マニラのeそよ風

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第197号 2003/10/21

アヴェ・マリア!

 善きロザリオの聖月は、いかがお過ごしでしょうか? 今回は、聖ピオ十世会総長の友人と恩人の皆様への手紙 第64号をお送り致します。


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聖ピオ十世会総長の
友人と恩人の皆様への手紙 第64号
2003年7月1日 いと尊き御血の祝日にて

<<聖伝と近代主義>>

Bishop Bernard  第2バチカン公会議の最中に「司教団主義 collegialitas 」についておこった出来事を説明して、ヘンリチ司教は、「ついに神学的教義における2つの学派の別の伝統が対立していることがはっきりと証明された。この2つは、深く、相互に両立することがないものだった。」( Peter Henrici, "La maturation du Concile", Communio, November 1990. p. 85 et sq.) この短い文章は、意味の無い、ついでの文章では決してなく、この極めて短い中に、過去40年間教会に起こった大きな悲劇が描写されています。現在まで、この2つの対立する考え方、相互に他方を排除する2つの考え方の憐れみなき戦いが繰り広げられています。何が問題になっているかというと、それは、とりもなおさず教会が今から向かおうとしている方向に他なりません。

 第2バチカン公会議の15年後に、パウロ6世はこれとほとんど同じような考えを自分の親友であったジャン・ギトンに明らかにしました。

 「現在、教会には大混乱がある。そして問題になっているのは信仰だ。カトリック世界を考えるとき、私を驚かせることはカトリック思想体系それ自体の中に、非カトリック的な考え方が優勢になっているように思えることであり、しかもこの非カトリック的な考え方は教会の考え方を決して代表することはないけれども、これが将来は教会を占領してしまいかねない、ということだ。それが例えどのように小さい群れであっても、少数の(真にカトリック的な)群れが存在しなければならない」( Jean Guitton, Paul VI secret )。

 パウロ6世は、それ以前には、私たちが現在、最後の時代にいるのではないか、と思っていました。

 1974年11月21日の宣言の中で、ルフェーブル大司教は永遠のローマに対する揺らぐことのない一致と、そして同時に近代主義的ローマの断固とたる拒否を表明し、やはり同じ事を語っていたのでした。

 上記の、ヘンリチ司教、パウロ6世、ルフェーブル大司教という3名の分析が、極めて異なった観点からなされたという事実にもかかわらず、それらが一致していると言うことに私たちは驚かざるを得ません。この3名は、2つの考え方が相互に異常なほど戦いあっていること、2つの世界観は両立調和し得ないこと、しかしながら、カトリック教会の奥底で存在していることを見ていました。この2つの考え方のうちの1つとは、カトリック教会が常に、どこででも教え続けてきた、聖伝のカトリックの教えに他なりません。これこそ、カトリック信仰であり、その全ての論理的・実践的結論を含むものです。もう一つは、聖ピオ10世が「進化論的であり、不可知論的である」と排斥した現代の考え方です。この近代主義は、20世紀初頭には脅威でしたが、同じ20世紀後半にわたって教会の全生命を腐敗させている、本当に壊疽(えそ)のような傷です。第2バチカン公会議と同時に、この非カトリック的な考え方が、実際的に勝利を収めてしまいました。それ以来、第2バチカン公会議の名前によって教会に強制された多くの改革によって、信仰と超自然の命とは麻痺しています。

 どのような思想体系においても、論理的な流れがあります。どのような思想体系であれ、具体的な実現へと向かい、行動へと向かっています。ですから、いわゆる「公会議後の改革」と呼ばれる、変化の全ては、自然の成り行きなのです。第2バチカン公会議の精神を反映し、これらの変化は大惨事を引き起こしました。そして教会は第2バチカン公会議以降、これによって苦しめられています。この考え自体が教会とは無関係のものです。どのような割れ目であったにせよ、サタンの煙は天主の神殿の中に入り込んできました。サタンの煙は、外見上教会のものとして飾られ、カトリックの規則として受け入れられるように計画します。もし私たちがそこから排斥されたとしたら、それは私たちがこの新しい体系に対立しているからです。私たちが受け入れているそのままのカトリックの聖伝は、カトリック生活から除外され、少なくとも脇に追いやられ、時代遅れのものとして見くびられています。

 例えば、このことをもっとよく知るために、修道生活に強制的に押しつけられた変化の重大さを考えてみましょう。修道生活は、普通の信者とこの世の人々に、この世との完全な分離は、キリスト教的な完徳の道であるということを表明する聖福音的勧告の貴重な花だからです。「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。」(マテオ16:24) 彼は持ち物を全て売り払うように。

 福音的勧告は、修道生活を改革しそれを現代世界に適応させようと言う望みにおいて、ほとんどが失われましたが、その福音的勧告の対象は、単なるこの世からの物理的分離ではありません。私たちが洗礼の約束をするとき教会が私たちに要求することは、救いに必要な洗礼の要求するもの全てと共に、何よりもまして、そしてより深くには、この世からの分離なのです。そして改革された修道生活の数限りない日常茶飯事に、もはやこの分離を失ったことが見られます。例えば、修道服の廃止など。

 同じ事は、司祭生活についても言うことが出来ます。カトリックの考え方とはあまりにもかけ離れたこの考え方は、キリストの神秘体の生活にもっと深いところにあり、必要な要素である「司祭職」を根底から動揺させてしまいました。罪の償いのためのいけにえという観念が無くなり、犠牲という意味は喪失し、十字架を拒絶することさえも、驚くほど多くの司祭たちのうちに見いだされます。これらのことは、新しいミサによって生み出された新しい考え方と緊密に結びついているからです。同じ事は、全ての改革に当てはまります。改革の全ては結びつき、驚くべき内的一貫性があります。実に、私たちはこのことを何度も繰り返して言わなければなりません。公会議以後、教会の生命は転覆を強制させられましたが、これは、カトリック固有のものとは反対の考え方で、カトリック信仰を破壊する考え方がその道の途中で噴火した結果なのです。

 この状況全体の最大の悲劇は、非カトリック的考え方が、教会当局によって受け入れられ、従順の名前によって押しつけられたという事実です。このことは、残念ながら、その伝達が極めて効果的であり、キリストの神秘体全体に回るそのような死の毒を拒絶するという通常の反応よりも、さらに強くなってしまったことです。


<<御聖体に関する回勅と5月24日の聖伝のミサ>>

 私たちが最近起こったさまざまな出来事を考えるとき、聖ピオ十世会の歴史を通して企てられた悲劇的な策略を思い起こすことが重要であると思います。事実、私たちが教会と世界の出来事を分析する判断の基準は、この根本的な真理を含んでいなければなりません。つまり、出来事の全ての連続に肯定的に影響を与える出来事だけを、価値があり、決定的で本当によいことであると考えることが出来るということです。簡単に言うと、ローマが、いろいろなやり方で、教会を蝕み続けてきている反聖伝の全般的な方針を変えて修正する時、その時に初めて、私たちはローマが聖伝に立ち戻ってきたと信じる、ということです。

 御聖体に関する新しい回勅は、この影響をもっているでしょうか? 見かけは聖伝のようであるにもかかわらず、トリエント公会議のことを良く思い起こしているにもかかわらず、多くの乱用を告発しているにもかかわらず、それ自体良いことであって、私たちはそれを見て喜んでいるにもかかわらず、回勅の下に横たわっている考え方とそれを取り巻く状況は、残念ながら、私たちをして、この回勅は聖伝への立ち返りの影響力を持っていない、と答えさせざるを得ません。回勅の言及するミサとは、最初から最後まで、新しいミサのことで、第2バチカン公会議の名前において改革されたミサです。このことは全てを物語っています。つまり、たしかに美容整形的な上っ面の修正はしようと思っているかもしれませんが、「聖伝に立ち返る」ために絶対に必要な根本的な変化はないということです。新しい回勅のどこにも、典礼改革を少しでも疑問視するようなところはありません。たとえ多くの誤りと乱用があったと言うことを認めていたとしても、です。この回勅は、後戻りしようとは考えていません。これはただ単に、御聖体に関する新しい教えを、それほど悪くはないやり方で提示しようとするだけです。パンに付けるジャムは喜んで変えようとするかもしれません。しかしジャムを塗るカビの生えたパンは変えようなどと少しも思っていないのです。ですからジャムを変えても残りが消化の出来ない、健康に極めて危険なものとして留まる重大なものです。

 ローマの聖マリア大聖堂で5月24日にカストゥリヨン・ホヨス枢機卿がしたミサ聖祭については、私たちはそれについて聞き嬉しく思いますが、これはローマが聖伝に戻ろうというしるしだったのでしょうか。これは出来事の惨憺たる道筋を変えようと言う固い決意の弱々しい表れであると解釈できるのでしょうか? 残念ながらこのミサは、確信もなく、進歩派からの反対を恐れているものであり、この高貴なしぐさは、一度だけの行為として留まるでしょう。そして、聖伝を信じているカトリック信者たちが長い間待望してきた聖伝のミサの解放を告げ知らせる幸せなニュースではないのです。実に、このミサ聖祭で、祭壇に立つカストゥリヨン・ホヨス枢機卿の側にいて仕える名誉を持った司祭は、聖伝のミサの執行許可書(Ecclesia Dei celebret)を携帯し提示したにもかかわらず、同じ5月24日の早朝、聖ペトロ大聖堂では聖伝のミサを捧げることを拒絶されたのです。この事実はそれだけで雄弁に物語っています。

 従って、これらの出来事において、古いものと新しいもの矛盾した混合があります。これは少なくとも、聖伝の光において、私たちの見る見方によればそうです。しかし現代の考え方によれば、矛盾律は時代遅れだと主張するので、私たちの見るようにはものを理解しないのです。現代精神は、矛盾を受け入れるのです。ただし古いやり方が矛盾を拒否するのを止め、排他的であるのを止めるという唯一の条件の下で、です。

 現代の教会の矛盾に満ちた性格は、この回勅の中に驚くやり方で見つけられます。それはこの回勅が非カトリック信者に御聖体拝領を許す問題を取り扱っているときです。教会の交わりの外にあるので、御聖体拝領を拒否しなければならない非カトリックの団体に属しているということと、個人的には御聖体を信じている限り御聖体拝領を許すことが出来るという非カトリックの個人とを区別するという区別ですが、この区別は受け入れることが出来ません。回勅によれば、信仰と教会の交わりということは、団体に属しているという問題とは関係がないから、と言う理由で区別されているからです。

 しかし、カトリック神学は信仰の真理を一つでも否定することは、信仰全てを失うことである、と教えています(ピオ12世の聖母被昇天の教義を参照のこと)。従って、カトリックの何らかの教義を拒否する非カトリック信者が、客観的に「御聖体に対する信仰」を持っているとは言うことができず、従って「御聖体に対する信仰」という条件が御聖体拝領のための条件であるなどと、言うことが出来ないからです。


<<ローマとの関係>>

 私たちは、私たちのローマとの関係についても同じ問題にぶち当たっています。もしローマが私たちを受け入れるのを望み、私たちを招いてさえもいるとすれば、これは上記の、矛盾する観点も受け入れるという新しい広い、多元的な観点に立っているからです。何故ならこの新しい観点は、矛盾と言うことがあること自体を受け入れないからです。これは、教会の多様性においてその豊かさを作るという受け入れることの出来る多様性の問題ではありません。そうではなく、どのような犠牲を払っても全ての人によって、全ての人のために、受け入れられたい、という非カトリック的な考え方の問題です。

 カトリック信仰は、その反対に、全ての真理がそうであるように、排他的です。カトリック信仰はそれに矛盾する考えを正しいとはしません。それはたとえ外的状況が、共通善の観点から、時としては黙認を要求したとしてもです。

 この信仰から流れ出るカトリック精神は、排他的であり、この世の精神とは両立できません。それは多くの信者の実際の生活において、カトリックの要素とこの世の要素とが一貫性無く混合しているのを私たちが見ているとしてもです。

 私たちの説明は少し図式的で単純すぎると言うことは分かっています。私たちが「現代のローマ」とか「今日のローマ」について話すとき、私たちはローマが完全にごりごりに固まった、変化する余地のないやり方での近代主義的なローマではない、ということを言い加えなければなりません。また、私たちは、ローマにこの破滅的な状況に対して立ち上がりたいと望んでいる高位聖職者たちが何名か存在していることを否定するわけではありません。しかし、今のところ、神聖にして犯すべからざる公会議の名前において、公会議後の改革の方針がそのまま残り続けていることを、全てのことが示しているのです。ローマが、カトリック生活の現在の一般規則として私たちに強制しようと計画しているのは、暗黙的にも、明白にも、まだ第2バチカン公会議であり新しいミサなのです。これこそ、私たちが既に述べた、カトリックとはよそ者の考え方なのであり、彼らがまだ、そして常に、私たちをして受け入れさせようと強いていることなのです。ローマは、私たちの「正常化」の絶対必要条件としています。私たちにとって、その時残されているのは、これらの革新に対していわば「ハンガーストライキ」を続けることです。それは、ローマがついに、私たちとそしてキリストの全神秘体に、カトリック聖伝の滋養豊かなパンを与えるのに同意するまでです。私たちはすでにそれを求めて非常に長い夜を過ごしてきました。しかし決して疲れずにドアを叩き続けます。これを私たちに教えて下さったのは私たちの主ご自身ですから。永遠の命の言葉をもっているのは私たちの主です。私たちは主の全能を信じ、主の約束を信じます。


 願わくは、その保護においてかくも偉大で慈母の母である、教会の母である童貞聖マリアが、忍耐と忠実の道において、私たちを導き給うように、そして、「cum prole pia (聖子と共に)」私たちを豊かに祝福して下さるように!

+ベルナール・フレー
聖ピオ十世会総長

http://www.sspx.org/Superior%20Generals%20Ltrs/supgen_64.htm



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トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)