マニラのeそよ風

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第88号 2003/03/11 四旬節第1主日後の火曜日


アヴェ・マリア!

 3月19日は、カトリック教会の守護者である、聖ヨゼフの大祝日です。兄弟の皆様は、祝日の前の準備のノベナ(9日間の祈り)を始めましたか? えっ?もう昨日から始めている。大変結構です! まだの方は、どうぞ、今日からでも始めて下さい。

 聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

 さて、今回は、四旬節の黙想として「キリストにならいて」からの抜粋をお送りします。

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)


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四旬節の黙想 「キリストにならいて」


 弱くてもろい人間を、余りたのみにしてはならない。あなたに有益な人であっても、それをひどく頼りにしてはならない。今日あなたの味方になっている人が、明日あなたに、さからうこともあり、その逆の場合もある。人間は、風のように変りやすいものだ。あなたの信頼を天主に置け。そうすれば天主が、あなたの唯一の愛、あなたの唯一の畏敬となるだろう。かれは、それ以上は考えられないほど、あなたのために話し、あなたの身を思ってくださる。あなたの不朽の住居は、この世にはない(ヘブライ13・14)。どこにいても、あなたは他国人であり、旅人である。キリストと親しく一致していないなら、あなたはいつも安らかさを知らないだろう。

 ここには、あなたに休みをあたえる所がないのに、なぜ、あたりを見回すのか。あなたの住居は、天にある。立ち止らずに行きすぎていく人の目でもって、この世のすべてを見なければならない。何もかも過ぎさって行く、あなたも同様である。あなたは、この世の奴隷となって亡びないように、この世のことに執着しないように気をつけよ。あなたの考えを常に高きお方に上げ、あなたの祈りを、いつも、キリストにむけよ。もしあなたが、すぐれたことや、天上のことを、観想しえないとしても、キリストのご受難に専ら心をむけ、その聖なる傷の中に、よろこんで住むようにせよ。あなたが、敬虔に、キリストの傷と、尊い聖痕とに身をかくすなら、艱難のときに、大きな慰めを得、他人に軽んじられても、それを心にかけず、他人の悪口を、よろこんでしのべるだろう。

 イエズス・キリストも、この世にあっては、人々に軽蔑され、苦難の最中に、知人や友人から見すてられて、ただ一人、罵りの中に取りのこされた。キリストは、くるしみと侮辱とを受けようとのぞまれた、それなのに、あなたは、些少なことで、隣人に不満を言おうとするのか?キリストにも、反対者があり、悪口する人があった。それなのに、あなたは、皆から恩恵と友情のしるしを受けようとするのか。何の苦しみにもあわないなら、あなたの忍耐は、どんな報いに値するのか。反対にあうことをすべて嫌うあなたが、どうして、キリストの友人になれようか。いつか、キリストの国に入りたいと思うなら、キリストとともに、そしてキリストのために忍耐せよ。

 あなたが、ただ一度でも、キリストの聖心にはいって、そのはげしい愛の一片でも味わうことができたら、あなたは、自身の好悪や苦楽を気にかけず、むしろ、侮辱されてよろこぶだろう。イエズスを愛すると、人間は自分自身を軽蔑するようになるものである。イエズスと真理とを愛し、すべての執着をのがれ、真に内的な生汚をおくっている人は、たやすく天主に向かい、精神をもって高く上り、慰めのうちに休むことができる。

 他人の話や批評によらず、そのものの価値によって、物事を評価する人こそ、真の知恵者であり、人間よりも天主によって指導されている人である。内的な生活を知り、物事を外部だけで判断しない人は、信心の修行のために、特別な場所と時とをさがす必要を感じない。内的生活を営んでいる人は、たやすく潜心することができる。かれらは、外部のことに押し流されることがない。また、日々の仕事や、一定期間のつとめも、さまたげにはならない.かれらは、ことがおこると、いつもそれに対処し得る。心がよくととのい、かき乱されることのない人は、他人の珍しいおこないや、けしからぬふるまいに、気をとめない。人は、世間のことがらに、かかわればかかわるほど、妨げられて気が散るものである。

ほんとうに真直な心をもち、清められた精神の所有者なら、あなたは、すべてのことから善をくみとって、自分に役立てることができる。ところが、あなたは色々なことを厭い、いろいろ惑わされる。それはあなたが、まだ自分に死にきっていないからだ。世俗のことがらに対する、不純な執執着ほど、人間の心を汚し、また縛るものはない。あなたが、俗世の慰めをすてるなら、天に目をあげ、しばしば心のうちに、大きなよろこびを感じるだろう。

(キリストに倣いて 第2巻 第1章より)


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