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第204号 2003/10/27

第二バチカン公会議
第二バチカン公会議

 「こうして万物が人間に服従すれば、全世界において神の名が賛美されるであろう」(「現代世界憲章」34番)

第2バチカン公会議についてよく知ろう!


その9 神となった人間

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 私たちは第2バチカン公会議によれば、いわば神となった人間に仕えることが教会の目的であることを見ました。この見方によれば、どのような人間であれ、キリストを信じていようが信じていまいが、人間であるというその事実によって、常に天主と一致していることになります。従って、そのような人間の前で、教会は自分を罪深い存在として認識します。これが、「現代世界憲章」の無神論に対する考察です。

 「このことについては信仰者自身にも、しばしばある意味で責任がある。全体的に考察して、無神論は自発的に発生したものではなく、いろいろの原因から生じたのであり、その中には、諸宗教に対する、そしてある地域においては特にキリスト教に対する批判的反動も含まれている。したがって信仰者が無神論の発展に小さくない役割を演じていることもある。すなわち、信仰者は、信仰についての教えの怠慢、まちがった教理の解説、なお宗教的、道徳的、社会生活における欠点によって、神と宗教の真の姿を示すよりは、かえって隠すと言うべきである。・・・無神論の対策としては、教会の教えを正しく述べることと、教会およびその構成員の生活を純粋にすることを求めなければならない。」(「現代世界憲章」19番および21番)

 第2バチカン公会議の考えによれば、もしも無神論者が存在するなら、それは人類に問題があるのではない、人類は、生まれつきキリストにおいて天主と一致しており、天主へと向かっているからだ。無神論は、キリストの到来以来の人間本性とは全く関係がなく、歴史の責任である、もっと詳しく言うと、無神論が生じたのは、過去のキリスト者の態度が悪かったからだ、と言います。かつてキリスト者らは、「神の現存を現わすために」充分善良ではなかった、人間は、天主の輝きをうちにもつ人間それ自体は、天主の否定の原因ではない。人間は、もともとその本性から深く宗教的であり、無神論が生まれた原因は、キリスト者の悪い模範に原因がある、そのような悪への対処策として、教会はそのメッセージをつたえるやり方を深く変えなければならない、教会のメッセージの中に、人間の尊厳を傷つけるものがないということを明らかにしなければならない、これが第2バチカン公会議「現代世界憲章」21番の結論です。

 新しい神学にとってのパラダイム(事物を認識する基本的態度や理論体系の枠組)は、人間の尊厳と言うことです。第2バチカン公会議は、この「人間の尊厳」というプリズムを通してこの世を再発見しようとしました。人間の尊厳という色メガネを通して無神論者を見た第2バチカン公会議は、彼らの中に罪を認めることを望まず、無神論者が存在するのは、キリスト者がこの人間の尊厳に対して犯した罪の結果である、と言います。

 人間の中に天主の神秘が潜むという理論により、天主の御国ということと人間の国ということが同一であると言うことになります。第2バチカン公会議の楽観主義的観点は、「こうして万物が人間に服従すれば、全世界において神の名が賛美されるであろう」(「現代世界憲章」34番)と言わしめますが、つまり、人間の万物支配とその栄光は、天主の支配であり栄光である、ということです。「したがって、人間活動の規則は」(「現代世界憲章」35番)、人間自身であり、「人間に自分の召命を欠けるところなく追求し実現することを許すものでなければならない」(「現代世界憲章」同)と言われます。このように、純粋に哲学的な観点から、ついには人間によって人間のための地上の楽園が建設されるだろうことを予告します。


 マルクス主義的プロパガンダが全世界に行き渡り、自由・平等の人民社会を作り上げるという宣伝が為されている時代において、次のような文章はマルクス主義とは関係がないなどとしらを切ることが出来ないように思えます。

 「われわれは地と人類の完結の時を知らないし、すべてがどのように変えられるかを知らない。罪によって醜く変形した世界の様相は確かに過ぎ去る。しかし、神によって新しい住居と新しい地が用意され、そこには正義が支配し、その幸福は人間の心にある平和への願望をすべて満たし、それを超えることをわれわれは教えられている。・・・新しい地に対する期待は、現在のこの地を開拓する努力を弱めるものであってはならず、かえってそれを励ますものでなければならない。この地上において、すでに新しい世をいくらか表わしている新しい人類家族の共同体が育っている。したがって、地上の進歩は、キリストの国の発展からはっきり区別されなければならないが、人間社会の向上に寄与することができる限り、神の国にとっても重要である」(「現代世界憲章」39番)。

 この新しい地の到来の待望は、極めて曖昧な表現であり、天と地とを同一視するほどのものです。しかしこの文章は、人間が将来人類社会を変え、将来の新しい地上をつくる準備としてあるのです。例えば、1971年、パウロ6世教皇は、ロワ枢機卿(Cardinal Roy)に、政治的なユートピアということを復権させなければならない、と書いています。そしてパウロ6世は第2バチカン公会議のこの文章を説明したのでした。70年代と80年代に南アメリカで猛威をふるった解放の神学も、もちろん、第2バチカン公会議のこの文章によるものでした。

 公会議と教皇様のこのような勧告の光に照らされると、天主の御国は、カトリック教会を遙かに超えた次元をもつものと映ります。天主の御国が到来することにより、人類は過去の分裂を乗り越えて、再び一つになることが出来る、ことになります。第2バチカン公会議とは、実に、人間の栄光のために全世界の司教たちによって立てられた巨大な記念碑のようです。

 哲学者として有名なカント以来、ヒューマニズム(人間中心主義)とは、人間は手段ではなく目的であるという世界観を持っています。しかし、人間を目的としてしまうと、それによって自動的に人間の真の全道徳と人間の本当の善が危うくなってしまうのではないでしょうか。

 もしも、人間を究極の目的とし、全ての道徳的活動の目的とすると、人間の価値は、人間にどれほど有益であったか、どれほど役に立ったか、どれほどよい道具であり手段であったか、ということによって計られることになります。このような観点がどれほど毒に満ちた論理であるかをマルクスは見抜きました。そしてこの世は全て商品化する、と結論付けました。よく考えてみると、もし全てが人間のためにあるとすれば、人間がそれを使うか使わないか、有益とするか無益とするかによって全てが計られることになります。そしてこれを理論化すれば、全ては需要と供給の危険な法則に従うと言うことになります。

 したがって宗教も、人間活動の一つとして、人間への奉仕(サービス)と有益性に従って計られ、役に立つ宗教が本物の宗教、ということになるのです。

 もちろん、聖伝の正当なキリスト教の教えと論理は全く別のところにあります。キリスト者は、人類を究極目的とするような人間への奉仕のためにあるのではなく、それぞれ個々人は、まず天主に仕え、天主に奉仕しなければならない、です。そして天主への愛と奉仕を究極の目的として、天主を愛するために隣人を愛するのです。聖ヴィンセンシオ・ア・パウロのように、貧しい人々の中にキリストを見いだし、天主であるキリストへ奉仕をするのです。

 第2バチカン公会議の中では、教会の役割は全ての人々においてキリストを見いだすというよりも、人間はその良心の最も奥底に天主の種があることを認識し、より人間らしくならなければならない、とします。全ての人々を、まことの天主、三位一体へと向けさせ、それへの奉仕にし向ける代わりに、人間がその尊厳と人権、歴史とその運命に自覚を持つように助けなければならない、と言われます。

 この人間への奉仕ということを具体化するとどうなるでしょうか。たまたまソウルの食堂で手にしたハンギョレ新聞2003年10月24日の第31面文化欄に「宗教が変わる」という特集の第5が掲載されており、韓国のカトリック教会がどのように変わりつつあるかの記事が載っていました。江原道ピョンチャンにあるデファ聖堂は週末の夕方毎に音楽会が開かれ、「村の芸術聖堂」という名前を持っている、とのこと。ジャガイモ揚げとそば揚げのフライ焼き食べ、そばスープ、ジャガイモケーキ、魚の手づかみ、山村トラッキング、渓谷水遊びなど、その他多くの行事があるそうです。春南のデチョンにあるヨナ聖堂では「信仰サービス」という概念を初めて導入して、教会は信徒たちの信仰活動を助けるサービス機関にならなければならない、ということから、小グループ毎のミサ、韓国内の聖地巡礼サービス、家族イベント、大規模野外ミサ、夏の海のイベント、秋のハイキングイベントなど家族の祝祭も開かれるそうです。10月13日から16日までの秋期司教会議では、信仰サービスの概念を具体化することを深く話し合ったそうです。ソウル大教区は9月28日に閉幕したシノドスを通して、変化した時代の価値を積極的に受け容れて、これを実現するとしました。脱産業化社会と共に環境と生命がこのシノドスの主題だったそうです。


 私たちの主イエズス・キリストはこう言いました。

 「私は、あなたたちの間で、給仕する人のようである」(ルカ22:27)

 また 「人の子が来たのも、仕えられるためではなくて仕えるためであり、多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)。

 キリスト者は、イエズス・キリストにまねなければなりません。

 ところが、第2バチカン公会議は全ての人々を招いて、その反対を言います。人間が、天主のメッセージを単なる助けとして、時のしるしに従って、人類の歴史に従って、時代に応じて変容させ、それを利用し、使うように。人々が使いやすいように、教会の教えは人間に適応させて、情け容赦なく変えられなければならない。これが、いわば、第2バチカン公会議の新しい「宗教」なのです。

(続く)


 善きロザリオの聖月をお過ごし下さい!

文責:トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)