マニラのeそよ風

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第225号 2004/03/09 四旬節第2週の火曜日

SSPX, Detroit
SSPX Saint Anne's Church

 カトリック教会の中以外では誰も救いを見いだすことが出来ない。カトリック教会以外において、人は全てを見いだすことができるが、救いはそうではない。
(聖アウグスティヌス、チェザリアの人々への第6説教より)

アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 3月7日には、私は兄弟姉妹の皆様から多くの励ましとお祝いのメッセージを戴く喜びを得ました! 兄弟姉妹の皆様の暖かいお言葉を感謝に溢れて胸の奥にしまいました。兄弟姉妹の皆様のいつも変わらない祈りとご信頼の念に深い感謝を申し上げます。

 多くの兄弟姉妹の皆様が四旬節を聖なるものとして過ごされていると言うことを知り、私はますます励まされました。

 私たちの罪を赦すために人となり、苦しまれた、私たちの主イエズス・キリスト。殴られ、叩かれ、罵られ、打擲(ちょうちゃく)され、不正に取り扱われ、それでも絶えず赦し給う私たちの主イエズス・キリスト。虐められ、なぶりものにされ、残酷・非道な仕打ちを受ける私たちの主を目の当たりにされて、絶えいるばかりに苦しまれ給う、聖母の汚れ無き御心。

主よ、我らを憐れみ給え!
主よ、私たちの同胞、兄弟姉妹の日本国民を、主の聖心に引き寄せ給え!
天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

 さて、今回も聖ピオ十世会が枢機卿様たちに提出した、聖ピオ十世会『エキュメニズムから静かな背教へ -教皇在位の25年―』(メンツィンゲン2004年)の日本語訳の続き(第2章)をご紹介致します。


聖ピオ十世会
エキュメニズムから静かな背教へ
-- 教皇在位の25年 --
メンツィンゲン2004年

第2章
エキュメニズムによって引き起こされた教義上の問題 [63]


17.この教皇職のエキュメニズムの実践は、キリストの教会とカトリック教会という区別の上に成立している。この区別によって、たとえ目に見える一致が教会的な分裂によって傷つけられたとしても、諸聖人の交わりは、キリストにおける共通の交わりにおける霊的善の分かち合いとして考えられ、壊されなかったとされる。しかし上記のことはカトリック信仰の前に成り立たない。


キリストの教会はカトリック教会である

18.現行のエキュメニズムの実践が前提としているように、キリストの教会とカトリック教会とは区別できない。現実的にカトリック教会と区別されたこの「キリストの体としての教会」は、内的現実であると考えられているという正にその事実によって、「天主の目にのみ見える、しかし私たちの目には見えない教会[64]」というプロテスタントの概念と結びつく。これは、教会の常なる教えに反対するものである。レオ13世は教会について語り、例えば次のように言っている。「教会が体であるので、教会は私たちにとって目に見えるものである。[65]」ピオ11世も同じ事を言っている。「私たちの主であるキリストはご自分の教会を完全な社会、本性によって外的であり感覚でとらえることが出来るものとして確立した。[66]」ピオ12世はこう結論している。「私たちが見ることも触れることも出来ず、単に霊的なもの(pneumaticum)でしかない教会、そして多くのキリスト教共同体が、信仰を異なるものとしつつも見えない絆によって一緒になっているような教会を想像することは、天主の真理から遠ざかることである。[67]」

19.カトリック信仰は、従って、キリストの教会とカトリック教会とが同一のものであることを断定しなければならないとしている。これこそピオ12世が「イエズス・キリストの神秘体」と「聖なるカトリック、使徒継承、ローマの――イエズス・キリストの真の教会[68]」とが同一ものであるとして断定したことである。ピオ12世以前には、教導権は「唯一ペトロの上に建てられ、肢体が繋がり全体としての体[即ち « 目に見えるもの » としての]として、信仰と愛徳の一致のうちにそそり立っている教会以外のいかなる教会も無い[69]」と断言していた。ピオ9世の宣言を思い起こそう。「私たちの主イエズス・キリストによって建てられ創立された真理にして聖なる唯一の宗教しか存在しない。これこそ母にして、諸徳を養い悪徳を根絶させ、霊魂を解放し、真の幸福を指し示す教会である。この教会は使徒継承のローマカトリック教会と呼ばれている。[70]」常なるそしてどこででもそうである教導職に従い、第1バチカン公会議の第1準備草稿はこの排斥典文を提案していた。「もし誰かが『天主の約束を与えられている教会は、信者たちの外的で目に見える社会(coetus)ではなく、救いを予定された者たちの、或いは天主にのみよって知られている義人たちの霊的社会である』と言ったとすれば、彼は排斥されよ。[71]」

20.このことの結論として、カスパール枢機卿による「教会の――キリストの体としての教会の――真の本性は、隠れており、信仰によってでしか把握され得ない。[72]」という命題は確かに異端的である。これに「この信仰によってのみ把握されうる本性は目に見える様々な形で、宣言された御言葉において、秘跡の執行において、キリスト者の役務と奉仕において、実現する。[73]」と付け加えることは教会の可視性を言うには不十分である。単純な行為によってますます「目に見えるようになる」ということは、「可視的である」ということではないからである。


三重の一致による教会への所属

21.キリストの教会がカトリック教会であるということから、エキュメニズムの賛同者と共に「信仰と秘蹟と位階制度との交わりは教会の目に見える交わりのためだけに必要である」と言うようなことは出来ない。何故ならこのことは「これらの絆のうちの一つでも欠けていることは、教会の目に見える交わりとの断絶を明らかにするのだが、たとえそうであっても教会との生命的な分離を意味するわけではない」という意味で考えられているからである。反対に「この3つの絆は、その内の一つが教会と結びつけるという意味ではなく、これら3つの絆のうちのただ一つでも現実に或いは少なくとも望みにおいて(in re vel saltem in voto)[74]欠けていたとすれば、それを欠く人は教会から離れ超自然の命を享受できないという事実から、これらの3つの絆は教会の一致を構成する要素である」といわなければならない。これこそが、カトリック信仰が私たちをして信じるようにさせることであり、それは今から述べることが証明することによってもそうである。


信仰の一致

22.信仰が必要であることは皆が認めることである[75]が、救いのために必要な、従って教会に属するための構成要素であるこの信仰の本性を正確に述べなければならない。この信仰は聖ピオ10世が告発したような「天主的なものの必要から生まれた内密な感情[76]」ではない。そうではなく第1バチカン公会議によって描写された信仰である。すなわち「天主の聖寵の息吹のうちにその助けをもって、私たちが天主によって真理であると啓示されたことを信じる超自然の徳、私たちは、私たちの理性の自然の光において見られた物事の内属的な真理のために信じるのではなく、これらの真理を私たちに啓示し給う天主、間違えることも私たちを騙すこともありえない天主の権威の故に信じるのである。[77]」それ故に、啓示されたものとして知られた信仰の真理を一つであろうとも拒否するものは、救いのために必ず必要な信仰を全て失うのである。「たとえたった一つの点についてであっても天主によって啓示された真理に同意することを拒むものは、信仰を現実に全く失う。何故なら彼は、最高の真理であり信仰の固有の動機としての天主に自分を従わせることを拒むからである。[78]」


統治の一致

23.「ご自分の教会において常にこの信仰と教義の一致を維持するために、主は全ての人々の中から一人の人間、ペトロを選ばれた。[79]」このようにしてピオ9世がペトロの座との一致の必要性、つまり「天主が立てた私たちの宗教が、全ての時代の教父たちと公会議とを通して一つの心、一つの声によって、常に説教し、擁護し、断定している教義」を紹介している。教父たちに続いて同じ教皇ピオ9世は「天主との一致への全ての権利が由来するのは、それ[=ペトロの座]からである[80]。・・・これから離れるものは教会において留まることを期待することが出来ない[81]。天主の子羊をこの外において食するものは、天主と共にするものを持たない。[82]」ここから聖アウグスティヌスが離教者たちに対して言った有名な言葉が出た。「あなたたちのものは、あなたたちが不敬虔なことにも私たちから離れたことである。何故ならもしも、その他の全てのことについて、あなたたちの離教において保持しつつあなたたちが真理を考え、持っていたとしても・・・愛徳を持たないものが欠くものをあなたたちは欠いている。[83]」


秘跡の一致

24.「信じて洗礼を受けるものは救われるだろう[84]。」この私たちの主のみことばを通して、教会の一致を構成するために、信仰と目的の一致との他に、「目的を到達するにふさわしい手段の共通性[85]」の必要性を皆が認めている。すなわち秘跡である。これこそが「生ける天主の唯一の住まいとして[キリストが建て]その御血によって獲得し給うたカトリック教会、唯一の聖霊によって生かされ活動力を与えられ、信仰と希望と会特区との一致により、秘蹟と礼拝と教義の絆により堅固さと和睦において維持されている唯一の体[86]」である。


結論

25.この三重の絆の必要性のために、私たちは「私たちの主の命令によれば、『教会のいうこともきかないなら、もうその人を、異邦人か税吏のように考えてよい』(マテオ18:17)そして信仰或いは統治の理由によって分離している人々は、この同じ体において生きることは出来ない。従ってこの同じ天主の霊によって生きることも出来ない[87]。」


教会の外に救い無し


カトリック信者でない者は、教会の一員か

26.上記に述べたことの結論として、次の命題「[カトリック教会の外に生まれ、『分裂の罪を負わせることはできない』]キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。」それは「信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められる」程であり、それは「教義において、ときには規律の面においても、あるいは教会の構造に関して、かれらとカトリック教会との間に存在する種々の相違のために、完全な教会的交わりを妨げる障害が少なからずあり、ときには重大なものがある」にもかかわらず、である[88]、を注意深く考察しなければならない。もしもこの命題が、これらの種々の相違について知りつつもその相違に留まる人々について語っているのなら、これはカトリック信仰と反している。「分裂の罪を負わせることが出来ない」という語句は少なくとも軽率無謀である。外的に分裂の内に留まるかぎり、自分の前任者たちの分裂に同意しないと示すものが何もないのであり、外部に見えることはその反対の意志を示している。善意を前提とすることはここでは出来ない[89]。ピオ9世も同じ事を私たちに想起させている。「使徒継承のローマ教会の外ではだれ一人として救われることが出来兄という信仰を認めなければならない。・・・ただし、他方で、確実に真の宗教に関して打ち勝つことの出来ない無知の中にいる人々は主の御前でその罪を彼らに帰すことが出来ないと言うことも認めなければならない。ところで現在、この無知の境界を記すまでの前提に、一体誰が真実に行くであろうか[90]。」


離れた共同体において聖化と真理の要素が存在するか

27.カトリック教会の外にも「聖化と真理の要素[91]」が数多く見いだされる、という言い方は曖昧である。この命題は離れた共同体において物理的に(materialier)存在する救いの手段が聖化の効力を持っていると言うことを前提としている。しかしこのことは区別無しに一概に肯定することは出来ない。これらの要素の内、幼児洗礼のように主体の側からの特別な準備態勢を必要としないものは、これらの要素が洗礼を受けた霊魂において聖寵を効果的に生み出し、彼がその時、個人的な選択の年齢に達するまでという限りにおいて完全な権利を持ってカトリック教会に属するという意味において効力的に救いの力を持っている[92]。効果を発するために主体の側からの態勢を要求するその他の要素については、主体が既にその暗黙的な望みによって教会の一員となっている限りにおいてのみ、これらが救いの力をもたらすと言わなければならない。これが諸公会議の教えが断言することである。「教会の神秘体の一致は、教会の諸秘跡が教会において留まる者たちにとってのみ救いのために有効である程の権能を持っていると、キリスト教会は宣言する[93]。」ところで、離れたものとしてある限りにおいて離れた共同体は、秘跡を実り豊かなものとしてくれる唯一のこの暗黙の望みに反対する。これらの離れた共同体が聖化と真理の要素を持っているとは、物理的な意味(materialiter)のみにおいてでなければ言うことが出来ない。


聖霊はこれらの離れた共同体を救いの手段として使うか?「姉妹教会」という表現は?

28.「キリストの霊はこれらの[分かれた諸]教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しない[94]」と言うことは出来ない。聖アウグスティヌスはこう断言している。「一つの教会しかなく、この教会のみがカトリックと呼ばれている。その一致から離れた共同体において、それを誰が所有しているかに関わらずカトリック教会の所有物として留まるものの力によって、生み出すのはカトリック教会である[95]。」これらの離れた共同体が、自分に固有の力で実現することの出来る唯一のことは、やはり聖アウグスティヌスが指摘しているように、教会の一致からこれらの霊魂たちを分離させることである。「それ[洗礼]はあなたたちのものではない、あなたたちのもの、それは悪い感情と涜聖的な実践を持っていることであり、私たちから不敬虔にも離れたことである[96]。」離れた共同体が、カトリック教会が救いの手段の唯一の持ち主であるということを疑問視する限りにおいて、第2バチカン公会議の文書の命題は異端に近い。もしも、これらの分かれた諸教会と諸教団に「救いの秘義における意義と重要性[97]」を認めることによって、これらの共同体に正当性に近いものを承認していたとするなら――「姉妹教会[98]」という表現はそのように理解されているが――、この命題はカトリックの教えと反対を行くものである。何故ならこの命題はカトリック教会の唯一性を否定するからである。


私たちを一致させるものは、私たちを離すものよりも大きいか?

29.この命題は、これらの全ての要素が彼らを唯一の群れのもとに連れ戻すための話し合いの基礎として使うことが出来るという意味において、物理的には(materialiter)正しいものとして留まる。しかしこれらの離れた共同体は、聖化と真理の要素を十全な意味で(formaliter)所有しているものではない(そしてこのことは既に上で述べられた)のであるなら、「カトリック信者たちを離れた者たちと一致させるものは、彼らを離すものよりも大きい」という命題は、十全な意味で(formaliter)真ではありえない。それ故に聖アウグスティヌスは「多くの点で彼らは私と共にいる、彼らが私とともにいないのはいくつかの点だけのことである。しかし、彼らを私と離すこのいくつかの点の故に、その残り全てにおいて私と共にいたとしても、全く彼らの役には立たないのである[99]。」


結論

30.エキュメニズムは教導権によって排斥された「樹枝神学説[100]」に近づくことしかできない。「その基礎は、・・・教会が天主により創られたということを根本から覆すようなものである」そして「異端によって深く汚され感染された意向」に従ってなされる一致のための祈りは「黙認することは絶対的に出来ない。[101]」


***<注>********************************

[63] Nous limitant ici a la seule refutation de l’oecumenisme, nous n’etudierons pas l’enseignement de Jean-Paul II relatif a la redemption accomplie de fait en chaque personne et en chaque peuple. Nous dirons simplement qu’une telle proposition est totalement etrangere a la foi catholique et la ruine de fond en comble (que devient par exemple la necessite du bapteme ?).

[64] カルヴァン Inst., l. 4, c. 4.

[65] レオ13世回勅『サティス・コニトゥムSatis Cognitum』 DzH n° 3300 ss

[66] ピオ11世、回勅『モルタリウム・アニモスMortalium animos』AAS 20 (1928), p. 8.

[67] « C’est s’eloigner de la verite divine que d’imaginer une Eglise qu’on ne pourrait ni voir ni toucher, qui ne serait que « spirituelle » (pneumaticum), dans laquelle les nombreuses communautes chretiennes, bien que divisees entre elles par la foi, seraient pourtant reunies par un lien invisible. » ピオ12世、回勅『ミスティチ・コルポリス Mystici Corporis』AAS 35 (1943), p. 199-200.

[68] ピオ12世、回勅『ミスティチ・コルポリス Mystici Corporis』Ibid., p. 199.

[69] « il n’y pas d’autre Eglise que celle qui, batie sur Pierre seul, en un corps joint et assemble, se dresse dans l’unite de la foi et de la charite. » Lettre du Saint-Office aux eveques d’Angleterre du 16/09/1864, DzH n° 2888.

[70] « Il n’y a en effet qu’une seule religion vraie et sainte, fondee et instituee par le Christ Notre-Seigneur. Mere et nourrice des vertus, destructrice des vices, liberatrice des ames, indicatrice du vrai bonheur ; elle s’appelle : Catholique, Apostolique et Romaine. » ピオ9世 Allocution au consistoire du 18/07/1861, Enseignements pontificaux de Solesmes, L’Eglise, vol. 1, n° 230.

[71] « Si quelqu’un dit que l’Eglise, a qui ont ete faites les promesses divines n’est pas une societe (coetus) externe et visible de fideles, mais une societe spirituelle de predestines ou de justes connus de Dieu seul, qu’il soit anatheme. » 1er schema preparatoire du concile Vatican I sur l’Eglise, canon 4.

[72] « La veritable nature de l’Eglise – l’Eglise en tant que Corps du Christ - est cachee, et elle n’est saisissable que par la foi. » (カスパール枢機卿、2002年3月23日フランスのプロテスタント連合の全体会議においてなした講話「カトリック教会のエキュメニカルな取り組み」Oecumenisme informations n° 325 (05/2002) et 326 (06/2002)より)

[73] カスパール枢機卿、同上

[74] 私たちは繰り返すが、この三重の絆は事実上、或いは「無意識のうちの望み、或いは願いによって」(ピオ12世、回勅『ミスティチ・コルポリスMystici Corporis』 AAS 35 (1943), p. 243. DzH 3821参照)持つことが出来る。しかしこの望みについては、教会はその審判者ではない。審判に関しては、正にここではそれが問題となっているが、教会は個々人の良心の内にある内的な現実を裁くことが出来ない。教会が判断するのは外部に見えるものだけである。「精神状態と意向は、これらが内的なものであるが故に、教会は裁かない。ただし、外部に現れる限りにおいて、教会はそれらを裁かなければならない。」(レオ13世、1896年9月13日の使徒的書簡『アポストリカ・クラApostolica cura』ASS 29 (1896-1897), p.201. DzH 3318)この時、良き母として司牧上、彼らが死の危険に陥っている時にカトリック教会が彼らに近づく場合は、「少なくとも無意識の望み」によって彼らがカトリック教会に属していることを希望するように傾いている(Dom. M. Prummer, o.p., Manuale theologia moralis, T. 1, n° 514, 3)が、しかし教会法上では、通常の時は、カトリック教会は好む意識の望みを前提としない。それ故に、教会彼らがカトリック教会に戻ってくる場合、念のために(ad cautelam)、彼らが以前の離教或いは異端を誓って放棄することを常に求めた(Cf. CIC 1917, can. 2314, § 2)。いわんや、教会は、カトリック教会から目に見えて離れた共同体として団体を構成していると考えられる教会を離れた人々の善意を前提しない。しかしエキュメニズムはこのことを前提とするのを基礎としている。カトリック教会に属するために必要とする3つの要素について私たちが述べることは、上に述べたことを前提としている。これを省略しようと望むことは、不確かで非現実的なことへと動くことである。

[75] ヘブライ11:6「信仰がなければ、天主によろこばれることはできない。」

[76] 聖ピオ10世、『パッシェンディ・ドミニチ・グレジスPascendi dominici gregis』には近代主義を描写してこう言う。「全て宗教の土台にして基盤である信仰は、天主的なるものへの必要性によって生み出された、ある種の内的感覚に存する・・・。この感覚にこそ、近代主義者たちは信仰の名を与えるのであり、これこそ彼らは宗教の始原と見なしている。」 (Acta S. Pii X 4 (1907), p. 52 ; DzH 3477には一部しか引用されていない。) この短い描写は、カロル・ウォイティワ枢機卿(『反対をうけるしるし』エンデルレ書店1980年25-26ページ)の考えと比べてみなければならない。「どこまでも尊厳な神。トラピストやカルトジオ会士は、沈黙の生活をつらぬいて、この神をあがめる。砂漠の遊牧民は、祈りの時間にこの神に祈る。仏教僧も、ニルバナ(涅槃)に心を向けて身を清める。しかしニルバナに向かうだけであろうか。・・・生ける神の教会は、まさに教会内に、人間精神の驚嘆すべく基本的なこの超越性にどのような方法である参与する人々を集める。何故なら、教会は、人間精神の最深のあこがれは、どこまでも尊厳な神によるほか、しずめられないことを知っているからである。」« Dieu de Majeste infinie ! Le trappiste ou le chartreux confesse ce Dieu par toute une vie de silence. C’est vers lui que se tourne le bedouin peregrinant dans le desert quand vient l’heure de la priere. Et ce moine bouddhiste se concentre dans sa contemplation qui purifie son esprit en l’orientant vers le Nirvana : mais est-ce seulement du cote du Nirvana ? [...] L’Eglise du Dieu vivant reunit justement en elle ces gens qui de quelque maniere participent a cette transcendance a la fois admirable et fondamentale de l’esprit humain, car elle sait que nul ne peut apaiser les plus profondes aspirations de cet esprit si ce n’est lui seul, le Dieu de majeste infinie. »

[77] 第1バチカン公会議、第3総会 c. 3, DzH n° 3008.

[78] レオ13世、1896年6月29日の回勅『サティス・コニトゥムSatis cognitum』ASS 28 (1895-1896), p. 722. Enseignements pontificaux de Solesmes, L’Eglise, vol. 1, n° 573.

[79] ピオ9世、1862年4月8日の回勅『アマンティッシムスAmantissimus』 Enseignements pontificaux de Solesmes, L’Eglise, vol. 1, n° 234, puis 234 a 237.

[80] 聖アンブロジオepist. 11 ad imperatoresを参照

[81] 聖チプリアノde Unitate Ecclesia参照

[82] 聖イェロニモepist. 51 ad Damasum参照

[83] 聖アウグスティヌス83. de baptismo contra donatistas, lib. 1, ch. 14, § 22.

[84] マルコ16:16

[85] レオ13世、回勅『サティス・コニトゥムSatis cognitum』ASS 28 (1895-1896), p. 724. Enseignements pontificaux de Solesmes, L’Eglise, vol. 1, n°578.

[86] ピオ9世、1862年4月8日の回勅『アマンティッシムスAmantissimus』 Enseignements pontificaux de Solesmes, L’Eglise, vol. 1, n° 233.

[87] ピオ12世、回勅『ミスティチ・コルポリスMystici Corporis』AAS 35 (1943), p. 203. DzH 3802.

[88] 第2バチカン公会議、『エキュメニズムに関する教令』3番「しかし、現在そのような諸集団の中に生まれ、キリストの信仰に育てられた人々に、分裂の罪を負わせることはできない。カトリック教会はかれらを兄弟に対する尊敬と愛をもって抱擁する。事実、キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。言うまでもなく、教義において、ときには規律の面においても、あるいは教会の構造に関して、かれらとカトリック教会との間に存在する種々の相違のために、完全な教会的交わりを妨げる障害が少なからずあり、ときには重大なものがある。エキュメニカル運動はこれらの障害の克服を目ざしている。それにもかかわらず、信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。」

[89] 上記の注74を見よ。

[90] ピオ9世、Allocution Singulari Quadam du 09/12/1854, Dz 1647 (ancienne numerotation ; absent du DzH).

[91] 第2バチカン公会議、『教会憲章』8番

[92] ベネディクト14世、1749年2月9日の勅令『シングラーリ・ノビスSingulari nobis』DzH n° 2566 - 2568.

[93] フィレンツェの公会議、ヤコボ派たちへの勅令『カンターテ・ドミノCantate Domino』DzH 1351.

[94] 第2バチカン公会議、『エキュメニズムに関する教令』3番

[95] 聖アウグスティヌスDe baptismo contra donatistas, lib. 1, ch. 10, n° 14.

[96] 聖アウグスティヌス De baptismo contra donatistas, lib. 1, ch. 14, n° 22.

[97] 第2バチカン公会議、『エキュメニズムに関する教令』3番

[98] ラッチンガー枢機卿『第2バチカン公会議「教会憲章」の教会論』「教会は単一で唯一の主体にのみ存在するが、この主体の外に教会の現実、真の地方教会と様々な教会共同体らが存在している」を参照(J. Ratzinger, L’ecclesiologie de la Constitution conciliaire Lumen gentium, DC no 2223 du 2/04/2000, p. 311.)これはつまり「私たちはここに教会存在にとって本質的な要素を見いだす。つまり、天主の御言葉を告げ知らせること、洗礼、聖霊の能動的な現存、信仰、希望、愛徳、殉教に至までの様々な形の聖性である。私たちはこれらの教会的な構成要素の異なった形状、別の種類或いは別のタイプの諸教会と言うことが出来る」(カスパール枢機卿、2002年3月23日フランスのプロテスタント連合の全体会議においてなした講話「カトリック教会のエキュメニカルな取り組み」Oecumenisme informations n° 325 (05/2002) et 326 (06/2002)より)ということである。

[99] 聖アウグスティヌスIn Ps. 54, § 19 レオ13世はこれを回勅『サティス・コニトゥム』において引用している。ASS 28 (1895-1896), p. 724. Enseignements pontificaux de Solesmes, L’Eglise, vol. 1, n°578.

[100] 1864年9月16日、検邪聖省のイギリスの司教たちへの書簡。Cette theorie ≪professe expressement que trois communautes chretiennes, la catholique romaine, la greco-schismatique et l’anglicane, bien que separees et divisees entre elles, revendiquent avec un meme droit pour elles-memes le nom de catholique. [...] Elle demande a tous ses membres de reciter des prieres et aux pretres d’offrir des sacrifices selon son intention : a savoir pour que les trois communions chretiennes qui, comme il est suggere, constituent toutes ensemble l’Eglise catholique, se reunissent enfin pour former un unique corps.≫ DzH 2885 & 2886.

[101] 同上 DzH n° 2886 & 2887.

(つづく)

翻訳:トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)


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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)