マニラのeそよ風

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第250号 2004/09/21 福音史家使徒聖マテオの祝日

マタイ

アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 今回は「マニラの eそよ風」250号で、銀祝を祝うような気持ちでお送り致します。

 今年の5月、東京でミサ聖祭の後に、皆さんとお昼をいただいているときにメルギブソンの映画「パッション」の話しでいっぱいでした。その時モアさんからお薦めの映画はありますか、との質問を受けました。私は映画とはあまり縁がなかったのでその時には何とも答えられませんでした。その後、シンガポールで、幾つかの映画を知る機会があり、今回、250号ということで、2つの作品をご紹介します。


 1つは「カルメル会修道女の対話」です。

 映画『カルメル会修道女の対話』(Les Dialogues des Carmelites)は、ゲルトルート・フォン・ル・フォールの小説『処刑台に立つ最後の女性』(Die Letzte am Schafott)に基づいて、フランス人作家ジョルジ・ベルナノス Georges Bernanos (1888年生-1948年没)が台本を書き、それが映画化されたものです。

ゲルトルート・フォン・ル・フォール(1876年―1971年) ゲルトルート・フォン・ル・フォール(1876年生―1971年没)(写真右)は、ドイツのウェストファリアに生まれ、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で勉強しました。彼女の家系は、16世紀にフランスのサヴォアからスイスのジュネーブへ更に北ドイツに定住するに至ったユグノー派のプロテスタントでした。しかし彼女は1925年ローマでカトリックに改宗し、こうして幼少の時から母親から教え込まれた宗教の「本当の故郷をカトリック教会のなかに見いだした」と言います。「改宗者の本当の体験は、・・・自分の最も固有な宗教的財産、つまりプロテスタントの中核的なキリスト教的な信仰内容が、母なるカトリック教会の胎内から生まれ出たものであるとともに、その胎内において保存され、安全に守られているのだと言うことを知った子供の体験」とも言っています。

 ゲルトルート・フォン・ル・フォールの小説『処刑台に立つ最後の女性』は、フランス革命を舞台とし、生まれたときから苦悩と恐れのうちに生きる若い女性ブランシュ・ド・ラ・フォルスの物語になっています。

 主人公のブランシュは、自分の姓「力の(ド・ラ・フォルス)」にも関わらず、極端に弱々しく、不安に怯えている女性ですが、この恐れを乗り越えるためにカルメル会修道女になることを決意しコンピエーニュ(Compiegne)にあるカルメル会に入会、いえ、もっと正確に言うとカルメル会の修道院の壁の中に逃避します。カルメル会とは、修道院の外に出ることなく、祈りと犠牲による罪の償いという観想修道生活をする犠牲の霊魂たちの修道会です。

 しかし、聖なる修道院といえども、恐怖から世俗の世界よりもよく守られている、というわけではありませんでした。それは歴史のいたずらによって更に大きくさえなったのです。何故なら、ブランシュが修道女になると間もなくフランス革命が起こり、反キリスト教的な憎しみのため、修道生活は革命政府によって禁止され、数ヶ月のうちに多くの司祭や修道者らがギロチンで死刑を受けたからです。

 コンピエーニュのカルメル会の修道院長は、フランス革命の罪を償うために、殉教の誓願を立てることを他の修道女らに提案しその是非を問うたところ、修道女たちによる秘密投票の結果、全員一致で殉教の誓願実行は可決されます。その後、修道女らは革命政府によって逮捕されるのですが、ブランシュだけは恐ろしさのあまり1人でパリにいる父親の元に逃げます。修道院長は脱走したブランシュを探してパリで再会し励ますのですが、ブランシュには勇気がないように見えます。そうこうするうちにブランシュの父親は、カトリック信仰のために革命政府に殺害され、ブランシュは1人残されます。修道院を脱走した後に、絶対的に捨てられたように思えたのでした。

 一方、残りのコンピエーニュのカルメル会修道女たちは副修道院長を中心に、革命政府の裁判で死刑の判決を受け、パリの広場で「聖霊来たり給え!ヴェニ・クレアトル!」の聖歌を歌いつつ、革命の罪の償いのいけにえとして、1人1人、ギロチンの刃によって命を落としてゆきます。コンピエーニュのカルメル会修道院長は、英雄的な殉教を願望し処刑される修道女たちの群れに加わりたく思い、ギロチンのもとに行こうとするのですが、院長をかくまう友人によって遮られ、「革命が終わったらカルメルを再建するために殉教してはいけない」と言われ断念せざるを得なくなります。自分の姉妹である修道女たちが1人1人断頭台に上るのを祈りつつ、自分だけは殉教できずにいる修道院長が見た、最後のギロチンの犠牲者とは・・・?

 歴史的事実は次の通りです。

 革命裁判は1790年10月29日、誓願を立てることを一時的に禁止し、1791年2月13日には決定的に禁止。1790年8月に革命委員会は修道院を立ち入り検査、修道女らを尋問し、1791年8月15日に修道服の着用を禁止します。1792年6月と9月の間に修道院長である、御托身のマリア修道女は償いの誓願(=殉教の誓願)を立てることを他の修道女らに提案します。

 1792年9月12日修道院は没収され、修道女たちは4つのグループに離ればなれになります。1794年4月殉教の誓願を提案した修道院長はパリに逃げ生き延びますが、その他のカルメル会修道女らは1794年6月22日に逮捕されます。

 革命政府の裁判で死刑の判決を受けた修道女たちは、罪の償いのいけにえとして、1794年7月17日、断頭台の花と散っていきます。10日後に、彼女らの祈りといけにえが嘉納されたかのように、ロベス・ピエールの死によって恐怖政治が幕を下ろします。(ちょうど長崎の天主堂で祈っていたカトリック信者たちを、原爆がいけにえとして奪った6日後に戦争が終わったことを思い出させます。)

 映画の中の登場人物は、ブランシュ以外みな歴史上の実在の人々です。例えばブランシュと一緒にカルメルに入会したことになっているコンスタンス修道女は、実在の女性でした。(コンスタンス修道女についての伝記が最近フランスで出版されました。)ゲルトルート・フォン・ル・フォールは、ブランシュを自分の生き写しとして創作したのかもしれません。ブランシュの名字であるドゥ・ラ・フォルスとフォン・ル・フォールとの類似もそれを物語っているようです。

 フォン・ル・フォールは、第2次世界大戦中、ナチを憎んでいましたが、その経験がこの小説を書かせたのでしょう。「ブランシュの姿は、来るべき運命を予感させる黒雲が既にドイツの上に立ちこめていた時代の深い恐怖から生まれ出た。これはいわば終末に向かっている一時代全体の死の不安の具現として、私の目の前に現れた」と彼女は言っています。

 「カルメル会修道女の対話」はオペラもあり、次のウェッブ・サイトをご参考下さい。

「Opera "Dialogues of the Carmelites" by Francis Poulenc プーランクのオペラ カルメル会修道女の対話」
http://homepage3.nifty.com/gl400/carmelites/carmelites.htm

「オペラ座の夢の夜」
link http://homepage2.nifty.com/aine/opera/opera25.htm

(オペラでは、「ヴェニ・クレアトル」の代わりに「サルベ・レジナ」を歌うことになっているようですが、オペラでもブランシュが最後に歌う部分だけは、「ヴェニ・クレアトル」の最終節です。)

 この映画は、私も前半のさわりと後半を見る機会が与えられましたが、カルメル会の罪無き殉教者たちの殉教の場面はとても感動的でした。


 もう1つの映画は「葛藤」The Conflictです。

 これは、新しいミサがこの世に現れて直後(1973年)に作られた映画で、マルティン・シーンの演ずる新世代の司祭、キンセラ神父が、アイルランドの海に浮かぶ孤島のある修道院を視察するためにローマから派遣されます。この孤島の修道院では、修道士たちは昔のままの聖伝のミサをしており、聖伝の信仰を保っていたのでした。キンセラ神父は修道院長に、ローマからの命令で新しいミサをするように、修道生活を新しいやり方に改革するようにと伝えます。キンセラ神父によると、ローマはつい最近、御聖体がイエズス・キリストの体であると信じなくても良い、と宣言したというのです。 修道士たちは昔のままの修道生活を望むけれど、「従順」の名前によって改革を強制されます。問題は、修道院長であり、彼は信仰を失っており、神学と信仰に基づいてというよりも、マーケティングに基づいて聖伝のミサを守っていたにすぎない人だったのです・・・。

 修道士らとキンセラ神父との対話や発言、また修道院長の発言と態度は非常に考えさせるものでした。

 「従順」といえば、先日或る方からお手紙をいただきました。手紙を下さった方は今年の聖霊降臨の日は、映画パッションを見て来たこと、「すごい音響と鞭打ち、十字架の道行きのむごたらしい刑と、祭司の一言に無意識に従う愚かなユダヤの民衆の姿に、今の時代・・・暴徒化する人々の愚行に思い合わせて恐ろしくなりました」とのことです。


 今回はここまでにいたします。

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)