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第5号 2002/06/07 イエズスの至聖なる聖心の祝日


アヴェ・マリア!

 皆さんこんにちは! マニラの eそよ風 第5号です。

■ 6月はイエズスの聖心の聖なる月です (3)

 今回は、ピオ12世教皇が私たちの主イエズス・キリストの聖心について書いた回勅「ハウリエーティス・アクワス」の抜粋を少し読むことにしましょう。


 「ある人たちは、この私たちの主イエズス・キリストの聖心への信心が、教会や人の精神的な要求に対し、適当でないばかりでなく、有害であるとさえ思う偏見に捕われています。この信心と、教会が承認し奨励はしても、命令はしない種々の信心業とを混同し、これをその本質と思っている人もいないとはいえません。この理由で、彼らは、聖心の信心は、単に各人の好みによって取捨すべき付随的なものであると思っています。また、特に、キリスト教を守り、知らせ、発展させ、あるいは、社会問題に対する教会の教えを伝え、信心生活や宗教事業を推進させようと自分の力と時間と財産を使って、天主のみ国のため戦っている人たちにとって、この信心は、重荷になり、無益かまたはほとんど役にたたないと考えている人もあります。近代では、すべて活動のほうが、もっと必要であるというのです。さらに、この信心は、各人の私生活、家庭生活における、キリスト教的生活の育成、更新のため、たいした役割を果たさないと決めこみ、これは、理性と心よりも、むしろ、感情に訴える信心業で、婦女子に適当かも知れないが、教養ある男子にはあまりそぐわないものであると思っている人々もあります。」

 「また、この信心は、外的に何の効果ももたらさない、いわゆる受動徳、痛悔とか償いなどを主として要求しておりますので、現代の信心を育成するためには不適当だとしている人もおります。現代の信心は、おもに外に働きかける積極的努力、カトリック信仰の勝利、キリスト教的道徳を堅固に保つことの方に向かっていなければならないと考えているのです。実は、現代において信者の道徳生活はご承知のように、思想および行動の真偽の区別を無視し、どんな宗教をも同一視する人々の誤りに傾いています。したがって、非常に残念ですが、信者の道徳生活は、無神論的唯物論や世俗主義に染まっているということができます。」

 「以上のような見解は、至聖なるイエズスの聖心の信心を認可し、公布した諸教皇の教えと、全く相反していることは今さら言うまでもありません。レオ十三世が、この信心を、「もっともすぐれた信心」であると激賞され、現代、広く、激しく、個人と社会全体を悩まし、惑わし続けている諸悪を治療するための疑う余地ない妙薬をこの信心の中に認められたことを考え合わせると、これが役にたたないものであるとか、今の時代に適性を欠いた信心あるとかどうして主張することができましょうか。」

 「教皇ピオ十一世も、この信心がキリスト教的信心の育成にふさわしいものであると公言され、その回勅の中で言っておられます。この信心の中には、あらゆる礼拝方法と完全な生活への規範が含まれているのです。それは、容易に、いっそう深く主キリストを知るよう人々を導き、そのうえ、熱誠を込めて愛し、より正確に模倣するように人々の心を強く動かすものです」(回勅「ミゼレンティシスム・レデンブトール」)。

 「わたしもまた、先任者に劣らず、この真理の重要性を明らかに認め、証するものです。」 ・・・ 

 「モーセが天主と民族との間に結んだ契約はエレミヤが預言した新しい契約の象徴にすぎません。しかし、この新しい契約は恩恵を与える、人となったおん子の働きによって制定された契約であることを福音書から確実に知るのです。この契約は、以前の契約のように、やぎや小牛の血によって結ばれたものではありません。その従順な動物を前表とした、「他の罪を除きたもう天主の小羊」(ヨハネ1・29)の清いおん血によって結ばれたものです。それゆえ、新しい契約は、このうえもなく崇高、堅実なものであることがわかるのです。実に、キリストの契約は、昔の契約より、はるかにすぐれた方法で、しかも、奴隷的な精神や恐れに根ざすもではなく、父と子の間になくてはならない愛によって結ばれたものです。福音史家ヨハネが「私たちはその満ちあふれるところから、恩恵につぐ恩恵を受けたのである。なぜなら、律法はモーセを通じて与えられたが、恩恵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たのである」(ヨハネ1・16-17)と言っていますように、天主の恩恵と真理のあふれるばかりの注入によって養われ、強められた契約です。」・・・

 「贖いの奥義は、それ自身おん父に対する正義を果たすキリストの愛の奥義です。キリストは、愛と従順の心をもってお捧げになった十字架の犠牲において人類の罪に対しておん父に限りない贖いをささげました。・・・」

 「贖いの奥義はさらにすべての人間に対する至聖三位と天主である救い主の慈悲からでる愛の奥義です。天主と人間の間の友交の契約は、アダムの罪によって、楽園で最初に破られ、それに続いて選民の無数の罪によって犯されてきました。私たちはその罪を完全に贖うことはできないのであって、無限の功徳をもって、あの友交の契約を回復し、まったく完成なさいました。天主なる救い主は私たちに対する無比の愛から、人類の義務および負債と天主の権利とを調停なさいました。」

 「キリストのご受難によって、人間が救われたとは、天主の正義だけでなく、その慈悲にもかなっていると言わなければなりません。正義にかなうとは、キリストが人類の罪のために償いをなさったからです。したがって、人間はキリストの正義により、自由の身となりました。慈悲にかなうとは人間が自分の犯した罪を自分で償うことができないので、天主がそのおんひとり子を贖い主として賜わったからです。これは、天主がどんな償いも要求なさらずに、私たちの罪をゆるすより、もっと大きな慈悲の表われなのです。これをパウロの次のことばで表現することができます。「慈悲に富む天主は、私たちを愛されその大きな愛によって罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かした」(エフェゾ2・4)。」・・・

 「イエズス・キリストは、真のからだとともに、それに属する一切の感情、特にそのうちにすぐれている愛情をもおとりになったことを凝ってはなりません。同様に、人間がその肉体のすぐれた器官なしに、生活、特に感情生活をなし得ないことから、キリストが私たちとまったく同じ心臓を備えておられたことを認めない訳にはいきません。それで、おん子のペルソナに結合されているイエズス・キリストの心臓は、確かに、愛および他の感情の衝動によって脈打っていたのです。しかもこの愛は、天主の愛に満たされた人間としての意志と、おん子として、おん父および聖霊とともに共有する無限の愛と、完全に一致結合しておりました。キリストの聖心にはこの三つの愛の間のなんらの不調和や対立も存在しなかったのです。天主のみことばは、真に完全な人間の本性を取り、さらに、苦しみ、傷を受けることができる私たちと同様な心臓をご自分のために作り備えたのです。これは、ただ位格的結合の観点からのみでなく、ご托身の極みである人類の贖罪の立場から考えてみないと、ある人にとっては愚かなことになるのでありましょう。実は、十字架にくぎづけられたキリストの姿が、まさしくそのように、ユデア人と異教徒に見られたのであります(コリント前1・23)。」

 「そして、天主から啓示された教えのまことの証人である教父たちは、使徒聖パウロがすでに明らかに述べたところに注目しています。すなわち、天主の愛の奥義は、ご托身と贖罪の出発点であるとともに絶頂でもあり、イエズス・キリストが、私たちと同じ朽ち果てる弱い肉体をおとりになったのは、私たちに永遠の救いをもたらすためで、その無限の愛を、はっきりと感覚的な面においてさえも、現わそうとなさったからであると教父の著作のうちに明らかに述べられています。」

 「人となったおん子の心臓が、天主なる救い主の永遠のおん父と全人類に対する絶えざる三重の愛の主要な印やまたは象徴と当然考えられます。すなわちおん子は、おん父と聖霊とともに分かち合う天主的な愛の象徴です。これはその天主的な愛が、天主の充満性をかたちをとって宿らせる(コロサイ2・9)人となったおん子のそのはかない、もろいからだを通じてのみ、私たちにあらわれた愛となったからだです。また、更に、その心臓は、キリストの魂に注がれその忠志を豊かに満たし、燃やす愛の象徴です。その愛からほとばしり出る行為は、もっとも完全な二重の知識、つまり、至福知識と注賦知識によって、照らされ、導かれたものです。(神学大全Ⅲq・9・aa・1-3)。」

 「このようにして、聖書の教えと教会信仰についての宣言とは、イエズス・キリストの至聖なる聖心のうちに、このうえない一体性と調和が存することを私たちに教えています。その中に、聖心がご自分の三重の愛をもって、私たちの救いを達成するようにとり計らったこともいわれています。したがって、私たちは、この天主である救い主の聖心を、キリストの愛の意味深い象徴、また私たちの贖いの証拠として崇敬し観想することができるのです。また、「私たちの救い主なる天主」(ティト3・4)のおんもとに登っていくための神秘的なはしごと、見なすことができるのです。ですから、キリストのみことばと行動、教えと奇跡、また、特に、私たちに対する愛をはっきりと証明するかずかずのみわざ‥‥例えば、ご聖体の制定、いとも残酷なご苦難とご死去、そのいとも清いおん母を私たちに与えられたおん恵み、私たちのために教会を創立なさったこと、そして最後に、使徒たちと私たちに聖霊をおつかわしになったこと‥‥このすべてのわざを、聖心の三重の愛の証拠として私たちは賛美するほかないのです。それに、至聖なる聖心の鼓動を、愛をもって黙想するのはふさわしいことです。この鼓動によって、キリストはその最後の瞬間に至るまで地上の歩みの時を刻まれたのです。すなわち福音史家がしるしたように「イエズスは、ふたたび大声で叫んで、『すべては成し遂げられた』と言い、みかしらを垂れて、息絶えた」(マテオ27・50、ヨハネ19・30)のが、その最後の一瞬でありました。このようにして、その聖心の鼓動は止まり、その感覚的な愛は、墓からよみがえり、死を克服するその時まで途絶えたのでありました。しかし、キリストのおんからだが永遠の光遠の光栄の状態に入り、死にうち勝った天主なる救い主の霊魂とふたたび合体されてから、また、イエズスの至聖なる聖心は、平和な鼓動を取り戻しました。それからは、もはや決してと絶えることはないのです。同じく、聖心は、おん子をおん父に結び、また、全く神秘的なかしらであるキリストを全人類に結ぶ、あの三重の愛をも現わし続けるのです。」

(つづく)

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)




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