マニラのeそよ風

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第172号 2003/09/23 聖リノの祝日

パウロ6世 「単に手段として人間を愛するのではなく、人間性を超越した究極目的として人間を愛するのであります。…」(1965年12月7日、パウロ6世)
 「キリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。」(「現代世界憲章」22番)
 「人間の価値と尊厳に対する深い感嘆の念は、「福音」ということばの中に表明されている。福音とは、つまり、福(よき)音(おとずれ)、良き便り、ということである。この感嘆の念はキリスト教とも関連がある。この感嘆の念こそが世界中における教会の使命を正当化している。」(「人間の贖い主」§10)

アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、今回は、「列聖」について
Nouvelles de Chrétienté Nº 77 – Septembre/octobre 2002
外国語サイト リンク http://www.dici.org/dl/nouvelles/Nouvelle_77.pdf
よりの抜粋の続きをお届けします。


列聖 第2部 今日の列聖


 列聖の本質は、私たちに次の問を発しています。
A 今日において聖性とは何を意味するか?
B 今日の信者にとって、どのような聖性が提示されているか?
です。


その1: 第2バチカン公会議以降の聖性の概念


(1) 数の次元での変化

 まず、観察されている事実から出発します。最近、列福と列聖の数が、前代未聞のくらいに極めて多くなっています。以下に、その程度がどのくらいかをつかむために数を上げます。

16世紀:1回の列聖式
17世紀:10回の列聖式、24名の聖人
18世紀:9回の列聖式、29名の聖人
19世紀:合計で8回の列聖式、80名の聖人
(レオ13世の統治期間(1878年から1903年まで):4回の列聖式、18名の聖人)
20世紀:
聖ピオ10世(1903-1914):2回の列聖式、4名の聖人、
ベネディクト15世(1914-1922):2回の列聖式、3名の聖人
ピオ11世(1922-1939):17回の列聖式、34名の聖人、
ピオ12世(1939-1958):21回の列聖式、33名の聖人、
ヨハネ23世(1958-1963):7回の列聖式、10名の聖人、
パウロ6世(1963―1978):20回の列聖式、81名の聖人、
ヨハネ・パウロ2世(1978年から2002年10月6日までの間):468名の聖人、

 パウロ6世とヨハネ・パウロ2世の到来まで、列聖式とは教皇様による特別で例外的な荘厳な行為でした。第2バチカン公会議以降、それはますますそうではなくなっています。

 ヨハネ・パウロ2世は、20世紀の先任者の教皇様たちよりも遙かに多い聖人を列聖したのみならず、1588年にシクスト5世教皇によって列聖のための聖省(Congregatio rituum)が作られて以来、列聖された聖人よりも、更に多くの聖人を列聖しています。

 何故これほどまで列聖が多いのでしょうか? それはヨハネ・パウロ2世教皇様がご自分で説明しておられます。例えば、1984年6月13日の枢機卿会議における講話で、ヨハネ・パウロ2世教皇様はこう言っています。

 「私たちは、今日あまりにも多くの列福がありすぎるとよく聞きます。しかし、天主の御恵みによって現実がそうであるという事実以外にも、これは第2バチカン公会議がはっきりと言明した望みに対応しています。この世界に福音はあまりにも広く伝播しており、福音のメッセージはとても良く根付いているので、このように極めて多くの列福と言うことが、聖霊のはたらきと「教会にとって最も本質的な領域、つまり聖性という領域において吹き出る生命力」とを、生き生きとしたやり方で反映しているのです。実に、誰でも聖性へと呼ばれていると言うことを特別なしかたで照らし出したのは第2バチカン公会議です。」

 従って、教皇様によれば、数の次元での変化ということは、「聖性」ということの質の次元の変化ということなのです。何故なら、列聖と言うことが証する「聖性」ということは、もはや珍しいことでも、特別なことでもなく、普通にあることである、という意味を持ち、それ故に列聖もこれからは普通のこととなり、数が極端に多くなったということだからです。

 ロマノ・アメリオは、Iota Unum という第2バチカン公会議に関する有名な本を書きましたが、彼はその続編である Stat veritas の中で、こう書いています。

 「ヨハネ・パウロ2世は、今世紀の全ての教皇様たちよりも多くの列聖をした。しかしこうすることによって、列聖の尊厳がもはや保たれなくなっている。列聖が多ければ多いほど、特別なことであるとは考えられなくなり、(有効ではないとは言わないけれど)全教会の崇敬の対象とならなくなってしまう。・・・列聖が増加すると、その価値は減少する。」

 ≪ Jean-Paul II a fait plus de canonisations que n’en ont fait tous les papes de ce siecle. Mais de cette maniere, on ne garde plus la dignite de la canonisation. Si les canonisations sont nombreuses, elles ne peuvent pas etre, nous ne disons pas valides, mais prises en consideration, ni faire l’objet de veneration de la part de l’Eglise universelle. (…) Si les canonisations se multiplient, leur valeur diminue≫.


(2) 質の次元での変化

 では、第2バチカン公会議の論理によれば、何故、聖性とは何か特別のことではなくなってしまったのでしょうか? その説明を試みてみましょう。新しい神学は、私たちにその理由を理解させてくれるでしょう。

(あ) 聖性と言うことの新しい概念の基礎

 第2バチカン公会議は、新しい神学に結びつけられた、いわば「新しい宗教」を導入したのではないでしょうか? この新しい神学によれば(ヨハネ・パウロ2世教皇様の良くなさる説明にあるように)、贖いとは、人間が、人格として持っている人間の尊厳を、内的自覚させてくれる実存的証言に他ならないのです。

 「世の贖い主であるキリストは、唯一の絶対的に独自なやり方で人間の神秘の中に浸透した方である。これこそまさしく第2バチカン公会議がこう教えていることである。『キリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。』(「現代世界憲章」22番) もしそう言うことが出来るのなら、これが贖いの神秘の人間的次元である。この次元において、人間はその偉大さ、尊厳、人間性に固有の価値を再び見いだす。もし人間がこの過程を自分の内に深く実現させるなら、天主に対する礼拝のみならず、自分自身についての深い驚きという実りを生み出す。もしも人間が「かくも偉大な贖い主を持つに値した」(復活徹夜祭の exsultet )のなら、もしも人間が「滅びることなく永遠の命を持つために」「天主がその御ひとり子をお与えになった」のなら、人間とは創造主にとってどれほどの価値を持っている者であるだろうか!」(「人間の贖い主」§9-10)

 教会の使命とは、贖いの実りを適応させることであるので、教会は今後、人間の人格の尊厳を促進させることと、全ての人にそのことを自覚させることを本質的な目的とすることになります。

 「人間の価値と尊厳に対する深い感嘆の念は、「福音」ということばの中に表明されている。福音とは、つまり、福(よき)音(おとずれ)、良き便り、ということである。この感嘆の念はキリスト教とも関連がある。この感嘆の念こそが世界中における教会の使命を正当化している。」(「人間の贖い主」§10)

 「第2バチカン公会議は、その文書のいろいろな箇所で、これが教会の基本的な中心的関心事であることを表明した。それはこの世における生活を『人間の高貴な尊厳にいっそうふさわしいものとし』(「現代世界憲章」91番)、全ての点で、『生活をいっそう人間らしいものに』(「現代世界憲章」38番)するためである。これが教会の中心的関心であるということによって、第2バチカン公会議の司牧憲章において書かれているように、『教会は、同時に、人間人格の超越性のしるしであり、またその保護者である。』(「現代世界憲章」76番)」(「人間の贖い主」§13)

 ところで、人間の人格の尊厳は、良心の自由にその基礎を持っているので、教会は良心の自由を明らかにし、擁護するように努めるのです。

 「それが理由で、現代における教会は、信教の自由に関する宣言において第2バチカン公会議が提示した全てを非常に大切なことであるとするのである。信教の自由に関する宣言は、確信させるようなやり方で、人々からではなく天主に由来する真理を告げながら、私たちに、キリスト、そして使徒たちが人間とその知性とその意志その良心その自由に対する深い評価を持っていたことを明らかにする。こうして、人格の尊厳は、たとえそれについての言葉が無くとも、人間の尊厳に対する態度だけによって、この告げ知らせの一部をなす。それは教会が、天主から受けた使命の力によって、ますますこの自由の保護者となるということである。この自由こそが人格の真の尊厳の条件であり基礎であるからである。」(「人間の贖い主」§12)

 この贖いの実りを生きるとは、すなわち「人格の尊厳を日増しに意識するように・・・また、強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する」(「信教の自由に関する宣言」§1)ようにすることでしょう。

 この人格の尊厳に関する強い意識を持ち、特に宗教に関する人間の自由を高揚することによって人格の尊厳を尊敬するものこそが、教会の使命を果たす者であり、聖なる生を生きることになるのでしょう。

 聖トマス・アクイナスは、聖性とは、人間が天主にふさわしい礼拝を為すことにおいて最も高い程度まで表明されることだと言っています(神学大全 第2部の2 第81問 第8項)。

 すると、「新しい聖性」とは、人間の尊厳に対する尊敬、崇敬、ということに対応するものに他なりません。実際、パウロ6世教皇様は、人間に対するこの新しい崇敬について語っています。

 第2バチカン公会議を終了しようとするその日、第9公開会議における演説(1965年12月7日)の中で、パウロ6世はこう言っています。

 「皆さん、少なくとも公会議のこの努力を認めてください。天上のことの超越性を放棄している現代の人間中心主義である皆さん、私たちの新しい人間中心主義を認めることができるようになってください。私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讃するものなのです。(et sachez reconna tre notre nouvel humanisme: nous aussi, nous plus que quiconque, nous avons le culte de l'homme.)…」
 「公会議は現代人に対する愛と賛美に満ちていたのであります。…」
 「公会議は現代人が重視する諸価値を尊敬するだけでなく、これを認めたのであります。…」
 「単に手段として人間を愛するのではなく、人間性を超越した究極目的として人間を愛するのであります。…」(中央出版社:『歴史に輝く教会』440-448頁参照)

 パウロ6世によれば、教会は人間の自由を促進することによって、人間にふさわしい尊厳に崇敬を捧げるのです。新しい意味における「聖人」とは、この人間を崇敬する者であり、寛容な者でなければなりません。第2バチカン公会議とその「信教の自由に関する宣言」に従って、新しい聖性の基礎になるものは、(天主に対する愛徳ではなく)今後は、この寛容さなのです。

 いえ、そればかりではありません。新しい「聖人」は、寛容な人であるばかりか、自然の徳を広げる人でもあります。「新しい」聖性は、こうして超自然との関係を失ってしまいます。「新しい」聖性は、人間のために働いたと言うことに限定されてしまっています。しかし、これは第2バチカン公会議の新しい神学が持つ、自然主義的な概念の論理的な結果に過ぎません。

 例えば、1995年5月21日に行われたボヘミアの女性ジスラバ(Zdislava)の列聖式では、次のような「聖性」の説明がありました。

 「聖性とは、自分を他者に与える能力と、生命を受け入れる受容性にある。彼女【=ジスラバ】の模範は、特に彼女が私たちに教えているように、家庭は天主に、生命の贈り物に、貧しい人の必要に、開かれていなければならないという家庭の価値について、顕著に現代的なものとして表れている。私たちの聖女は、教会がキリスト教の第2千年期から第3千年期へと通過する際にかつて無いほど再び取り上げようと努力している『家庭の福音』と『生命の福音』の素晴らしい証人である。ボヘミアの家庭よ、モラヴィアの家庭よ、この国民の計り知れない宝よ、あなたたちの聖人の模範に従い、天主の計画において、あなたたちがあるままのものになりなさい。そして、あなた、優しく強く、愛深く敬虔な母よ、ランベルクのジスバラよ、あなたの祖国の家庭と世界中の家庭を導き、彼らがその使命をますます深く理解することが出来るようにし、彼らを贈り物に開かれたものとし給え。」(Documentation Catholique, 2119 du 2 juillet 1995)


(い) 聖性に関するこの新しい考え方が、聖性とは皆に共通の普通のことであるかを説明している。

 従って、聖人であると言うことは「贖い主キリストが人間を人間にあらわす」という啓示に近づくこととなるのです。つまり、聖性とは、自覚することなのです。人間が聖人になるとは、キリストにおいて既にあることを発見すれば良いのです。今まで暗黙の内にあったことが明らかになるというその変化があれば良いのです。

 聖性とは、他の人々と共通の条件を超越した理想ではなく、この人間の共通の条件の論理的延長にあるものなのです。何故なら、聖性とは、人間の尊厳という人間の本性にあるこの条件を自覚することに他ならないからです。

 ですから、聖トマス・アクイナスが述べた原理を個々で適応すると、「新しい聖性」についてこう言わなければならないでしょう。「聖性とは、自然に共通の水準のものなので、聖人というのは、非常にしばしば実現する、そしてその聖性を欠くものはまれである。」(「教会憲章」の第5章にある「教会における聖性への普遍的召命について」も、人間に共通の聖性と、固有の意味での完徳である英雄的聖徳との区別が付けられていません。)

 従って、列聖の対象は聖性であるので、聖性は模範というよりも、むしろ「しるし」として提示されるのです。

 模範というのは、実践知性と意志に働きかけます。模範は、まだ所持していないもの、そして実現させるべきことを、指摘します。聖伝によれば、列聖とは、聖人の模範に従って、獲得すべき英雄的徳が何であるか指摘する法であると定義されています。

 「しるし」というのは、純粋知性に働きかけます。つまり、しるしは、既にそのことがあることは知っているけれども完全に把握されていないことを指摘します。しるしは、今まで隠れていて分からなかった意味を、より完全に明らかに示します。【ちょうど、日本の終戦直後、銭湯で石けんが盗まれた、傘が盗まれた、などという時代には、物質的な廃墟はものすごかった。しかし現代日本の高級農作物の大窃盗は、終戦直後の物の貧しさよりも、昨今の日本の心の貧しさの「しるし」だ、と言ったようなことに例えることが出来るかもしれません。】

 第2バチカン公会議による新しい概念によると、聖性は「しるし」になります。人間の本性的尊厳を自覚した人々とそれを擁護する人々は、その他の人々にしるしとなり、その他の人々が、今度はその尊厳を自覚するようになるのです。

 「聖人とは、キリストの弟子に与えられた尊厳の最も明白なあかしである。」(Christifideles laici, §16)

 「第2バチカン公会議は、「聖性への普遍的召命について」光に満ちた言葉遣いで表現している。聖性への召命は平信徒によって受け入れられ、これを生きなければならない。厳格な義務としての観点によると言うよりも、聖性の命へと再び生んでくださった聖父の無限の愛をしめす光に満ちたしるしとしてである。」(Christifideles laici, §16-17)

 もしも、聖性が「しるし」であるとするなら、そのような観点に立つ限り、この「しるし」を増加させることには意義があることになる。何故なら、しるしが多いということそれ自体が意味のある価値を持つからである。つまり、人間の尊厳を自覚している人々の数が多くなるというその数の重みが、「キリストが人間に人間を明らかにする」という人間の自覚に関する啓示により大きな効力を与えることになるからです。

 列聖が多ければ多いほど、聖人が多ければ多いほど、人間の尊厳がより良くしるしされるからです。


(つづく)


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トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)