マニラのeそよ風

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第110号 2003/04/05

エゼキエルの幻視 / ラファエロ (1518)
エゼキエルの幻視 / ラファエロ (1518)

アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、戦争のニュースを聞くたびに私たちも死ななければならないことを思い出しましょう。四旬節の黙想として「臨終について」をどうぞ。

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)



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臨終について


 その1

 今日にも死なねばならないと聞いたならば、誰しも俄かに狼狽して、なお1年、いや1カ月の猶予を求めようとし、その為には大金を投げ出しても惜しくはあるまい。しからば、只今から志を定めて、為すべき事はサッサとしておくがよい。死に臨んでは何一つできるものではない。

 しかもその死のやってくるのは何時かわからないからである。今年か? 今月か? いやいや今日ではあるまいか?

 どうも今のままで死にたくないと思うならば、どうして今のままで月日を送ろうとするのだろうか? 人が急に死んだのを見ては、「マアかわいそうに。何の用意もするひまも無しに・・・」と気の毒に思うのではなかろうか? それなのに自分はその大切なひまを持っていながら、なぜ急いで用意に取り掛からないのだろう?

 主よ、私はいよいよ決心した。これからは御胸に刻まれている私の名を余儀なくも削り去らねばならぬような事は決して致すまい。私は深く主の御憐れみを感謝し奉る。なにとぞ私を助けて行いを改めさせてください。主は私の救霊を望み給い、私も心からこれを望んでいる。願わくば私を憐れんで救霊の恵みを得さしめ、永遠に主を賛美し、主を愛し奉らしめ給え。

 臨終に際して、病人の手には十字架が握らされ、今となってはイエズスの他に信頼でき慰めとなる者はいないのだ、と注意される。しかし今まで十字架もイエズスも愛したことのない人は、これを見ても、慰めはおろかかえって言い知れぬ恐怖を感じるだけであろう。これに反して平素からイエズスを愛し、その為には万事を擲つことを厭わなかった人ならば、この十字架を手にして、これに恭しく接吻するとき、いかなる心楽しい気分を覚えるであろうか。

 最愛のイエズスよ、主は私の全てにましませば、今も臨終の時も、私の唯一の愛の対象とならせ給え。


 その2

 心に罪の重荷を背負っている病人は、ただ「永遠」という語を耳にするだけでも身震いするぐらいである。憐れなる彼は、ただ病の辛さ、医者、薬などのほかは語りたいとも思わない。霊魂のことに対して話題にする人がいると、直ちに嫌気を覚え、「どうぞ休ませてちょうだい!」と話題を打ち切ってしまう。

 病がいよいよもう如何ともしがたい状況に至って、やっと迷いの目を醒まし、「ああ、行いを改める月日があったなら!」と嘆息し、いくらかの猶予を求めようとする。しかし「もう出発の時が来た。早くこの世を去れ!Proficiscere de hoc mundo (臨終の信者にする教会の祈祷文)」と言われるばかり。「今一度他の医者にかかりたい、他の治療法を試したい」と頼んでも、「医者?治療法?今は永遠に入るときです!早く!早く!」と促されるばかりであろう。ああ、その時ばかりは、果たしていかなる気持ちがするであろう。

 「キリストを奉じる霊魂よ・・・この世を去れ」(祈祷文68)かねてより主を愛し奉る熱心な信者は、この「去れ」という命令を受けても、決して肝を冷やすようなことはない。かえって自分が万事を超えて愛し奉るその御主を失う気遣いも、いよいよ今日で最後かと思って言い知れぬ喜びを感じ、小躍りするばかりである。

 「願わくば汝、今日安楽の座を占め、天国の中に住いを得んことを」(祈祷文268)、自分は主の聖寵を保っていると安心して静かに死の来るのを待っている人の為には、いかに楽しい言葉であろう。

 主よ、私もこの安楽の座に導かれ、喜び極まって、今こそ主を失い奉る心配がなくなった!と叫ぶことが出来なければならぬ。主の値高き御血の功徳によって、私は熱くこれを望み奉る。

 「主よ、僕の叫びを憐れみ、その涙を憐れみ給え」(祈祷文268)、愛すべき御主よ、私は臨終の時を待たず今から我が罪を憎み嫌い、これを一心に痛悔し、悲しみの余り胸が破れてしまいたいと望み奉る。嗚呼、無上の善にてまします主よ、私は主を愛し奉る。私は主を愛し奉る。私は一生涯愛しては嘆き、嘆いては愛して、身を終わりたいと決心し奉る。

 「主よ、彼は異なれる天主に造られし者に非ずして、活ける真の天主に造られし者なることを認めたまえ」(祈祷文268)、ああ主よ、私は主のために造られた者であれば、何とぞ私を退け給うことなかれ。私も今までこそ主を軽んじ奉ったが、しかし今では万事を越えて主を愛し奉る。主のほかには何一つ愛さない決心をしているのである。


 その3

 平素から格別主を愛していなかった人は、臨終の聖体を見ても何となくうら怖ろしく覚えるものである。しかし、かねがね主の他に愛するものなしと言うぐらいの人ならば、主が忝くも永遠の旅路の糧とも、道連れともして、己のあばら屋を訪れてくださったことを思って、希望に満ち、感涙に咽ぶのである。

 塗油の秘蹟を授かる段になると、悪魔はこれまでに犯した罪を急に思い出させて失望の淵に突き落とそうとするかもしれぬ。であるから今のうちに残らずその罪を痛悔・告白して罪の赦しを得ておかねばならぬ。秘蹟を授かり終われば、親戚、友人は退き去って、ただ病人一人が十字架と共に残されるであろう。

 主よ、臨終に際して、人はみな私を棄て去るとしても、主のみは決して見捨て給うことなかれ。私はただ主お一人を杖とも柱とも頼み奉る。「主よ、我主に信頼したれば、永遠に辱められじ」(詩篇30-2)

 ああ聖母よ、御身は罪人の御母にましまして、いかなる重罪人でも御前にはせ寄ると、決してお見捨てになることはない。私の臨終に際しても、なにとぞ憐れみの御手を伸ばし、来たり助け給え。アーメン。



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