区別すべきである。「祭式を執り行うもの」が「祭司」であり、それとは別に「何らかの団体において務めを持つもの」である「長老」がある。現代の教会の「長老」は「教会の奉仕者」で、キリスト教用語として「司祭」と訳されている。

* 古代教会には「秘跡」などと言う概念は用いなかった。しかし「主の晩餐」においてキリスト自身が臨在し、働きかけていると信じていた。「これは私の体である」というキリストのことばを繰り返すものは、特殊な才能も技術もいらない。信者の誰でも出来るサービスである。キリスト教を述べ伝えるというのは司教団の固有の使命であり、ミサを挙げるというのは信徒の中の一人の務めである。

 これを書いてもう2年になろうとしていますから、ネラン神父様の意見については、私はもう忘れかけていました。この当時、このような考えを持つ方が司教でなくてよかったなとは、いろいろ考えたことを思い出しました。

 何故なら、「司祭」とは「祭式を執り行うものではない、単なる教会の奉仕者である」と信じているような司教さまが、司祭の叙階式で本当に「教会のしていることをするという意向で司祭をつくる」という意向を持つことができるか、疑問だからです。何故なら、秘跡が有効であるためには、必ず3つの条件が正しく揃っていなければならず、その一つでも欠ければ秘跡は無効になってしまうからです。(その条件とは、つまり、〔1〕質料、〔2〕形相、〔3〕その秘跡を行うことの出来る主体の意向、の3つです。)

 何故なら、ミサを上げるというのは「特殊な才能も技術もいらない、信者の誰でも出来る」ことであると、考えているネラン神父様のような方が、もしも司教様であるなら、彼は、一体全体、何のために「司祭に叙階する」ことを考えるのか、全く疑問であるからです。

 もう少し説明すると、(ネラン神父様の上の概念と用語に従って言うなら)カトリック教会では今まで、「司祭 =(イコール)祭司」であると考えてきました。つまり「教会の上に立つ者」すなわち「いけにえを公式に捧げる者」です。

 これは「トレント公会議がつくり出した」司祭像ではありません。何故なら、トリエント公会議を知らないはずの東方離教会も「司祭」イコール「祭司」であり、「教会の上に立つ者」すなわち「いけにえを公式に捧げる者」と考えてきているからです。言い換えると、カトリック教会は、その最も初代から、司祭を「祭儀の執行者」とし「教会制度の管理者」であり「世俗から天主のために切り離され聖別された者」と考えてきました。司祭職の根拠は、最初から正にミサ聖祭にあるのです。

 しかし、ネラン流の新しい発見(!)によると、「司祭 =(イコール)祭司」は間違いで、「司祭 ≠(イコールではない)祭司」なのです。それによると、平信徒がミサを捧げる「祭司」であり、「司祭」はそうではないのです(「司祭」は平信徒としては、ミサもすることができる)。

 もしも「司祭(=教会の奉仕者)」≠「祭司(=犠牲を執り行う者)」ということを、司教様たちが信じて、そう理解しておられるとしたらどうなってしまうのでしょうか?? 言葉の上での概念の違いだけではなく、「カトリック司祭とは、いけにえを執り行うものはない」などと司教様たちがお考えになってしまっていたらどうなってしまうのでしょうか? そのように考えている司教様たちは、どういうおつもりで、どういう意向とで「司祭」らを叙階するのでしょうか? そのような意向でなされた叙階は、本当に「教会のしていることをする」という意向をもった叙階式になるのでしょうか?

 しかも、「秘蹟」という概念は、古代教会にはなかった(中世の発明である?)とさえ言うのですから、どうして叙階の「秘蹟」を授けようという意向を持つことができるでしょうか。もし、意向が成立しなかったら、どうして有効な叙階の秘蹟を授けることができるでしょうか? 私はそのような疑問をもっています。


 ところで、ネラン神父様の論文は、オリエンス宗教研究所発行の「福音宣教」誌というカトリック教会の公の出版機関によって発表されたものです。オリエンス宗教研究所といえば、カトリック教会では中心的な機関の一つです。ですからこのような意見が受け容れられる(発表できる)ような素地が既に日本にはあったのではないでしょうか。司教様たちも、ネラン神父様の説に幾分かの同意があるからこそ、たとえネラン神父様の全ての主張(特に、その結論)に同意しなかったとしても、このような論文が、大手を振って歩いているのでしょう。

 司教様たちは、もしかしたら、「祭司」と「司祭」を「神学的に・聖書学的に」別物であると言う主張には同意しておられるのかもしれません。つまり「祭式を執り行うもの」としての「祭司」と、「何らかの団体において務めを持つもの」「教会の奉仕者」であり「長老」としての「司祭」とは別のものであること。つまり「司祭 presbyteros, presbyter 」≠「祭司 sacerdos 」という主張には同意されているのかもしれません。

 司教様がもし、ネラン神父様のように、司祭とは「みことばを伝える人」であり「祭儀の人ではなく宣教の人」であると考えていたとしたら、・・・

 司祭職とは、祭儀にあるのではなく、宣教にある。司祭も信者も、『同じ人間に過ぎない』のであって、司祭も、司祭になったからといって信者としての「祭司職」をなくなったわけではなく、「神の民」の中での中心は、「民」であり「信者」だから、信者の「祭司職」こそ最も重要であって、司祭職とはそれを励ますものである、と考えておられていたとしたら、・・・

 司教様がもし、トリエント公会議をはじめ、2000年間、カトリック教会が教えてきた司祭は現代ではなじまない、別のタイプの「司祭」をつくらなければならない、と考えておられていたとしたら、・・・

 つまり、司教様が「司祭は大祭司キリストになぞらえたりできない、聖書神学の進歩によって、司祭が天主と人との仲介者であるという神学説は根拠がなくなった、伝統的な司祭像は中世の身分社会の中で作られたものにすぎない、共同体全体による典礼の推進と信者の祭司職見直しの結果、祭儀さえ司祭の独壇場ではない、司祭と信者との本質的違いはほとんどない、今まで教会がやって来たような『祭司』としての司祭ではなく別な新しいタイプの『司祭』」とお考えになっていたとしたら、・・・

 このような司教様が叙階式をして「いけにえを捧げる司祭をつくる」とか「教会がやっていたことをする」という意向を持つことが出来るのでしょうか?

 今までのカトリック教会の信じていたことに大してあからさまに反対のことを主張し、新しい司祭像を求めなければならない、今までの司祭ではない新しい司祭が必要だ、と主張しているかぎりにおいて、彼には教会のやるとおりの秘跡を執行しようという意向が無いことになってしまうのではないでしょうか?? 

 しかし司教様が「教会がやっていたことをする」という意向をもって叙階の秘跡を執行しない限り、秘跡は無効になってしまいます。ネラン神父様のように考える方が、司教様のなかには絶対におられないと本当に言えるのでしょうか??


 ここで、長江 恵司教様のお書きになった「神学小品集」(1996年)を、読み返してみます。司教様は「明日の司祭像」と「明日の司祭像(つづき)」の項でこう書いています(17-30ページ)。


===引用開始===

「トレントの司祭像は祭儀の執行者、教会制度の管理者、世俗を放棄した修道者の3つの点を特徴としている・・・しかし歴史の進展と共にトレント型の司祭は次第に社会に通用しなくなってきた。・・・

トレント(公会議)は司祭職の根拠をエウカリスチアに求め・・・ミサ聖祭を中心とした司祭像を提示したが、バチカン(公会議)は司祭論の基礎は宣教・ミッションに見いだした。・・・

したがって司祭像の基本型は祭儀の人ではなく宣教の人である。・・・

司祭職は神の民の中での役務・ミニステリウムであるから、信者の祭司職と切り離して考えることは出来ない。信者は自らの祭司職を通して、みことばを宣べ、より人間らしい社会の建設にはげみ、生活を霊によるいけにえとして神にささげる。このような信者の祭司職の働きを支え、まとめ、励ますのが司祭の役務である。・・・

司祭は司祭である前に信者であり、叙階によって自らの中にある信者の祭司職を失ったわけではない。また司祭職は信者たちの祭司職のためである。それゆえ世に対する司祭の根本姿勢は・・・信者とともに世の人間化(ヒューマニゼーション)に協力することにある。」(初出 1975年)

「キリストによってすべての祭司職は廃止された・・・

近頃、祭司と司祭を使い分けているのは、・・・司祭は長老に当たるので、キリストの司祭職、信者の司祭職とはいえないからである。また司祭を大祭司キリストになぞらえたり、旧約の祭司と混同しないようにするため、さらには司祭の祭司職と信者の祭司職の混同を避けるためである。・・・

「典礼憲章」によって共同体全体による典礼が推進され、「教会憲章」によって信者の祭司職が改めて見なおされたために、祭儀さえ司祭の独壇場ではなくなるとともに、聖書神学の進歩によって司祭を仲介者とする神学説も影がうすれた。・・・

現代の司祭は、司祭とは何か、司祭とはいかにあるべきか、司祭は何をなすべきかと問いかけ、自らのアイデンティティーに不安を感じ、新しい司祭像を求めてやまない。」(初出 1976年)

===引用終わり===


 これを読むと、第2バチカン公会議以後、司教様たちでさえ、カトリック司祭とは何かすら分からなくなってしまったことがよく分かります。長江司教様は「現代の司祭は、司祭とは何か、司祭とはいかにあるべきか、司祭は何をなすべきかと問いかけ、自らのアイデンティティーに不安を感じ、新しい司祭像を求めてやまない」とさえ言っています。これは長江司教様だけの問題ではなく、日本にいるほとんどの司教様たち、世界中のほとんどの司教様たちさえも感じている不安ではないでしょうか。

 そんな現在、もう一度、私たちは、東方また西方教会の聖伝に従って「祭儀の執行者」「教会制度の管理者」「世俗から天主のために切り離され聖別された者」としての司祭像に立ち戻らなければならないのではないでしょうか。すべてのカトリック司祭たちに、司祭職の根拠としての聖伝のミサを取り戻してあげなければならないのではないでしょうか。まず天主のために天主に向かって捧げられる聖伝のミサを。イエズス・キリストは昨日も今日も変わりません。イエズス・キリストの司祭も昨日も今日も変わらないからです。

 私たちは、初代から変わらない新約の司祭職を今に至るまでそのまま堅持し、守り通して下さったルフェーブル大司教に感謝します。聖伝に従ったカトリック司祭職を、信仰の面で、秘蹟の面で、守り通すことができるようにルフェーブル大司教を立てた天主に感謝します。そして司祭にとって最も大切な、いけにえである聖伝のミサを守り通すことができるために、ルフェーブル大司教に知恵を与えて下さった天主に感謝します。

 カトリック司祭とは何かということについて教会が今まで理解してきた通りに理解し、教会が愛してきたその通りに司祭職を愛し、教会が望んだように司祭職を養成し、聖伝のまま伝授し続けている聖ピオ十世会の司教様たちを私たちに下さった天主に感謝します。

 私たちは、真のカトリック司教職と 司祭職と その素晴らしい権能が めんめんと、これからの世代も受け継がれ、世の終わりまで、続いていくことができるように、特別の知恵と剛毅と聖寵とをルフェーブル大司教に下さった天主に感謝します。

 そして愛する兄弟姉妹の皆様には、是非、カトリック司祭職をカトリックの聖伝に従って、ローマの神学校で昔なされていた通りの養成を行っている聖ピオ十世会の神学校を是非、愛して応援して下さるようにお願いいたします。エコンを始めとする聖ピオ十世会の6つの神学校、つまり、カトリック信仰に基づくカトリック司祭を養成する神学校のために祈り犠牲をお捧げ下さい。

 エコンの聖ピオ十世神学校のサイトのアドレスは次の通りです。
外国語サイト リンク http://www.seminaire-econe.ch/

 ウィノナの聖トマス・アクィナス神学校のサイトのアドレスは次の通りです。
外国語サイト リンク http://www.stas.org/

 オーストラリアの聖十字架神学校のサイトのアドレスは次の通りです。
外国語サイト リンク http://www.holycrossseminary.com/

 ツァイツコーフェンのイエズスの聖心神学校の最近の写真のアドレスは次の通りです。
外国語サイト リンク http://www.fsspx.info/special/?id=img1116083171
外国語サイト リンク http://www.fsspx.info/special/index.php?page=8&show=&id=img1116083171


 これは聖ドンボスコの見た「夢」に過ぎませんが、聖ボスコはある日、夢の中でペトロの船が多くの攻撃を受けているのを見ました。船が受ける砲撃の弾丸は、すべて本の形をしていました。その攻撃のために教皇様は倒れ姿を見せなくなりました。しかし新しい教皇様が立ち上がると、ペトロの船を御聖体の柱と聖母の柱にしっかりと縛り付け、すると平和になったという夢を見たそうです。

 願わくは、新しいベネディクト16世教皇様が、ペトロの船であるカトリック教会を、もう一度、聖伝のミサと御聖体の秘蹟にしっかり結びつけ、もう一度カトリック教会の聖伝に立ち戻らり、カトリック司祭たちに真のカトリック教会のいけにえである聖伝のミサを無条件で与えますように! そうすることによってもう一度、カトリック司祭とは何か、カトリック司祭とはいかにあるべきか、カトリック司祭は何をなすべきかが自ずと明らかになることでしょう! カトリック司祭たちは、自らのアイデンティティーを取り戻し、カトリック司祭として、ミサ聖祭を敬虔に執行し、多くの霊魂たちを天国に導くようになるでしょう! 

 日本のため、日本におけるカトリック教会のため、またベネディクト16世教皇様、全世界の枢機卿さまと新しい枢機卿たち、司教様がた、神父様がた、修道者の方々のため、心を込めて祈ることに致しましょう!

 至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!
 主よ、我らを憐れみ給え!
 イエズスの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖母マリアよ、我らを憐れみ給え!

 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!
 アルスの聖司祭、我らのために祈り給え!
 聖ヨハネ・ボスコ、我らのために祈り給え!

 日本の尊き殉教者たちよ、我らのために祈り給え!
 聖なるコルベ神父よ、我らのために祈り給え!
 日本で働いておられた聖なる宣教司祭たちよ、我らのために祈り給え!
 天のすべての天使、聖人達よ、我らのために祈り給え!

 主よ、我らを憐れみ給え!!!
 主よ、我らを憐れみ給え!!!
 主よ、我らを憐れみ給え!!!

 天主様の祝福が兄弟姉妹の皆様に豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)