マニラのeそよ風

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第75号 2003/01/12 聖家族の祝日


アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、今日は聖家族の祝日です。今回から数号にわたって、アメリカの聖マリア校の学頭であるラモン・アングレス神父のなさった、『聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について――カトリック教会法の研究――』を紹介したいと思います。

 なるべく分かりやすいものとしようと努力するつもりですが、内容が内容だけに、すこし退屈だと思われるかも知れませんがなにとぞ、ご容赦をお願いいたします。 (-_-;)

 今回は、「裁治権」とは、何か? 何のためにあるのか?についてです。

 私たちの家庭が、カトリック教会が教えてきた聖伝に従ったナザレトの聖家族のような家庭となりますように、そのために、聖ピオ10世会が少しでも皆様のお役に立てますように、ここに心からお祈りを申し上げます。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)




聖ピオ10世会の司祭の施す告解及び婚姻の秘跡の有効性について
――カトリック教会法の研究――
ラモン・アングレス神父(聖ピオ十世会司祭)著
トマス小野田圭志(聖ピオ十世会司祭)編・訳


1 裁治権を考察する


1.1 問題点

 聖ピオ10世会の司祭たちは有効に叙階されてはいるが、裁治権を持っていないこと、またマルセル・ルフェーブル(Marcel Lefebvre)大司教とアントニオ・デ・カストロ・マイェール(Antonio de Castro Mayer)司教によって聖別された4名の司教たちも裁治権を保持していないことは、事実です。

 しかし、カトリック教会法872条によれば、罪の赦免が有効であるためには、悔悛の秘跡の執行者(すなわち告白を聴く司祭)が、品級権(有効に叙階された司祭の持つ品級の秘跡による権能)の他に、悔悛者に対して裁治権を有することが必要です。またカトリック教会法1094条によると、通常の婚姻挙式の方式には主任司祭もしくは教区裁治権者、またはそのいずれかが委任した司祭の立ち会いが婚姻の有効性のために必要とされています。

 ところで、聖ピオ10世会の司教たちは世界中で堅振の秘跡を施し、聖ピオ10世会の司祭たちは、教区裁治権者からの直接の委任を受けずに、多くの場合、教区裁治権者の意に反して、告解の秘跡を執行し、婚姻に立ち会っています。

 もしも聖ピオ10世会の司祭たちが裁治権を持たないのなら、なぜ告白を聴いたり婚姻に立ち会ったりすることができるのでしょうか?

 この研究では、いかにカトリック教会の法律が聖ピオ10世会の側に立っているか、現代という信仰の危機の時代にあってカトリック教会法典が私たち聖伝を守るものの友であるかということを見てみたいと思います。


1.2. 裁治権とは何か?

 ここでは、裁治権の基礎とその存在についての詳しい研究をするつもりはありません。ただ私たちがこれから話をしようとする「裁治権」とはいったい何のことかという裁治権の概念についてのみ触れたいと思います。

 司法上完全な社会とは、それ自身の秩序において完全で完璧な目的を追求する社会です。すなわち、このような完璧な目的に到達するのに必要な手段を持っており、自分自身の秩序において自己充足的な社会のことであり、独立した完全に自立的な社会です。 (Ottaviani, Institutiones Iuris Publici Ecclesiastici, # 25).

 社会が完全であるか不完全であるかという司法上の身分は、社会の目的によります。教会はその超自然的な目的のために、教会に属する者たちの永遠の救いを得るために彼らを統治する権威を持っています。この権能は天主の定めたもので(カトリック教会法196条)、教会の裁治権、すなわち統治権(potestas iurisdictionis seu regiminis)と言われています。

 カトリック教会は、完全な目的を持ち、その目的を得るための完全な権利を持った、完全な社会です。教会の目的は霊魂の救いであり、それを得るための手段は、教会の創立者である天主イエズス・キリストが教会に委ねたもので、すなわちイエズス・キリストの教え、霊魂を聖化する秘跡、霊魂を統治する位階階級的な構造です。これらの手段は私たちの主イエズス・キリストが教会に与えた3つのmuneraすなわち職務に対応しています。すなわち、munus docendi (教える職務), munus sanctificandi (聖化の職務), munus regendi (統治の職務) の3つです。カトリック教会は私たちの主によって与えられた3つの職務に忠実にとどまり、与えられた手段を使うことによってカトリック者の霊魂を天国の永遠の救いへと導くのです。

 上記の大原則に従いながら、教会法学者であるカペッロ(Cappello)は、教会における裁治権についての条項であるカトリック教会法196条をこう説明しています。
Jurisdictio ecclesiastica generatim sumpta, est potestas publica regendi subditos in ordine ad vitam aeternam. (Cappello, Summa Iuris Canonici, #242).
(一般的な意味に取られた教会の裁治権とは、永遠の生命への秩序において被統治民を統治する公権のことである。)

 裁治権と言うとき、私たちはカトリック教会が有している裁治の権力、つまり統治権のことを意味しています。カトリック新教会法は、古い表現であるpotestas jurisdictionis「裁治の権能」(カトリック新教会法129条)をそうとも呼ばれていると但し書きを付けてはいますが、むしろ、potestas regiminis(カトリック新教会法129条)と言う表現を好んでいます。

 カペッロは言葉を続けます。
Dicitur PUBLICA ut a dominativa (patria, maritali, herili) distinguatur; REGENDI, ut indicetur discrimen inter ipsam et potestatem ordinis quae directe et immediate ordinatur ad sanctificandos homines; IN ORDINE AD VITAM AETERNAM, ut exprimatur finis ultimus ad quem directe refertur, qui utrique potestati communis est.
(一般的な意味に取られた教会の裁治権とは、「公権」であると言われるが、それは私権(父権、夫婦権、相続権)と区別するためである。また被統治民を「統治する」ものであると言われるが、それは人々を聖化するために直接・密接的に秩序づけられている品級の権能との違いを示すためである。また「永遠の生命への秩序において」と言われるが、それはこの権能が直接に向かう究極の目的(それは統治権及び品級権の両権能の共通の目的である)を示すためである。)

 私たちはこの大原則をこの研究を読むに当たり、いつも念頭に置いて下さい。
 教会において裁治権は霊魂たちの永遠の救いを得させるために行使されなければならない、と言うことです。これが最も本質的な概念です。カトリック教会は霊魂を救うために裁治権を持っているのです。カトリック教会のどのような法律箇条であれ、もしもそれを守ることによって、この大原則である救霊を危うくさせてしまうものがあったら、それは強制力を失うということです。何故なら、カトリック教会は自分の目的である救霊に矛盾することはできないからです。
 ですから、カトリック教会法典は、次の素晴らしい公理を常に念頭に解釈しなければなりません。
 Prima lex salus animarum.
 すなわち、「最高の法は霊魂の救いである」ということです。


1.3. 裁治権の本性とその根元

 正確を期すなら、裁治権という代わりに裁治の権能と言うべきです。サレジオ会のアゴスティノ・プリエーゼ師Agostino Pugliese, S.D.B.は、パラッツィーニ社から出版された『倫理神学辞典』(Dizionario di Teologia Morale)の裁治権の項の中で、次のようにはっきり書いています。

 「教会における裁治の権能は、立法、行政、司法の権威を含んでいる。従って、一方で品級の権能が品級の秘跡から由来し、教会の構成員を聖化するために直接に方向付けられているが、他方で、裁治の権能すなわち統治の権能は、最高で完璧な社会としての教会がその霊的目的に到達するがために指導され統治される必要があるという教会本性そのものに由来している。通常の場合、聖職者のみが教会裁治権を行使する。(カトリック教会法118条)」

 裁治権は、品級の秘跡を受けると自動的に与えられるわけではありません。まず教皇様が合法的に選ばれ、その選挙を自由に受け入れると、その時教皇様が裁治権をキリストから直接に受けます。裁治権をその他どの程度うけるかと言うことは、法定の任命によります。 (カトリック教会法 109条).

 この「法定の任命」とは、公式に職務を任命すると言うことで、「固有」の場合と「受任」の場合があります。

 「固有」の裁治権は、法律によって当然職務に自動的に付属しているものです。例えば、司教区の司教、あるいは法律上教区司教と同等の権威を持つ高位聖職者という職務がそれです。

 「受任」された裁治権とは、(職務ではなく)ある特定の人に託された裁治権です。この「受任」は合法的な長上がある行政行為として為すこともできますし、あるいは一般に法令によって為すこともできます。これについてはカトリック教会法197条以下をご覧下さい。

 そして、正に、カトリック教会法そのものによって、様々な特別な場合には裁治権は委任されています。つまり、その時カトリック教会法は、通常は裁治権を持っていない従属者において裁治権を補うのです。ここではこのような裁治権を「教会によって補われた裁治権」と呼びます。

 ここでまとめてみると、裁治の権能の根元はたくさんあることが分かります。

(1)

教皇は地上における教会の目に見える頭として教会をキリストの名前において統治するのであり、教皇はキリストご自身から裁治の権能を得る。(カトリック教会法109条及び218条)

(2)

教区司教の場合のように、裁治の権能がある職に自動的に付属している場合には、その職務に任命されることによって裁治の権能を得る。(カトリック教会法197条及び198条)

(3)

教区長がある司祭に自分の教区において告解を聴くことができるようにその権を与える(カトリック教会法874条1)など、ある長上から裁治の権能が合法的に「受任」された場合、その「受任」を受けることによって裁治の権能を得る。

(4)

カトリック教会法典それ自体が、カトリック教会法209条、882条、1098条及び2261条などの特別の場合を想定して裁治の権能を補う場合は、裁治の権能はカトリック教会法それ自体から得る。
(カトリック新教会法の844条及び1117条にあるような例外的な状況のことも忘れていません。)

 この研究では、カトリック教会法それ自体、聖座の判例、またこの件について取り扱った多くの注解書などの助けを得ながら、上の(4)を詳しく見て行くつもりです。それによって聖ピオ10世会の司祭たちの執行している告解の秘跡や婚姻の秘跡が、疑いの陰さえもなく、全く有効であり、完全に適法的であると言うことを証明したいと思います。

 最後に(4)で述べたカトリック新教会法844条及び1117条を適用すると言うことについては、ここでは付けたりに過ぎません。


1.4. 解決の材料としてのカトリック教会法

1.4.1. カトリック新教会法かそれともカトリック教会法か?

 この研究では1917年教皇ベネディクト15世が公布した聖ピオ10世教皇のカトリック教会法典を私は常に引用しています。この教会法典は1983年までラテン語のカトリック教会で知られていたものでした。しかしこれは「第2バチカン公会議の精神に相応しく教会が発展するように」(1983年1月25日付けの使徒憲章『Sacrae Disciplinae Leges』)カトリック新教会法に取って代わりました。聖ピオ10世会は、カトリック新教会法が第2バチカン公会議の教会と世界に対する新しい見解を取り込んでいる限りにおいて、カトリック新教会法の新しい精神とその条項に同意するものではありません。

 しかしながら、カトリック教会法典とはいろいろな法律の条項が同時に発布されたものであって、それらの条項が取り扱う内容によって別々の取り扱いをしなければなりません。つまり第2バチカン公会議の新しい教えと新しい精神を立法化した条項もあれば、聖伝に基づく教会の条項もあるのです。

 さて、私たちがここで取り扱っている内容に関しては、古いカトリック教会法典もカトリック新教会法典もほとんど同一の内容である、ということが言えます。

 教会法に関する教えの展開は、ますます広い解釈と自由へ進んでいるといる明らかな傾向がありますので、新しい教会法になればなるほど聖ピオ10世会にとってますます都合が良くなっています。ですから古いカトリック教会法典を引用してそれで聖ピオ10世会の立場が証明できれば、カトリック新教会法典においてもほとんど同じ、あるいはもっと有利な立場にある、と言うことができます。

 しかしながら、聖ピオ10世会の件に関しては、現行のカトリック新教会法典によって判断されると言うことを考えて、私は古い教会法典に対応しているカトリック新教会法典の条項にもしばしば言及したいと思います。

 また、教会法学についてあまりよくご存じでない方は、「昔の教会法条の教えは時代遅れである」あるいは「古い教会法典はカトリック新教会法典によって廃止された」、「したがって古い教会法典に関する解釈や意見などは引用しても無効だ」などと言い出すかも知れません。ですからここで私はカトリック新教会法典の6条2の "Canones huius Codicis, quatenus ius vetus referunt, aestimandi sunt ratione etiam canonicae traditionis habita" と言う条項を引用したいと思います。

 すなわち、カトリック新教会法典は、たとえ1917年の教会法典に取って代わろうとしても、旧法を再現している限りにおいて、教会法の伝統を考慮に入れたうえで解釈されなければならないのです。

 1917年の教会法第6条にもこれと同じようなものです。そこでは、前法を継承した条文は、前法の権威に基づいて、かつ権威ある学者の受け継いできた注釈のもとに解釈されなければならない、と言うのです。正に、このようなことなくしては、判例の研究や矛盾のない教会法研究など不可能になるからです。


1.5. 補われた裁治の権能とは何か

 カトリック教会は、私たちの母であって、自分の子供たちの善のために法律を作ります。母なる公教会にとって最高の法は霊魂の救いです。教会は霊魂たちを天国へと導くために霊魂を統治しているのです。教会において為される裁治権上の行為や行政上の行為には、裁治の権能が必要とされます。つまり、法によって要求されている形式上の手続きをすべてふまえたことを資格のない人がした場合、その行為はすべて無効となるのです。

 ところで、悪意にしろ、善意にしろ、資格のない人が無効の行為をし続けたとすると、どのような社会であっても混乱してしまいます。教会とて同じことです。

 このような危険に対して身を守ることは、良い統治がする機能の一つです。それは無効の行為が有効にならなければならない、と言う意味ではありません。何故ならそのようなことは立法者が自己矛盾を犯すことだからです。そうではなく、立法者が霊魂にとって一般的な危険があるときのために配慮すると言うことです。

 つまり、教会はそのようなとき裁治権を欠く行使者に裁治権を補いながら、救霊を配慮しているのです。そして、教会はこれを内的良心の法定においても、外的な法定においてもそれを補うのです。

 この裁治権を補うと言うことは、教会法典による受任(delegatio a iure)として考えられています。このような特別の受任を誰が託しているのかというと、それは一般教会法典です。つまり律法において既に考えられているからです。この裁治の権能は、継続して恒常的に与えられるのではなく、現にそのような状態におかれているときその時に(in actu)与えられます。裁治の権能を行使するものは、行使の前後にはそれを持っておらず、それを使うときにだけ与えられるのです。彼は、教会法典からの受任により、当の行為の執行が有効であるのに必要なだけ裁治の権能を保持するのです。

 教会は、人の身分や条件に関することだけを補いますが、しかし、行為の有効性のために法律によって求められている形式的手続きを補うわけではありません。また、教会は自分に委ねられている権能だけを委託することができるのであって、天主の法や自然法によって要求されていることを補うことはできません。例えば、品級の秘跡を受けていない平信徒は司祭ではないので、告解を聴くための裁治の権能を受けることができません。


(つづく)