マニラのeそよ風

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第86号 2003/03/01


アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、待ちに待った四旬節が近づいています!

◎ 現行法による日本における大斎日は2日あります。大斎日は小斎も兼ねます。1983年発布のカトリック新教会法典によれば、満18歳以上満60歳以下の全てのカトリック信者が守らねばなりません。すなわち、灰の水曜日と聖金曜日です。

 今年2003年の灰の水曜日は3月5日、聖金曜日は4月18日です。
(ご参考までに日本における大斎日は、以前は、四旬節の全ての金曜日と御降誕祭前日(12月24日)でした。)

 ところで、聖ピオ10世会の司祭、修道者たちは、次の日も大斎を守っています。皆様もできる方はどうぞ大斎を捧げて下さい。(但し、その日が主日に当たる場合には、大斎をしません。)

四旬節の全ての金曜日
全ての四季の斎日の水、金、土曜日
御降誕祭前日(12月24日)
聖霊降臨の主日の前日
聖母被昇天の前日(8月14日)
聖母の無限罪のおん宿りの前日(12月7日)
諸聖人の祝日の前日(10月31日)

◎ 現行法による日本における小斎日は全ての金曜日です。これは、1983年の新しい教会法によれば、満14歳以上の全てのカトリック信者が死ぬまで守らねばなりません。

 1917年の古いカトリック教会法典では、7歳以上の信者から小斎の義務がありました。また、ご参考までに、日本における小斎日は、以前は次の通りでした。

毎金曜日
四旬節中の水曜日
四季の始めの水曜日
聖霊降臨祭と聖母被昇天と救い主の御降誕祭との前日です。


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聖アルフォンソ・デ・リグオリによる
小罪を怖れることについての黙想


 その1

 小罪をもって、軽い、なんでもない罪のごとく見なすのはとんだ思い違いというものだ。主に背き奉るのを・・・御威光限りなき主に背き奉るのを、どうして軽い罪と言えようか?

 「救霊できさえすればたくさんよ」と言って、平気のへの字で小罪を犯す人が世の中には少なからずいる。しかしそんな心ではその救霊はなかなかおぼつかない。罪の道は非常になめらかである。その倒れた所にいつまでもじっとしていられるものではない。次第に下へ、下へと落ち込んでいくのは自然の勢いである。そのうえ、平気で小罪を犯すのは、主を愛する心の足りない証拠なので、そんな人はついには主に見限られて大罪の淵に落ち込むのは智者を待たずして知るべきである。主はかつて福者ヘンリ・スーソにおっしやったことがある。「小罪を怖れない霊魂は、思ったよりも大きな危険にさしかかっている。小罪を怖れずして、永く聖寵を保っていくことは、すごぶる困難である」と。

 トリエント公会議の教えによると、「人は主の特別の御助けがなくては、永く聖寵の状態に留まることができるものではない」(Sess. 6, can. 22) ところで、何の憚りも無く小罪を犯し、それを悔い改めようともしない人が、主の特別の御助けを得られようか。特別の御助けを得られなくては大罪の泥の中に転げ込んでしまうのも不思議ではない。

 主よ、罪に従って私を処罰し給うな。私が今まで御心を痛め奉った罪は数限りないが、何とぞ御憐れみを垂れてこれを残らず忘却の墓に葬り、かえって主の御光と御助けとを豊かに恵み給え。私は今より行いを改め、一身をあげて全く主に捧げ奉る。ああ全能の天主よ、私を受け付け給え。私の心を一新し給え。


 その2

 「ひときわ高き完徳の道を進むべく聖寵を蒙りながら、まげて普通の道によらんとする者は、必ず棄てられる」と主はかつてフォリノの聖アンジェラにおっしゃった。

 ましてそんな有難い聖寵をいただきながらも、平気で小罪を重ねていては、主に見限られるのも不思議ではあるまい。

 主に仕え奉るとはいうものの、己が恥ずかしい欲を遂げんがため、小罪を犯してその御旨に背き奉るのを意としないのは、これ、取りも直さず、主に対してそこまで注意してお仕えするには及ばない方であると言うも同然である。言い換えれば、私欲の満足を擲ってまで御心を喜ばせ奉らねばならない程に主は愛すべき御方ではない、と言い現すようなものではないか。

 聖アウグスチヌスも言った如く、勝手に小罪を犯して、それを改めようともしない霊魂は、汚いらい病人の如き者だ。流石の主でも、これを抱き上げて可愛がる気にはならぬ事は怪しむに足りない。

 主よ、私はとっくに主に振捨てられている筈なのに今日までそうしては下さらなかった。御慈しみの程は感謝に堪えないところである。何とぞ御力を添えてこの生ぬるい心を脱ぎ捨てしめ給え。今よりどんなことがあろうとも知りつつ一つの小罪すら犯さぬ決心である。私は一心に主を愛し奉る。主よ、私はただ御憐れみにこの身を任せ奉る。


 その3

 聖フランシスコは「悪魔はなかなか姦計に長けているので、初めから人を大罪に引っ張り込もうとはしない。最初は細い髪の毛でこれを繋ぎ、次に細糸でこれを縛り、またその次は縄を打ちかけ、遂には鎖でくくりあげて、全く己の奴隷とするのである」と言った。だからいかほど小さな私欲にでさえ心を繋がれないように注意しなければならぬ。私欲にからまっている霊魂は、既に滅んでいるか、あるいは滅びの道に足を踏み入れているかである。

 マリア・ヴィクトリア・ストラーダはこう言った。「悪魔は多くを掴むことができなければ少し掴んでも満足する。しかしその掴んだ少しを手がかりとして、遂には残らず掴み取ってしまうに至るのだ。」油断をしてはならぬ。悪魔にちょっとでも爪をかけられる事が無い様、注意するのが何よりも肝要である。

 生ぬるい霊魂は主に嫌がられる。「汝は冷たくも熱くもなく、生ぬるきがゆえに、我は汝を口より吐き出す」(黙示録3-16)と主はおっしゃった。吐き出されるとは主に棄てられるという意味だ。ひとたび吐き出したものは、だれだって再び口には入れまい。

 生ぬるさは例えるならば肺病患者のようなものだ。最初は格別気にもつかないぐらいだが、それでも霊魂は次第に衰弱して、聖寵の勧めも、良心の咎めも感じなくなり、遂には死亡の不幸を免れることはできないのである。

 主イエズスよ、私を憐れみ給え。私の恩知らずの罪を思わず、かえって私の為に堪忍び給うた数々の御苦しみを思い巡らし給え。私はこれまで散々に主の御心を痛め奉った。今、一心に悔やみ悲しみ奉る。ああ主よ、私は主を愛し奉る。御望みとあらば、どんな事でも致すであろう。今までは大いに主に背き奉ったが、今からは命のあらん限り、熱く、熱く主を愛し奉る。

我がより頼みなる聖母マリアよ、私の為に祈り給え。アーメン。


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