マニラのeそよ風

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第269号 2005/02/14 四旬節第1主日の後の月曜日

ミサ

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、
 ついに、待ちに待った季節がやってきました。先週の灰の水曜日をもって聖なるカトリック教会は四旬節に入りました。兄弟姉妹の皆様は良い四旬節の決心をお立てになったことだと思います。どうぞ、寛大に聖なる時節をお過ごし下さい。

 「聖ピオ十世会の司祭たちに日本に常駐してもらいたい。」 多くの兄弟姉妹の皆様から、度重なるお願い、要請、提案を受けました。感謝! 心から暖かいお気持ちに感謝します。

 また、この機会に、兄弟姉妹の皆様からのお便りやご質問などに感謝したいと思います。お返事が遅れておりますことをお詫び申し上げます。 さらに、私の耳の具合のことでご心配をおかけしております。 「飛行機の搭乗を避けていただけると、私たちは、少しは安心できると思います。どうか考えてみてください。」「小野田神父様の御耳をどうぞ早く御治し下さいの意向でノベナ始めました。」兄弟姉妹の皆様には重ねて感謝申し上げます。耳についていたチューブは11月にお医者様に取っていただいたのですが、疲労があると耳に影響があるようです。クリスマス頃またおかしくなり、1月には日本と韓国のお医者様に看てもらい、またチューブをつけて治療を続けています。兄弟姉妹の皆様は、耳がおかしいなと思われましたら、私のように軽く考えずに、早期のうちに耳鼻科に行かれるようになさって下さい。私ごとをごたごたと述べ、失礼しました。

さて、今回は聖ピオ十世会の総長であるフレー司教様のお手紙を紹介いたします。ごゆっくりどうぞ。

トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)


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聖ピオ十世会総長の
友人と恩人の皆様への手紙 第67号
-- 2004年のクリスマスの祝日にて --

親愛なる友人と恩人の皆様、

 私たちの主イエズス・キリストの待降節を祝う今日このごろですが、願わくは新しくお生まれになる幼子イエズスが祝福で皆様方を覆い給うように。私達は主に、皆様の寛大さと信心に百倍もの報いを下さるようにと祈ります!

 現代において主の御降誕は教訓に満ちています。我らのうちにまします天主、まことの天主、永遠にして全能の、すべてのものの創造主、絶対的主権者は、私達を救うために私達のうちに来られるのです。

 一方で主が私達に与えて下さる手段を勤勉に最善の使い方をして用い、他方では私達はすべてを主から期待しなければなりません。「私がいなければあなたたちは何もすることができない。」「あなたたちが多くの実りを結ぶのは聖父の御旨である。」これらの2つの御言葉は矛盾しているのではなく、互いに補い合っているのです。これらは個人的な努力と天主の聖寵を伴うべき協力を示しています。これらの御言葉は、私たちの主とともになら私達にはすべてのことができること、私達の境遇の如何を問わず、特にこの21世紀という、信じられないような廃退の時において、すべてができると教えています。私達が生きている時代は、多くの人々の志をくじく時代です。天主に対立する反抗は全世界中で、ますます開けっぴろげになり、あからさまになり、冒涜的になっています。カトリック教会は緩慢になり、麻痺して無感覚になり、この新しい大洪水を前にして力がないように見えます。

 かつてなかったほど私達はすべてを信仰の目で見なければなりません。この世に勝つ信仰、戦う勇気を与えてくれる信仰、それをもって悪魔にさえも抵抗するこの信仰の目で、です。Cui resistite fortes in fide. (悪魔に信仰において強く抵抗せよ。)

 私達をして馬草おけにいる新しく生まれた幼子を私達の天主だ、人となった天主の御言葉だ、世の救い主だ、私達に主のためにすべてを賭けることを要求なさる方だ、と認めさせるのは、まさにこの信仰です。Venite adoremus! 来たれ!我らは主を礼拝しよう。

 私達は、この機会を利用して6月にカストゥリヨン・ホヨス枢機卿に私達が送った手紙を皆様にお伝えしたいと思います。この手紙は私達の変わらないローマに対する立場を表明しています。

 願わくは、聖母マリアがこの新年において皆様を保護し給い、終わりまでの忠実(この忠実こそが私達を救うのですから)を私達すべてのために勝ち得てくださいますように。典礼がかくも良く表現しているように、願わくは聖母が皆様を幼きイエズスをもって祝福し給いますように。Nos cum prole pia, benedicat Virgo Maria. (敬虔なる童貞マリアが聖子をもって私達を祝福し給わんことを。)

私達のすべての感謝を込めて、
2004年のクリスマスの祝日にて

+ベルナール・フレー


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聖ピオ十世会
Priorat Mariae Verkundigung Schloss Schwandegg
Menzingen, ZG, CH-6313 SWIZTERLAND
+メンツィンゲンにて、2004年6月21日

カストゥリヨン・ホヨス枢機卿閣下

いとも尊敬すべき枢機卿様、 12月30日付けの枢機卿様のお手紙、同意の新しい提案を添えた挨拶の手紙を私達は確かに受け取りました。お返事をするのに時間がかかりましたが、それはこの手紙で私達はしばらく当惑したからです。非常に率直にお返事することをお許し下さい。これこそが進展への唯一の方法だからです。

私達は、私達を助けようとする枢機卿様の努力と教皇様の努力とを敏感に感じ取っています。私達は、枢機卿様からのこの提案を確かに非常に寛大なものだと思います。それに従って、私達は私達の態度と答えが理解されていないのではないかとおそれています。私達が、私達の話し合いの最初に2つの条件が満たされることを要求したとき、そして私達がその要求を何度も繰り返したとき、私達は自然で必要な従うべき順序を単に示していただけなのです。つまり橋の上に道を造る前には、その基礎をおかなければなりません。さもなければせっかく作ろうとしたものは失敗に終わると決まっているからです。私達は、いくつかのステップを踏まずにどうして承認に至ることができるか分かりません。

これらのステップのうちで最初のものは「破門」の教令を撤去すること(注:つまり、教令が無効であることを宣言すること。何故なら、後のこれに続く段落でフレー司教が指摘するように、1983年のカトリック教会法典はルフェーブル大司教もデ・カストロ・マイヤー司教も、聖ピオ十世会の聖別された司教達もいかなるカトリック教会法典による刑罰を受けていないと言うことが明らかだからである。)だと私達には思われます。正教会に適応されている破門は、彼らの聖座に対する態度が全く変わっていないもかかわらず撤去されました。私達に対しても何か同じようなことをするのはできないのでしょうか。何故なら私達は、第1バチカン公会議によって定義された通り教皇様を認めてきましたし、教皇様の権威から決して離れたことがないからです。1988年の私達 の司教聖別の時、私達(注:「私達」とは、聖ピオ十世会の4名の司教達の聖子とを指している。すなわち、フレー司教、ティシエ・ド・マルレ司教、ウィリアムソン司教、デ・ガラレッタ司教のことである。)は聖座に対する忠誠の誓いを立てました。私達は常に私達が聖座と教皇様とに固執していることを表明してきました。私達は(カトリック教会とは別の)パラレルな位階制度を立てる意向が全くないことを示すためにありとあらゆる種類の手段を執り続けてきています。離教という告発から私達を洗い清めるのはそれほど難しくないはずです。

司教職の受けたことの刑罰に関しては、1983年のカトリック教会法典は、誰かが主観的な必要性に基づいて行為した場合、最高刑は適応されないとしています。たとえ聖座が客観的な必要性の状態が存在していることを認めたくないとしても、聖座は少なくとも私達はこのような見方をしているということを認めなければなりません。

そのようなことこそがローマの側の現実的な提案として認められ、進歩のために必要な新しい環境が作られることになるでしょう。

同時に、聖ピオ十世会は、類比的にアド・リミナの報告とも呼べるようなものをすることになるでしょう。聖座は、しばらくの間、両者からのいかなる約束もないまま、私達を観察し私達の発展を調査することができるでしょう。

枢機卿様が私達にサインするように要求した文章に関して言えば、私達が受け入れることのできないそして私達をとても不安にさせるいくつかの条件が前提となっています。

提案は、私達が有罪であること、そしてこの罪が私達をして教会から乖離させたと言うことを前提としています。これを償うために、そして私達の正当性を証明するために、それは私達が、一種の制限された信仰宣言(第2バチカン公会議と新しいミサのこと)をすることを求めています。

私達の司祭たちと信徒たちのほとんどは、直接に異端に直面してきました。そしてしばしば自分たちの司牧者たち、つまり司教と司祭たちから来る重大な典礼上の躓きに直面してきたのです。私達の運動の全歴史は、今日まで続くこの種の出来事の悲劇的な連続によって印されています。同じ経験をした修道者、神学生、司祭たちも私達に加わっています。正当な刑罰や罪の悔悛を厳しく要求することはできません。何故なら、司牧者達によって捨てられ、彼らによって裏切られて、孤立し、私達は洗礼の時の信仰を保とうと立ち上がったのであり、あるいは天主の御稜威に不名誉を与えないために立ち上がったのだからです。1988年の司教聖別が起こったその悲劇的な文脈を考慮しないで、これを分析することは不可能なことです。これを考慮に入れなければ事態は全く理解不可能なものとなり、正義はその当然さをもはや失うからです。

さらに私達の地位は譲歩によって与えられる、私達に「特別のカリスマ」にふさわしい状況が私達に特別に与えられる、とよく言われます。

私達が固執しているのはローマ・カトリック教会の共通の遺産であるということを思い出さなければならないのでしょうか?私達は、特異な印としての特別な地位を求めているのでも願っているのでもありません。私達は教会における「普通の」場所を求めています。トリエント・ミサが特別な譲歩であると考えられている間は、私達は不安定で疑わしい立場で脇に追いやられたまま残ります。まさにこの観点において、私達は決して失っていない権利、つまりすべての人にとってのミサの権利を要求しているのです。この権利を特別許可(ローマのある人々によれば条件付きの特別許可)に引き下げることは、既にこの権利を減少させることです。

聖伝のにおいがするものは全てにすぐさま疑いがかけられる現在の状況で、私達はローマ行政組織において私達の利益を保護して擁護する人を持つ必要があります。それはエクレジア・デイの場合のような聖伝に関することのために聖座の代表を立てるというよりは、むしろローマにおいて聖伝の立場を代表する者を立てるということです。この機関にいくらかの信憑性を持たせるために、そしてその目的に対応させるために、これはカトリックの聖伝に属するメンバーで構成されていることが重要になります。

最初にこれらの原理の疑問に答えることなしに「承認」を達成させるということは、提案された「実践的な同意」が失敗に終わることを運命づけることです。何故なら、私達は明日も、私達が今日そうであるのと同じカトリックの聖伝に対する忠実さをもって行動しようと期待しているからです。

私達がこれらの疑問を取り上げるのに率直さを維持しようと望んだのは(傲慢とか、あるいは愛徳の欠如とかという問題ではなく)、私達が過去に排斥されたように、明日排斥さえるかもしれないからです。

洗礼の時キリスト者の霊魂と教会との間に契約が結ばれています。「あなたは教会に何を求めますか?」「信仰を」 これこそ私達がローマに求めるものです。ローマが私達を信仰において、常に変わらぬ永遠の信仰において固めることを。私達にはこのことをローマ当局に求める厳格な権利があります。ローマが、天主の神殿を侵略し、信仰をくらませ、公会議と公会議に続く改革という覆いの下に教会の超自然的な生命を麻痺させている雲を晴らす具体的な意向を見せてくれるまで、私達は本当に「承認」まで進歩することができるとは信じていません。

この手紙が現在の無力を克服するために貢献することを期待しつつ、私達は枢機卿様が聖にして母なる教会のこの重大なときにおいて重い職務を全うされますように日々の祈りを捧げていることを保証いたします。

+ベルナール・フレー


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