マニラのeそよ風

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第144号 2003/05/15 聖ヨハネ・バプチスタ・デ・ラ・サールの祝日

聖ヨハネ・バプチスタ・デ・ラ・サール
聖ヨハネ・バプチスタ・デ・ラ・サール


私を信じるこの小さなものを一人でもつまずかせたら、
その人はロバのひき臼を首に掛けて、
海の深みに沈められたほうがましである。
(マテオ18:6)

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 私たちは、日本カトリック司教協議会監修、カトリック中央協議会発行の『カトリック教会の教え』の考察をしています。

 この前はイエズスに付けられた「尊称」「称号」について見ました。今回はその続きの「主」ということについても考察してみましょう。『カトリック教会の教え』は、「主」という言い方についても、単なる「尊称」としています。


 『カトリック教会の教え』によれば「キリストの時代まで、聖書が「主」(アドナイ、キュリオス)ということばを使う場合、唯一絶対の神だけを指していました。ところが【ソノママ「ところが」!】、新約聖書はおなじ「主」をイエス・キリストを指すために頻繁に用い、キリストが神と同等の権威を持っていることを示しています。主とはもともと主人という意味で、天地万物は主のものなので、神こそ究極的な主であるわけです。しかし【ソノママ「しかし」!】神の子キリストは、この世において父なる神のみ旨を完全に果たされた方であり、こうして彼こそより世界と結ばれた主であるといわれるようになったのです。キリストこそ、この世における唯一の主、わたしたち一人ひとりの主、宇宙万物の主、歴史の主です。・・・」(102ページ)

 聖ピオ10世の公教要理は、教父たちと声を合わせて、使徒信経の第二箇条「その御ひとり子、われらの主イエズス・キリストを信ず」では、「天主の御子は三位一体の第二のペルソナで、御父と同じく全能永遠の創造主であること、そしてこの天主の御子をイエズス・キリストと呼ぶことを教え」ていると説明し、「イエズス・キリストを「われらの主」と呼ぶのは、かれが、天主として、御父と聖霊と共に私たちを創造されたのみならず、神人として、人間を罪から救ってくださったから」と理由を述べています。これが私たちのカトリック信仰です。

 しかし、新しい『カトリック教会の教え』は、イエズス・キリストが「主」と呼ばれているのは、「唯一絶対の天主」という意味ではなく、あくまでも比喩であり、「神と同等の権威を持っていることを示」すためであるといいます。もちろん「天主である」ということと、「天主と同等の権威を持つ」と言うこととは全く違います。

 『カトリック教会の教え』を読むと、「イエスは、神がこの世に働きかけようとしておられること、自分がその開始を告げる決定的役割を担うものであることを自覚し」(73ページ)「彼がその宣教の始めに全てを見通していたとも言えない」(89ページ)けれど最終的には、自らの受難と死によって神のいつくしみをあかしすることが、自分の使命であると気づいていったのでしょう」(89ページ)「イエスは自分の死を予測した上で、進んで覚悟の最期を遂げ・・・これが、・・・最も重要な使命であると受け止めていたと思われます」(90ページ)。そして「自分の使命がメシア的なものであることを充分意識し」(100ページ)この世において父なる神のみ旨を完全に果たされた方」(102ページ)であるが故に「世界と結ばれた主」(102ページ)と呼ばれるようになったと理解されます。つまり「ナザレのイエス」は、初めて自分が「メシア的」なものであり、「キリスト的」であることを自覚した最初の人間であって、テイヤール・ド・シャルダン的に言えば人間意識の進化の究極である「オメガ点に到達した」人間であると言っているようです。岩島師が「キリストこそ・・・宇宙万物の主、歴史の主です。・・・」(102ページ)と書いているとき、私たちは、ここでテイヤール・ド・シャルダンの用語がそのまま使われていると思わずにはいられません。


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(この項は続きます)

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)