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第57号 2002/10/25

第二バチカン公会議
第二バチカン公会議

アヴェ・マリア!

 第2バチカン公会議の開催40周年を期して、カトリック者、すなわち司教、司祭、平信徒は、2002年10月4日から5日まで、フランスのパリにある聖ピオ10世大学研究所においてシンポジウムを開いて集いました。その閉会の時に出された「閉会宣言」を今回皆様にお届けします。


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神学国際シンポジウム
2002年10月4日~6日

第2バチカン公会議とは新しい宗教への導入であった

閉会宣言

 第2バチカン公会議の開催40周年を期して、カトリック者、すなわち司教、司祭、平信徒は、2002年10月4日から5日まで、聖ピオ10世大学研究所においてシンポジウムを開いて集った。彼らは教義決定のためではなく司牧公会議たろうとしたこの公会議の文書を、教会の聖伝の光に照らして研究した。第2バチカン公会議の教えは互いにつじつまが合っていることが明らかにされた。彼らは次のように第2バチカン公会議をまとめることを提案する。

第2バチカン公会議の教えの要点

1 革新的である: 「今日人類が生きている新しい時代」(現代世界憲章4番 第2段落)の測りに従って、霊的秩序に置いてでさえも、新しいキリスト教を作り上げようとする。これは、歴史家たちや社会学者たちに言わせれば、別の一つの宗教を作り上げることである。変わらない信仰という主張にもかかわらず、宗教は、諸教義の間を結ぶ絆をずたずたにする霊的「現代化」(アジョルナメント)によって、深く変形した(エキュメニズムに関する教令 第11番 真理の間の位階秩序について)。

2 目的を覆す: キリスト者とその天主との新しい関係は「人間への奉仕」(現代世界憲章 第3番)の観念に要約される。実に、人は「天主がその被造物のために創った唯一の被造物」(現代世界憲章 第24番 3段落)である。人は、この世の次元に置いて、「全てのことの中心であり頂点」(現代世界憲章 第12番第1段落)として現れる。人は、教会それ自体にとって目的となり、教会は今後、人間にとっての「秘蹟、すなわち印であり道具」(教会憲章 第1番)と自己定義する。この人間のための奉仕という考えは、宗教の中心を形成していることを覆す。何故なら、人の召命とは、愛徳において、天主への奉仕と教会への奉仕また隣人への奉仕に自己を置くことにあるからである。

3 宗教の源は良心である: 宗教的真理は、人に固有の光によって(信教の自由に関する宣言 第1番)人の良心に現れる(信教の自由に関する宣言 第1番と3番)。信仰の諸源泉について取り扱っている「神の啓示に関する教義憲章」は、ご自分を啓示する天主の権威ゆえに私たちが信じていることを言わないばかりか、信仰を天主によって始められた(神の啓示に関する教義憲章 第2番)「救いの対話」(神の啓示に関する教義憲章 第5番)への人間の実存的な答えであると提示している。この文書においては、信仰の遺産がもはやその客観的で不可変的な内容をもつと言うことは述べられずに、「生きる聖伝」(神の啓示に関する教義憲章 第12番)において伝えられ、この「生きる聖伝」によって「教会は諸世紀に亘って天主の真理の充満に向かって常に向かう」(神の啓示に関する教義憲章 第8番)

4 祝い(celebration)の神学: 典礼はこの新しい宗教を表現する特別のものとならなければならない。今後、キリスト者は、洗礼によって聖別され、聖なる典礼様式と司祭職とを受けることが出来るようになる(教会憲章 第9から11番)。典礼憲章の根本的なテーマは平信徒の「積極的な参加」であり、それは聖ピオ10世教皇が望んでいた熱心な参加のことではなく、典礼様式を実際に執り行うものとしての会衆の参加のことである。祝い(celebration)は、十字架の記念ではなく、最後の晩餐の記念として提示され、そこでは会衆が自分自身を捧げる。

5 教会は秘蹟となる: 「第2バチカン公会議の教会」(1965年12月7日のパウロ6世の第2バチカン公会議閉会の言葉)は、人々において目に見えない天主が現存していることの印でのみあろうとする(エキュメニズムに関する教令 第2番)。これは教会が霊魂を救うことのできる唯一の社会であるということを放棄することである。印として、教会は天主の真の御国が来たらんために仕える一つの手段(教会憲章 第1番)であり、この天主の御国は全宇宙に広がっている(教会憲章 第5番)。秘蹟としての教会という教えは、第2バチカン公会議以降古典的な教えとなったが、この主題を体系づけている。この教えは私たちをして、人が洗礼によってそれに属する目に見える社会としての教会という現実、カトリック信仰の表明、正統な牧者たちへの従順ということを遠ざけてしまっている。

6 全人類は王国として提示される: 諸宗教はこの王国へと集約される(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言)。この王国は、人類全体が一致へと向かっている限りにおいて、その人類と同一である(教会憲章 第1番、現代世界憲章 第42番 第3段落)。第2バチカン公会議の教会は、その他の公的機関と共に、この常にいや増す一致に奉仕しなければならない。その一致の印は、ヨハネ23世が言っていたように時の印であり、世界平和のために、「全ての物事の社会主義化」(すなわち富を分かち合うこと)、「人権の要求」(現代世界憲章 第41番 第3段落)、霊的価値を共に気遣うこと(すなわちエキュメニズムや諸宗教の対話)(現代世界憲章 第42番 第1段落)である。(私たちの主イエズス・キリストが社会的に統治する王国を通して築き上げられる)キリスト教世界という聖伝に基づく考え方は時代遅れのように見え、教会は人類の一致を促進するのに唯一相応しいものとして、国家がいかなる宗教を信じず世俗性を保つものであるというリベラルな考え方へと公式に軌道を逸れた。この軌道修正はキリスト教の輝きの条件であるように現れ、第2バチカン公会議の教会に政治的目的を授けている(現代世界憲章 第42番 第2段落)。

 「人類の一致」とはキリスト教的な考えではなく(ヨハネ5:28-29)、フリーメーソンの伝統に従ったグノーシスの計画(1737年のラムゼイの演説)であり、第2バチカン公会議以前にテイヤール・ド・シャルダンが神学の対象としたことがある、ということを注意するべきである。

7 人類の霊的一致: 神学的には、人類の一致というこの考えは交わりの程度の形というに従っている(エキュメニズムに関する教令 第3番)。人類の宗教的一致を促進するために、教会は自分の過去の過ちを悔い(エキュメニズムに関する教令 第3番 現代世界憲章 第19番 第3段落、第21番 第5段落)、全ての宗教のグループらと対話をし(パウロ6世「エクレジアム・スアム」1964年)なければならない。全ての宗教のグループにカトリック教会へと回心するように求めることはもはや必要ではない。なぜなら全てのキリスト者たちは、カトリック者でないとしても、洗礼によってキリストと既に一致しており(教会憲章 第15番)、非キリスト者たちは天主の民になるようにと秩序づけられており、自分たちの宗教において「御言葉の種」を持っている(教会の宣教活動に関する教令 第11番)、と第2バチカン公会議が主張するからである。

8 救い: 人類の一致の歴史的な増進のうちで、天主の御子の御托身は「ある意味において」全ての人をキリストと同一化した(現代世界憲章 第22番)。人が救われるか永遠に滅びるかということに関する基本的な質問は、その緊急性を失った。今後、公会議後の司牧は原罪と人間本性の堕落について語らなくなる。救いとは「自覚すること」になった。

結論

 第2バチカン公会議は、カトリックの聖伝と根本的な断絶として現れている。

 一方で、カトリックの聖伝は全てが天主、天主の賛美と天主への奉仕を中心としているが、第2バチカン公会議は、主に人間のペルソナを高揚し、人類の一致を実現させるための新しい宗教の基礎を置いたと考えて言いすぎではない。

 シンポジウムのメンバー(62名、そのうち25名が平信徒)は、第2バチカン公会議の前夜まで、忠実な信者たちが生きてきた、そして全ての教皇たちが教えたままのカトリックの宗教へのひたすらに執着することを態度確認する。

French original at:
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=78


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 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)