マニラのeそよ風

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第98号 2003/03/20


アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、

 アメリカとイラクとの戦争が、今日始まってしまったようです。残念です。

 さて、大阪では20日(木)午後7時に聖伝のミサがあります。とくに、戦争が多くの犠牲者を出さないように、平和が与えられるように、聖伝のミサでお祈り致しましょう!

 今回も、四旬節の黙想の続きです。

 今回は、聖アルフォンソ・デ・リグオリによる「私たちの主イエズス・キリストの愛に報いるに愛をもってせよ」を黙想しましょう。

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)


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私たちの主イエズス・キリストの
愛に報いるに愛をもってせよ


 その1

 謹んでカルワリオの頂を仰ぎ、最愛のイエズスが十字架に磔られて御死去あそばされる痛ましい光景を望み見よ。なんといかなる苦悶の淵に沈み入り給うのか!

 主が十字架の上に、かかる怖ろしい苦悶を耐え忍び給うのは、私を殊のほか愛し給うが故である。もし私に対する愛情が薄かったら、主の御苦悶もこうまでにはならなかったであろう。

 ああ最愛のイエズスよ、十字架の上にて御身に重なり落ちた苦しみ、辱めは果たしていかばかりであったろうか。尊い御体は三本の釘で吊り下げられ、御手は裂け、御足は破れ、全く御傷の上に息し給う痛ましき有様なのに、御身を取り巻く責人達は少しも心せず、かえって様々に罵り、嘲り、果ては怖ろしい冒涜の言葉さえ容赦なく浴びせかけるのであった。しかし主の美しき御霊魂は、御肉体にも優りて、幾倍と激しい悲しみの淵に沈み入り給うたであろうか。

 いかなれば主はかくまでも苦しみ給うのであるか?ああ思えば主の御苦しみも御悩みも、ただ私を愛し給うが故に他ならぬ。いくら私でも主の御愛情のかくまで熱烈なのを見ては、どうして一心に主を愛しないでおられよう。

 主よ、私は主を愛し奉る。私を愛して死に給うた主を愛さないで、誰を愛するのだ。私の愛するイエズスよ、私も今までは主を軽んじ奉ったにせよ、今は心の底よりそれを悔い悲しみ、あらん限りの力を傾けて主を愛し、この身を挙げて全く主のものになり奉りたい。主よ、私の罪を赦し給え。私の心を堅く主に結びつけ給え。主の聖なる愛もてこれを縛りつけ給え。傷つけ給え。燃やし給え。


 その2

 主は私を愛する情に駆られ、自ら御手足を差し伸べて十字架に釘付けにされ、私の為にその二つとなき御命を天の天主に捧げ給うた。

 最も愛すべき救い主よ、主が私を贖わんとしていかに貴き代価を払い給うたかを思っては、希望の光が自ずと輝いてくる。私の罪がいかに重くとも、その数がいかに夥しくとも、主の償いの価は更に大きい。救霊の希望を失う訳は一つもない。ああ私の唯一のより頼み、唯一の愛にてましますイエズスよ、私は今まで主に背いただけ主を愛し奉りたい。私は多く背いたのだから、また多く愛し奉りたい。この望みは主がお与え下さったものであるから、これを全うする力をも恵み給え。

 永遠の御父よ、「汝のキリストの御顔を顧み給え」(詩篇83-10)何とぞ十字架上に死に給うた御子を顧み給え。その蒼褪めた御顔を、その茨を被る御頭を、その打ち貫かれたる御手足を、その裂け破れたる御体を眺めさせ給え。これこそ私の為に屠られ給うた生贄である。今謹んでこれを御前に捧げ、伏して御憐れみを祈り奉る。

 最愛のイエズスよ、御受難の功徳を御父に捧げて、私の為に罪の赦しと、主の愛熱とを乞い求め給え。主よ、私はどうしても主を忘れ奉ることができない。主が私の罪を贖わんとして、十字架上に苦しい苦しい御死去を遂げられたのを仰ぎ見ながら、どうして主の他に何かを愛せよう。私の罪故に主はかかる怖ろしい刑罰に処せられ給うたのだと思えば、余りの悲しさに絶え入る思いがする。主よ、私を憐れみ給え。私の罪を赦して、心より主を愛せしめ給え。


 その3

 「彼は我等を愛し給い、御血をもって我等を清め給えり」(黙示録1-5)、主は実に私の霊魂を洗い清めんとして、その価高き御血を流し尽し給うた。されば私が善を修め、徳を研き、身を聖ならしめることについては、過去の罪がどうであろうと、そんなことは少しも心配するには及ばない。ただ痛悔して心を改めると堅く決心するまでのことである。

 十字架の上に苦しみながらも、主は私の事を思い給うた。私が今日までお受けした御憐れみ、御恵みは既に十字架の上に用意しておかれたのである。ちょうど私一人の霊魂の他に救うべき霊魂が無いものの如く、ひたすら私を愛し給うたのである。

 愛すべきイエズスよ、主は十字架の上より、私が一生の間に犯すべき罪をご覧になりながら、罰を備えずして、かえって御光やら、罪の御赦しやらを用意してくださった。主よ、私はかかる大恩をいただきながら、どうして再び罪を犯して主に背くことができよう。

 どんなことがあっても、そればかりは断じて許し給うな。もし万一主の愛に悖るようなことをやりだすであろうと見給わば、むしろ、今、潔く死なしめ給え。私はサレジオの聖フランシスコと共に「愛か死か、死か愛か」と申し上げたい。実に私は主を愛しなければ死んでしまいたい。死ななければぜひとも主を愛し奉りたいのである。

ああ聖母よ、私を御子の愛に燃え立たしめ給え。アーメン。


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