マニラのeそよ風

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第71号 2003/01/07 新年明けましておめでとうございます。

降誕

今日、御身の御ひとり子を
導きの星によって異邦人たちに啓示し給うた天主よ、
既に御身を信仰によって知った私たちが、
御身のいと高き御稜威の目の当たりに見奉るまで導かれるよう、
憐れみ深くなし給え。

アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、新年明けましておめでとうございます。

 1月6日の御公現の祝日の大祝日に、カトリック教会は聖伝のミサの集祷文で三位一体の天主にこう祈っています。

今日、御身の御ひとり子を導きの星によって
異邦人たちに啓示し給うた天主よ、
既に御身を信仰によって知った私たちが、
御身のいと高き御稜威の目の当たりに見奉るまで導かれるよう、
憐れみ深くなし給え。・・・

 新2003年の最初にあたり、私たちは、この素晴らしい聖伝のミサの祈りを黙想しましょう。集祷文は、私たちの人生の究極の目的を示しています。つまり、「御身のいと高き御稜威の目の当たりに見奉る」ことです。

 私たちは、天主の永遠の命において天主を目の当たりに見て、限りなく、終わりなく、幸せになるために、天の御国において永遠に天主と共に幸せに生きるために、この世に生まれてきました。私たちの使命、私たちの旅路、私たちの冒険、それは、天国に行くことです。天国を目指すという真の大冒険を、聖父なる天主の手に引かれながら一歩一歩、歩むことです。

 天主を目指すと言うことは、聖性を目指すと言うことであり、マリア・ヴィノフスカの言うように、「聖性とは、結局、愛の冒険にほかならない。しかも、最も美しい冒険、万人がなしうる冒険である」(「アウシュビッツの聖者コルベ神父」聖母文庫p12)のです。

 天主の至福直感を望むという、いとも高きところを望むとき、人は、真の意味で偉大なものとなるのです。

 天国こそ、私たちの進む方角です。
 天国こそ、私たちの方針です。
 地上に住む私たちは、永遠の命を受ける候補者なのです。

 このちっぽけな私たちは、天主の憐れみによって洗礼の恵みを受け、天主の未来の永遠の選民、永遠の天の相続者なのです。従って、私たちのこの地上での生活は、全て天主へと向かっていなければならないのです。

 コルベ神父様は「聖性の公式」を次のように教えていました。v=V
 小文字のvは、私の意志(ラテン語でvoluntas)を意味しています。
 大文字のVは、天主の御旨(Voluntas)です。
 私の意志、意向、愛が自由に寛大に、天主の意志と一致するとき、小さなvは、大きなVの中にとけ込んで、一つの大きなVだけになります。しかし、私のわがままと利己主義と反乱が天主の御旨と反するとき、小さなvは、ひっくり返って^となり、天主の御旨と一致するどころかXという、大きなバッテン、十字架になるのです。

 コルベ神父様は言います。

「天主の意志とは、私たちが聖人となることです。」(「アウシュビッツの聖者コルベ神父」聖母文庫p218)

 そして、

「すべては、極めて簡単である。なぜなら、私たちは、絶対的に、無条件に、インマクラータ(無原罪聖母)に属するから」(同p219)

です。

 第2に、私たちは、目を天に向けると同時に、この地上の現実をも見ています。この地上で新年早々から、アメリカとイラクとの戦争の話、北朝鮮の核兵器の話など、聞かされています。

 私たち人間は、天主を忘れるとき、人間であることを忘れ、野獣のように身をおとしめるのです。天国を目指さないとき、私たちは、獣のように、自分の都合と自分の利益と快楽だけを追求し、他人を無視し、蹂躙し、殺戮して平気なのです。獣のようになった人は、自分の肉体と腹を、神として拝み、真の天主に戦いを挑むのです。そして、地球的な規模で、今、獣のような人々が、天主の権利を踏みにじり、サタンの手先として天主に戦いを挑んでいます。

 無辜の人々の生と死の最終の決定権は天主に属するものです。しかし、現在、毎年一千万という罪のない胎児が無惨にも殺されています。そしてこのような人殺しにも医療保険がかかり、母親は手軽に自分の子供を殺し、医者はそれでお金を儲けています。

 国連は「民主」の名前によって、莫大なお金を使い、例えばペルーで大量の避妊手術を行い、中国で堕胎を強制しています。(United nations Fund for Population Activitiesの活動を見よ。)

 また、安楽死は世界各国で立法化されようとしています。ナチスのように、国家の重荷となる人は、不要の人は、これから抹殺しようと準備をしています。

 昨年末には、天主ではなく「宇宙人」を信じる団体が人間の複製を作ったと主張していました。クローン人間を作るのは医療目的、などというのは、単なる口実のひとつに過ぎません。サタンには、天主に対する戦いを遂行する上で、世界創造以来かつてなかった前代未聞の作戦があるのだと思います。

 また婚姻という制度は天主が制定したものです。天主が原初に男と女を作り、婚姻によって一人の男と一人の女が一つの肉となることを定めました。天主を無視する「民主」議会は、同性愛者にも天主が作った婚姻と同じ権利を与えようと動いています。ソドマとゴモラをもう一度この世に出現させようとしています。

 現在、人間は天主と等しい地位に立とうとしています。
 人間は、天主なしに人間を作り出そうとし、
 天主なしに人間を自由に殺し、
 天主なしに婚姻を作り出そうとしています。
 天主なしにこの地上を「天国」に変えようとしています。

 かわいそうな現代人!本当の幸せと人生の本当の目的を知らずに!
 天主のようになる代わりに、悪魔のようになり、
 天国を作り出す代わりに、地上を地獄に変えています。

 第3に黙想したいことは、現代の「博士」たちについてです。現代人が、ベトレヘムの貧しい馬小屋に眠る天主を見たら、何と言うことでしょうか? 永遠の天主が、時において人となった! 全宇宙を作り出した栄光の天主が、氷点下の風の吹きまくる冷たい真夜中に、家もなく、友からも、親類からも見捨てられ、動物の小屋でうまれた!

 王の王、主の主が、目も見張る大宮殿ではなく、臭い、みすぼらしい、寒々とした、動物のえさを置く馬草桶で寝ている。この世をご自分の意志のまま動かすことの出来る全知全能の天主が、みすぼらしい布きれにくるまって、自由に動くことも出来ず、乳を欲しがって泣いている。

 天主のこの謙遜を見て、現代の「東の国の博士たち」は何と言うことでしょうか?

 現代の「東の国の賢者」は、一人は日本の有名な名門大学の博士教授、
 もう一人は日本の経済学の博士号を取ったトップ・ビジネスマン、
 もう一人は法学博士の日本の政治家です。

 この3人の「博士」たちは、馬小屋の前に突っ立って、跪こうとはしません。「ああ、クリスマスのお話は、良いね。」と、彼らはセンチメンタルな雰囲気に酔いしれているようです。幼きイエズスはかわいいね。あの羊がかわいいね。あの羊飼いは、どうのこうの、と文化的、歴史的背景は、批評を述べています。

 ところで、私たちがこの「博士」たちに、私たちの主イエズス・キリストの本当の秘密を教えたら、何と言うでしょうか? この幼子が、生ける天主の御ひとり子、天主からの天主、光からの光、まことの天主からのまことの天主、創られずして生まれ、聖父と一体なる天主御子であること教えたら、何と言うことでしょうか?

 現代の「博士」たちは、私たちの主イエズス・キリストが何を持っているかに興味あるのです。
 ただで借りているあばら屋の借家。
 学歴もなく有名な企業にも勤めていない賃金労働者である貧乏な父親。
 痩せて充分な食事も取っていないように見える貧しい服を着た母親。
 四方から風が吹きまくる中で、暖房らしい暖房もなく、真夜中に生まれてきて、粗末な布にくるまって、飼い葉桶に寝ている赤ん坊。
 全てが、「現代文化」の正反対をいっています。

 もし私たちの主イエズス・キリストが正しいなら、現代文化は狂っています。
 現代文化とは、なんでしょうか?
 現代文化とは、人間中心主義です。
 現代文化は、天主の代わりに、民主を最高の神と拝みます。
 現代文化は、誇大妄想狂です。
 現代文化は、お金と富と権力を礼拝しろと命じます。
 現代文化は、傲慢にふくれあがり、権力と富を誇示しようとします。
 「科学」「高度な科学技術」「知識」を誇る人類。

 数千万冊を容れる巨大な図書館、博物館と動物園と水族館、大学と大学院での長年の研究、インターネットでの検索と、PTAの度重なる会合、ビデオとDVD、コンピューターとによる情報革命による教育、新幹線とリニアモーターカー、飛行機とその他の高速大量移動手段、光ケーブルに通信衛星、携帯電話にテレビ電話。患者の治療よりも大切な医療知識の発展。金銀、宝石、大邸宅、地所、株式、高価な衣服。日本だ、アジアだ、アメリカだ。21世紀は、中国が発展する「中国の世紀」だ。日本は、アメリカでも中国でもロシアでもどこかの強い国の属国になって、日本のものを買ってもらえばいい。

 「彼らは、この世のことだけにしか興味を持たない。」(フィリッピ3:19)

 私たちの主イエズス・キリストの福音とは、何でしょうか?
 馬草おけに休むイエズスは、私たちに謙遜と清貧と柔和を教えています。
 幼き宇宙の王は、現代文化に抗議しています。

 「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて子どものようにならないなら、天の国には入れぬ。だれでもこの子どものようにへりくだる人が、天の国でいちばん偉い人である。」(マテオ18:3-4)

 謙遜、信仰、これが私たちに本当の幸せを与えてくれます。
 科学と技術は、第1に必要な目的ではなくて、副次的な手段です。

 幼き私たちの主は、マンモン(富)と快楽への隷属に対して抗議します。

 「心の貧しい人は幸いである。天の国は彼らのものである。」(マテオ5:3)

 本当の富は、私たちが何を持っているかではなく、私たちが何であるか、によるのです。

 「実に、主イエズス・キリストを知るという優れたことに比べれば、その他のことは丸損だと思う。・・・キリストを得るためにはその全てを芥だと思っている。」(フィリッピ3:8)
 私たちの主イエズス・キリストは、私たちに、このことを教えています。
 天主は限りなく偉大であり、人間は無に等しいことを。

 私たちの主イエズス・キリストの前で、全ては膝をかがめます。
 全ては、草木のように、古着のように、消えてなくなりますが、
 私たちの主イエズス・キリスト、天主の御言葉は、永遠に留まります。
 私たちの主の御稜威の前では、全ての人と出来事はその影に薄れます。


 最後に、兄弟の皆様、私たちは馬草おけに眠る私たちの主の前に跪きましょう。
 私たちは、福音と現代文化とのどちらかを選ばなければなりません。
 この天主なる幼子は私たちに何を求めておられるのでしょうか?

 それは、私たちが、まず、天のいと高きところにおいて、天主に栄光あれ!と歌うことです。
 天主の聖名が、天において尊まれるが如く、地にも尊まれんことを!と願うことです。
 私たちが、天主の絶対の権利を宣言することです。

 天主は天主です!
 人間は人間に過ぎません。
 天主は、主であり、人間はその僕です。
 創造されたものは全て創造主に属します!
 天主の権利は人間の権利の上にあります!
 天のいと高きところにおいて、天主に栄光!
 これが、カトリックの宗教の教えです。
 これが、私たちの主イエズス・キリストの福音です。
 全ては、天主を中心とする、これが、真の宗教の神髄です。

 試験合格、健康、事業成功、金儲けのためにあるのではありません。
 宗教の目的は、勤勉で忍耐強い国民を作ることにあるのではありません。
 教会は、ソーシャルワーカーの社会奉仕の団体では、ありません。
 真の宗教は、確かに、信者を勤勉で忍耐強いものとし、社会奉仕を喜んでするかも知れませんが、その最も中心的なものは、天主への愛です。
 真の宗教は、天主の御旨を知り、これを愛し、これを実行することを私たちに教えます。

 ですから、カトリック教会は、聖伝のミサで私たちをしてこう祈らせたのです。

今日、御身の御ひとり子を導きの星によって
異邦人たちに啓示し給うた天主よ、
既に御身を信仰によって知った私たちが、
御身のいと高き御稜威の目の当たりに見奉るまで導かれるよう、
憐れみ深くなし給え。

 ですから、私は、コルベ神父様がまだ神学生だったとき、ご自分の母親に或る復活祭に願ったことを同じことを、この新しい2003年において兄弟の皆様に願いたいと思います。

 「兄弟の皆様、私は、兄弟の皆様のために、健康も繁栄も祈りません。何故かと言いますと、私はそれよりも優れたもの、天主もそれ以上のものを兄弟の皆様に希望できないほど、良いものを、希望するからです。いとも憐れみ深い聖父の御旨が、万事において、兄弟の皆様に行われること、兄弟の皆様が、万事について、天主の御旨を行うこと、これです。これが、兄弟の皆様のために、私が願いうる最良のものです。天主ご自身も、兄弟の皆様のために、これ以上のものを希望することが出来ないでしょう。」
(「アウシュビッツの聖者コルベ神父」聖母文庫p39)

2003年1月6日
主の御公現の大祝日に、
ニュー・マニラ(フィリピン)にて

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)