マニラのeそよ風

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第23号 2002/08/05   雪の聖母の祝日


アヴェ・マリア!

■ 質問です

 カトリック新聞に四国の某教区でトラブルの原因になっているネオ・カテクメナートゥスという団体が教皇庁から会則の認可を受け公認されたという記事が出ていましたが、これについてピオ10世会はどう思われますか?(2002年7月4日)


■ お答えします

 ご質問ありがとうございました。以下は、聖ピオ十世会の公式の立場というよりも、聖ピオ十世会所属の一司祭として、ご質問に答えたいと思います。

 ネオ・カテクメナートゥスが公認されたというのは、残念です。なぜなら、この運動の創立者は異端(カトリックではない教え)を説いているからです。この運動についてはこのホームページの関連リンクをご覧下さい。

 更にいうと、残念ですが、またか、と言う感じです。何故かと言うと、キアラ・ルービックによって創立され公認されたフォコラーリやその他のカリスマ運動の団体のことを考えると、そのようなたぐいが多くあるからです。あまり驚かなくなってしまいました。(このようなことに慣れてしまうというのは、恐ろしいことなのでしょうけれども。)

 カトリック教会の中でいま最も中心的な活動になってしまった、教皇様のご指導のもとになされている「アシジの諸宗教祈祷集会」を初めとしたエキュメニズム運動や公認のカリスマ運動の団体の活動などの革新的な動向をどう見るべきなのか?と、ますます考えざるを得ません。

 「ヨハネ・パウロ2世は○○をしている。ヨハネ・パウロ2世は教皇様だ。従って私たちは教皇様を言うこと為すこと全てを信じ、これを支持し、これに盲従しなければならない。教皇様がたとえカトリック教会の2000年の聖伝と実践に反したことをしていても、これに盲従しなければならない。もしヨハネ・パウロ2世に盲従しないのなら、私たちはカトリック教会から離れたことになる。私たちには盲従か、さもなければ離れるしかない。」
とか、あるいは、

 「ヨハネ・パウロ2世は○○と言っている。ヨハネ・パウロ2世は教皇様だ。従ってヨハネ・パウロ2世の言うことは全て真理であって、カトリック信仰としてこれを全て信じ、支持しなければならない。もしヨハネ・パウロ2世の言うことを全て信じないなら、私たちは異端者になる。(次の教皇様がヨハネ・パウロ2世と正反対を言ったら、今度は次の教皇様を信じるべきだ。現教皇様が何を言っているのであれ、たとえ過去の教皇様たちの反対のことを言っていても、現行の教皇様が言っていることはすべてカトリック的である、と考えなければならない。)」
とか、またさらには、

 「ヨハネ・パウロ2世は○○をしている。もしヨハネ・パウロ2世が教皇様なら、私たちは従わなければならない。もし私たちがヨハネ・パウロ2世に従わないのなら、私たちはヨハネ・パウロ2世が教皇ではないというべきである。」というような論理を見直さなければならないと言うことです。

 第1バチカン公会議が宣言するとおり、カトリック教会の信仰は、教皇様の不可謬の教導職を教えています。しかし、これは教皇様の言うこと為すこと全てが全て不可謬ではなく、そのための条件が整った時にそうであると教えています。ましてや「教皇様が罪を犯すことが出来ない」というのは教会の信仰箇条ではありません。

 第1バチカン公会議によると、教皇様の不可謬は次の条件が満たされた時です。歴史上にはその条件を満たさず、個人の資格で誤りを教えた教皇様もいました。その条件とは、

(1) 教皇が全キリスト信者の最高の教師及び牧者として(単なる一司教、一教師としてではなく)語ること
(2) 全教会が守るべきものであるという意向が表明されていること
(3) 信仰と道徳に関すること
(4)  最高の使徒継承の権威によって改正できないものとして決定すること

以上です。


 第1バチカン公会議は、荘厳に宣言しています。

(DzS3070) 聖霊がペトロの後継者たちに約束したのは,聖霊の啓示によって,新しい教義を教えるためではなく,
 聖霊の援助によって,使徒たちが伝えた啓示,すなわち信仰の遺産を確実に保存し,忠実に説明するためである。・・・

(DzS3074) 教皇が教皇座から宣言する時,言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として,その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時,救い主である天主は,自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した天主の助力によって,不可謬性が与えられている。そのため,教皇の定義は,教会の同意によってではなく,それ自体で,改正できないものである。

 カトリック教会の過去には、4世紀の教皇リベリウス、6世紀の教皇ヴィジリウス、7世紀にでた教皇ホノリウス、14世紀の教皇ヨハネ22世などの教皇様たちがいました。しかし私たちはこれに躓きません。なぜなら、これらの例をよく見ると、教皇の不可謬権の行使には関わっていなかったことが分かるからです。

 さて「教皇による修道会の決定的な認可は教会の不可謬権によるものである」と言う命題は、カトリック信仰の教義ではありませんが、神学上確実であると考えられています。なぜなら、

* 教皇が全キリスト信者の最高の教師及び牧者として(単なる一司教、一教師としてではなく)、
* 全教会のためという意向で
* 私たちの主イエズス・キリストご自身が下さったものとしての聖徳の手段として、修道会の会憲が霊魂の聖化に相応しいものであると(つまり信仰と道徳に関すること)
* 最高の使徒継承の権威によって改正できないものとして決定する、
と考えられているからです。

 ネオ・カテクメナートゥスの公認に話を戻します。2002年の公認は決定的でいかなる改正も許さないものだったのでしょうか? ニュースによると暫定的なものだとのことです。またこの公認は「修道会」に関するものでなければなりません。修道会は、清貧・貞潔・従順という3つの誓願を立てる修道者たちの団体です。ネオ・カテクメナートゥスは、その意味で「修道会」なのでしょうか? 結婚した平信徒たちも参加しているところから見ると、そうではないように思われます。ですから、今回の公認には、カトリック教会の不可謬権が行使されているものとは思われません。

 またカトリック教会が修道会を認可したとしても、或る特定の状況においてこの特定の修道会を認可するのが賢明であり時宜を得たことであったと言うことまでも不可謬であるとは限りません。ですから、たとえ決定的に認可されたものであっても、万が一、非常に重大な理由があるのなら、(例えば、この団体がリベラルなメンタリティーを教会内に醸しだし教会を混乱に陥れるなどという危険がある、など)「賢明」という理由を持って、そのような団体の廃止を求めることが出来ると考えられます。

ニューマニラにて
文責:トマス小野田圭志


トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)