第171号 2003/09/22 ヴィラノバの聖トマスの祝日
アヴェ・マリア! 兄弟の皆様、お元気ですか。
今回は、「列聖」について
私たちは、非常にデリケートな問題を取り扱っているとよく知っています。私たちは、平和と一致を自然に望んでいるので、出来ることなら、このような問題を避けて通りたいと思います。 しかしながら、年月が経つにつれ、驚くべくほどの極めて多くの列福列聖式だけではなく、福者・聖人として時として正反対の事を教えていた人が選ばれているのかを目の当たりにするようになりました。 この研究は、疑わしい列聖・列福式について、最終的な判断を下すためにあるのではありません。それは私たちに属することではありません。将来の教導職がこれについての判断を下すことでしょう。 教会の教導職そのものではなく、教会の教導職を今日、実際に執行する立場にある方々が教導職をどう理解しているかと言うことがここでは問題となります。 実際、聖伝の概念を流動的なものとして理解すると、今日では或る一つのことを意味していたものが将来はそれと反対のことを意味することになるかもしれません。 この文脈においてカトリック教会における通常の教えを支持しつつも、私たちはこの現行の列聖における不可謬性の問題に触れることが出来ると考えています。 【神学者たちは列聖だけが不可謬であると考えているので、私たちの研究は直接には列聖について関わります。しかし列聖も列福も、同じ新しい精神に従ってなされていると考えられるので、私たちは時として列福も例としてあげることにします。】 誤解を避けるために、更に言っておけば、この研究は列聖についての見極め(どれが有効な列聖でどれが無効な列聖なのかを調べる)をするのではありません。それは私たちに属することではありません。私たちの研究は、別の次元にあります。 私たちは一体どのような精神と意向においてこれらの列聖式が執行されたのか、を調べようとしているのです。 明確なやり方で議論を進めるために、列聖とは何かその正確な概念を定義づけることから始めたいと思います。 そこで、「マニラの eそよ風」第171号では、第1部、列聖に関する聖伝の教えを見てみたいと思います。その後、機会を改めて、第2部として、私たちは第2バチカン公会議以後に為された列聖に目を向けてみたいと思います。 繰り返しますが、私たちの研究は考察の道標となるものであって、最終的な判断ではありません。 列聖 第1部 聖伝の教えその1: 列聖の歴史列聖の歴史を一瞥してみましょう。そうすることによって、列聖と言うことが何であるか良く理解することが出来るようになると思います。 列聖の起源には、聖性を輝かし諸徳の模範を示しながら亡くなった信者に、自発的で自然的に公の敬意を払っていたことにあります。 最初にこのような敬意を受けたのが聖なる殉教者たちです。キリスト者たちは迫害の犠牲者となった殉教者たちの遺物を集め、保存し、殉教者たちの墓に祭壇を築き、司祭たちはそこでミサ聖祭を捧げました。このようなことは、紀元2世紀に遡ります。3世紀にはこのような敬意がどこででも払われるようになっています。
ただし、この公の敬意が払われるために司教によって裁可されなければなりませんでした。公式に認められた殉教者たちとそうでない殉教者たちとは、これによってはっきり区別されます。
ところが、特に11世紀になると、教皇様たちはもっと厳密な聖徳と奇跡に関する調査をするために教会会議を開くこと、出来れば公会議を開くことを求めました。
「聖人に対する敬意は、司教区から司教区へと広がり全世界に広がる教会にまで行き渡り、教皇の明確な、あるいは暗示的な同意を持って、初めて「列聖」の尊厳を得る」 Le culte ne s’elevait a la dignite d’une canonisation que lorsque passant de diocese en diocese il s’etendait a l’Eglise universelle, avec l’assentiment expres ou tacite du Souverain Pontife. (Ortolan, article Canonisation, Dictionnaire de Theologie Catholique (DTC), tome IV, col. 1632.) のです。
1170年になると、教皇アレクサンドロ3世の憲章があり、これは Corpus juris canonici(教会法典Livre III des Decretales, titulus 45, caput I) の中に挿入されました。 しかし、これに関する論争はウルバノ8世が1625年3月13日と10月2日に発布した勅令によって終止符が打たれました。この勅令はまずローマで発布され、1634年7月5日の教書 Caelestis Jerusalem cives の中で特別に確認されました。この時以来、唯一教皇様だけが列福、列聖を執り行うことが出来ると言うことが、事実の上でも、権利の上でも、疑問のないこととなりました。
これによると、教皇は列聖の前に、教皇の賢明を照らすために特別に設置した機関を使うことが出来る、となっています。 歴史上には、キリスト信者たちが自発的に、民衆の信心として、或る聖人を崇敬すると言うことがありました。教皇様がそれを認可するのを良しとすれば、それは自動的に「列聖」と同等の価値があると見なされました。つまり教皇様は遙か昔から公に天主の僕に表されてきた崇敬を裁可するのであり、そのためには、たとえ厳密な教会法上の審議を経てその徳の英雄性や奇跡の正真正銘性が立証されなかったとしても、信じるに値する証言により、キリスト者がそれを信じ、その英雄性と奇跡が立証されるときに、教皇様は認可することになります。 この裁可は、聖座が、この聖人の祝日にミサ聖祭と聖務日課を世界中の全教会に広げて強制したときに、成立すると考えられています。例えば、聖ウィンセスラオ(929年に殉教したボヘミアの貴族の殉教者)について、教会法上の審議ではなく、民衆の証言による英雄性と奇跡によりベネディクト13世は1729年3月14日、全教会でその祝日を祝うように命じています。また、同様に、スコットランドの女王で1093年に帰天した聖女マルガリッタについても、イノチェンテ12世は、1691年9月15日その祝日を全教会で祝うように命じています。 1170年以前になされたほとんどの「列聖」は、この民衆の証言による列聖です。そしてこの中には、幾つか疑わしい例もありました。(最も有名な例は、シャルルマーニュです。正当な教皇であったアレクサンドロ3世に対立して立てられた対立教皇パスカル3世は、皇帝フレデリック・バルベルースの要請によって1165年12月29日、シャルルマーニュを聖人の中に入れてしまいました。しかし、それまでシャルルマーニュに対して公の崇敬が払われてきたことは一度もありませんでした。この対立教皇による「列聖」については、その後公式的に追認されもせず、公式に否認されもしませんでした。ベネディクト14世は、de Servorum Dei beatificatione et de Beatorum canonizatione の中で、このシャルルマーニュの場合は、「列聖」ではなく、「列福」と同様の価値をもつために必要な条件は全て揃っている、と述べています。) その2: 列聖とは何か1.概念
列聖とは、教皇様が最終的に決定的な宣言をもって、既に列福された天主の僕を諸聖人の中にその名を書き込むという荘厳な行為です。 列聖をするのは、全教会の頭である教皇様です。何故なら、永遠の救いと全教会の共通善に関わることなので、全教会の頭のみが、これに関する法令を発布する正当な権威を持っている空です。列聖とは、教会が権威をもって次の三重の最高の判断を決定的に下すことなのです。
(1) 某は永遠の栄光の内におり、この地上で生きている間、英雄的な程度まで超自然の徳を実践していた。 聖人はその諸徳の模範として与えられており、聖人に表明する崇敬は、その聖人を通して、天主の本性に親密に参与することである、顕著な天主の聖寵を敬うと言うことです。 2.列聖と列福(1) 類似性: 列福も列聖も、目的、対象、執行者は同じです。法の本質に関しても、両者とも、英雄的な徳の実践に関する判断をすることです。 (2) 相違点:
列福は決定的な判断ではなく、修正の可能性のあるもの、列聖のための準備であり、列聖は決定的で修正することが出来ません。 (3) 不可謬性 (あ) 列福は不可謬ではない。 1170年以前に司教たちによってなされた列福の場合、これが不可謬であるというのは問題外です。司教には個人としてそのような特権はないからです。実際、ベネディクト14世が言うように、幾つかの誤謬が歴史上存在しました。(de Servorum Dei beatificatione et de Beatorum canonizatione, liber 1, cap 42, §6-7) 1170年以降の列福の場合、列福は聖座の特権として聖座に保留されています。しかし、列福の場合は、不可謬であるとは考えられていません。何故なら、これは決定的なものでも、命令的なものでもないからです。不可謬性のためには、決定的な命令的な行為がなければならないからです。 民衆による「列福」を裁可した「列福同然」のものと、厳密な意味での「列福」も区別できるかもしれません。後者の場合はより大きな保証があります。たとえ不可謬ではなくとも、後者に対してふさわしい崇敬を拒否することは、前者に対するものよりもより大きな過ちを犯すことになりえます。 (い) 列聖 第1バチカン公会議までの神学者たちは、ほとんど一致して、教皇様が聖人を列聖するとき、不可謬の特権を享受すると教えてきました。例えば、代表者として、聖トマス・アクイナス、メルキオル・カノ(Melchior Cano)、ベネディクト14世が挙げられます。 論理上の議論として、教皇様が地獄に堕ちたような者を聖人として列聖して間違いを犯すと言うことは、ありえません。何故なら、もしそうなったら、信仰と道徳とに反することを教えてしまうこととなるからです。何故なら、悪しき行為によって地獄に堕ちることとなった者を、私たちの模範として倣いながら私たちが救われることが出来る、と教皇様が教えてしまうことになるからです。 歴史事実上の議論として、ベネディクト14世は過去の教皇様たちがした列聖において一つも誤りが見つかっていない、と言うことも挙げています(de Servorum Dei beatificatione et de Beatorum canonizatione, liber I, caput 43, §14)。 (う) この不可謬性ということの神学上の評価 列聖が不可謬であるというのは、神学者たちの共通の意見であり、教会における聖伝の表明でもあります。しかし、この教えはまだ荘厳に定義されたカトリックの信仰の教義とはなっていません。この不可謬性を否定したとしても、異端者であると考えることは出来ません。 (え) 殉教録の場合 ある人を「殉教録」に書き加えたということは、不可謬性を伴った列聖であるわけではありません。殉教録には、列聖された聖人のみならず、教皇様によって、(あるいは1170年以前の場合は司教によって)列福されることのできた天主の僕をも含まれています。これらの列福が必ずしも不可謬であるとは言えないので、殉教録に加えられたと言うことも必ずしも不可謬であるとは言えません。殉教録にある「聖 sanctus」という尊称も、「至福なる beatus」も、必ずしも厳密な意味の違いがあるわけではありません。 (4) 列聖の対象
列聖の対象は、まず、カトリック信者の聖性であり、聖性と対をなす英雄的な徳です。
その人の徳の超自然的英雄性を証明する奇跡の事実は、副次的なことであり本質的なことではありません。 どのような聖性か? 聖性とは何か? 個々で問題となっている「聖性」とは、特別な程度に至るまで成聖の聖寵を持つことにあります。天主の愛の程度があまりにも強く、英雄的なまで注入された徳と獲得された徳を伴う天主の聖寵のことです。 この徳の英雄的な実践は、聖性のいわばバロメーターであり、真の聖性が存在するところには、英雄的な徳の実践も必ず現れるからです。また、英雄的な程度まで諸徳が実践されているところには、いかなる徳も欠けることが無く、すなわちそこに聖性が輝き出るからです。成聖の聖寵は、人間の感覚で認知されることの出来ないものですから、聖性に関する判断は諸徳の英雄的実践があるかないかによって判断されます。 天主によって注入されるいろいろな徳は、それぞれ密接に関連づけられていますから(これはいろいろな欠点が関係づけられていない、と言うことと反対です)、聖人の霊的組織は、道徳的諸徳の統合であり、しかも顕著な程度まで全て高められているものです。少しでも諸徳に欠けるところがあると言うことが分かれば、それはその人において、成聖の聖寵の完成が存在していない、ということの印です。 しかし、成聖の聖寵という天主の愛は、全ての人々に共通にある自然の条件を遙かに超越しています。成聖の聖寵は、自然が自分の力で持つことの出来ない、自然が自分に固有のものだと主張することの出来ない、天主の無償のたまものなのです。
聖トマス・アクイナスは、永遠の救いを得ることについて、こう言っています。 従って、私たちは聖性と英雄的な徳の実践と言うことについて聖トマス・アクイナスと同じ結論に至ることが出来ます。 つまり「聖性とは完全な天主への愛であり、これは自然に共通の水準を遙かに超え、しかも、この自然は原罪の腐敗によって成聖の聖寵を失って以来、さらにその程度は強まったので、聖人というのは、ほとんど少数しかいない。しかも、大部分の人々においては自然の共通の流れと傾きに従うので聖性を欠くが、或る少数の人々を聖性の高みまで高めるという、聖人の誕生には、天主の憐れみが極めて良く表される。」(神学大全 第1部 第23問 第7項参照)
ですから、聖性が極めて少ない、ということ、従って列聖が極めて少ないと言うことには2つの理由があるのです。
私たちは第3の理由を付け加えることが出来るかもしれません。 結論: 列聖の基礎となる聖性とは、超自然の命の特別な状態のことであり、一般の道を遙かに超えているという意味で特別である。 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) |